ミスラス(神話戦記)

アーモンドアイ

第五章 ラビリントス

第66話 古びたツルギ

 僕はヘルメス。

 僕がユッグ・ドーと再会したのは、それから数日後のこと。


「ヘルメス」

 と呼ばれて振り返ると、旅人が二人、案内役を伴って歩いているのが見えた。旅人と言えば、着替えもない薄汚れたボロを着ていればまだいいほうで、匂いのある毛皮や裸同然のものも少なくない時代。


 その旅人は、白い襟付きシャツにボタンがならんだ上着を羽織った軽装の剣士だった。その出で立ちを見れば、僕でなくとも、


「ユッグ・ドーさん」と叫びたくもなる。


 こんなこじゃれた男が他に居ただろうか。


「どうしてこんなところに?」

 と僕は野菜を洗う手を止めて、立ち上がっていた。この時の僕は村で野菜を洗う仕事を手伝っていたところ——。


「あんたたちは上客だからな。金をもらってそれっきりという関係でもないだろう。先日の船団を手配したのは俺だしな。結果としてそれが良かったのか悪かったのか、知っておきたいというのもある」


「船団?」

 僕には咄嗟に何のことかわからなかった。


 僕がユッグ・ドーを尋ねてキリーズの町に行った時に依頼したのは、ザッハダエルへの傭兵団派遣の件だ。


「ここにいるチイ先生から直接依頼のあったやつだ。お前たちを助けたいと言われて、俺もそれなりに手を貸したんだぞ? おかげでミツライムまでに旅は最悪だった」


「ああ、僕たちがミツライムに行ってた時の?」


「それだ」


「チイ先生から聞きましたよ。ユッグ・ドーさんのところで手配した海賊船でミツライム軍を足止めして、それから僕たちを心配して追いかけてきてくれたって。あの時、チイ先生が来なかったら、僕死んでましたよ。ユッグ・ドーさんにもお礼言っておかなきゃいけませんでした」


「そう、その海賊船みたいなのを手配したのが俺で、その海賊船に乗って、ミツライム軍と一戦交えて死ぬ思いをしたのも俺だ」


「ええ? そこまでしてくれていたんです?」


「まあ、その分報酬は頂いたから、今さら礼なんていいが」


 ユッグ・ドーはそこで、周囲を見回した。「ところで、その後はどうなった? お前がいるってことは、ナタもリッリもシェズのお嬢ちゃんも助かったってことか。一応これでもお前らのことを心配していたんだ。ミツライムのほうではかなり大変なことになっているようだが」


 彼が少し距離を置いたのは、予期しない悲報に備えてのことだったかもしれない。


 僕が、

「お陰様でみんな元気ですよ」

 と言えば、ユッグ・ドーは途端に距離を詰めてくる。安堵した表情は数ヶ月ぶりだと言わんばかりだ。


「そうか」

 というわけで、そんなユッグ・ドーに、僕には他にも言いたいことがあった。


「そうですよ。僕だけがミツライムに取り残されて、結構彷徨っていたんです。道は間違えるし、死体掘るのを手伝わされるしでもう。そしてナタと合流してみたら、みんなカナンに行った後で、なんか盛大に盛り上がったらしくて、僕の分だけご馳走もなくて」


「お前のほうにもいろいろあったんだな」


「で、今はこれです。僕に野菜とか洗わせて、みんな倉庫のほうですよ」


 僕が憤っている理由はこれ。

 ナタもリッリもシェズもミツハちゃんもみんな倉庫。


「お前だけはぶられてるのか?」


「本当は僕とナタが当番だったんです。でも今さっきイザリースに放置されていた武器が持ち込まれたとかで、ナタが目を輝かせちゃって。でも仕事を放り投げるわけにもいかないから、僕にやっとけってさ——。狡いと思いません?」


「たまたまそういうことがあったってことか。嫌だったらちゃんと断ることも大切だな」


「断れないじゃないですか。ナタは友達だし。武器を見ても僕が使うわけじゃないですし」


「じゃあ。一緒に行きたいって言うべきだ」


「それだと、野菜洗うのって誰がやるんです?」


「めんどくさいな」


「ふん」

 僕は鼻息で答えた。


 ただユッグ・ドーと出会えたのは幸運。


「そうだ。僕がみんなのところに案内しましょうか?」

 そんなことも言えるようになる。


「いいのか、野菜洗わなくて」


「だって。キリーズから知り合いが来たのに放っておくなんてできないじゃないですか。きっとみんなわかってくれます」


「野菜洗うまで待っていてやろうか? そのほうがそっちにとっても都合が」


「待たなくていいです」


「野菜なんてすぐ洗えるだろう」


「ユッグ・ドーさんが来たらみんな喜びます。すぐに会うべきです。今はみんな倉庫のほうにいるはずだから、今がチャンスなんですよ」


「ヘルメス?」


「なんです?」


「まあ、今回は俺が急かしたことにしておいてやろう。お前と俺の仲だ。案外お前も寂しがり屋さんだな」


「寂しいとかそういうのじゃないですよ。イザリースからなんかみんなが驚くような武器を持って来ているんです。僕だけのけものなんて狡いんですよ」


「武器か」


「見てみたくないです?」


「イザリースって言えば、鉄の武器が有名だ。それもどれもが高値のつく匠の剣だ。興味がないと言ったら嘘になる」


「でしょ?」

 僕にあるのは好奇心。


 つまり新しい武器を見にいったナタ。ナタが気になるその武器を僕だって見てみたいに決まっている。


 そしてこの時、僕はついでに隣の少女について尋ねていた。


 今回の冒険のキーパーソンと言えば、この少女のこと。傍に居ても誰とも顔を合わせようとしない。その瞳はガラスのようで、その仕草はおおよそ冒険者らしくない。


「それ誰です? ユッグ・ドーさん、新しい助手でも雇ったんですか?」


「こっちは客だ。俺では対応に困る商品を探していらっしゃる。ここに来るついでに案内しただけだ」


「対応に困る商品って何です?」


「賢者の石だ」


「賢者の石?」


「お前に聞いても無駄だろう。リッリが詳しいはずだ」


「ふーん」

 僕はもう一度、旅装束の少女のほうを見た。「石を探すなんて変な話ですね。不思議なものを欲しがるのはギリシャの貴族くらいだと思ってました」と言いたいけれど、彼女からは本気の目。


 僕としてもこの話、まずは賢者の石が何なのかってところを押さえておかないといけなかった。

 

 そうこうしている内に、

 奥の倉庫を見れば、そこにだけ人影が見えていた。今の状況尾を説明しておくと次のような成り行きだ。


 僕が知る限り、

「冬にはヒルデダイト兵士もいなくなるだろうってことで、冬のうちにイザリースの廃墟から使えるものをいろいろと運んでいるんです。また新しい鍛冶場を作るんだってみんな張り切ってます」

 というあらまし。


「新しい鍛冶場? ここで鉄の武器でも作ろうっていうのか」


 ユッグ・ドーには興味津々なことだっただろう。「鉄の武具と言えばヒルデダイトや、トラキアが有名だ。鉄製の武具がカナンで作られるのなら大変なことになる」とは商人の予測。


「そこまで大げさな?」


「その利益は、現状のカナンやキリーズ、つまりここら辺一帯を見たこともない商業都市に変えることになるだろう」


「こんなところが商業都市になりますかね」


「歴史を見ればわかる話だ。鉄や金といった鉱石を求めて民族がさすらい、開拓が始まる。鉄から帆船や馬車も作られるわけだ。行動範囲も広くなっていく。ますます鉄の価値が高まると、より大きな富を求めて人が出て行くようになる。そして集まるようになる」


 ユッグ・ドーは次のようにも言い換えた。


「俺たちにとっては、まるで鉄こそが賢者の石のようなものだ。たちどころに世界を変えてしまう」


「鉄?」

 アリアドネにはぴんとこないだろうが、


「鉄の武具は貴族達がこぞって買ってくれる。戦争のような焦臭い話も多くなってきた時勢だ。そこだけを見てもこれが如何に重大な意味を持つかがわかるだろう」


 これは大げさな話ではなかった。


 実際に目の前でも、鉄がある場所におのずと人が集まっている。


 小屋の中の荷馬車では、今まさに大人が数人がかりで荷物を下ろそうとしているところだ。ボロを被せて中身が見えないようにするのは、それが貴重な鉄だからだろう。縄を何重にもして縛るところからその重量が知れる。木材などと違って鉄は重い。


 僕たちはこの時、目を輝かせていた。


 これからボロの覆いを剥がそうというタイミングだ。そこにあるものがミスリルでもオリハルコンでも驚くつもりはないが、どちらにしろ目の離せない瞬間になる。


 僕にもわかる、梱包された金細工のアクセサリーや、鉄の武器を初めて見る時の高揚感。ユッグ・ドーに言わせれば新造された船を客に手渡すときも似たような興奮があるだろう。とくにここはサムライたちの本拠地だと言うのだから、ボロの中から何がでるのかわからない。


「縄を解くぞ。そっちしっかり押さえておけ」


「刃には触るなよ。魂さえも引き裂かれるぞ」


「剥がせるところから剥がしていけ」


 そんなやりとり。

 僕は胸を高鳴らせた。


 やがて見える、その金属の光を滑らせるような艶は、わかっていても僕たちの心を釘付けにしてしまう。

 荷台にあったのは武器だ。黒い装飾が施された巨大な斧のようにも見えた。


「なんだ。こりゃ」

 ユッグ・ドーが前のめりだった。


 土を被って何年も地中にあったかのような錆の色だ。なのにその造形には貴族のコレクションする飾り武器にもない繊細さがある。何より大きくて重いというのは殺傷力にも直結する要素。


 初めて見たユッグ・ドーだけでなく、周囲の男たちも大きく口をあけて動きを止めるほどの衝撃があった。


「斧か?」


 剣でも槍でもない。祭儀用の飾りでなければ斧なのだろう。錆びているはずの刃を見ればいまだに鳥肌が立つのだから、これは飾りなどではない。では何だ?


「この時代にあっていいような武器じゃない」

 あえてユッグ・ドーが言うなら、そのようなものだ。

 

 どれくらい見ていただろうか。気がつけば、僕の隣に赤頭巾のリッリや制服姿のシェズの姿があった。


 シェズの赤い制服は、ミツライムでの働きを評価してウズメ姫が作ってくれた装備だ。戦士も身なりからというものらしい。


 まあ、僕は身なりはあれだけど、チイ先生から正式に鉄剣をもらっている。これは一人前の剣士と証と受け止めていいのかどうか……。


 そんな僕とシェズの会話。


「こいつ死んでるらしいぜ。この斧みたいなやつな」

 とは腕組をしたシェズ。


 気になったのは、

「死んでる?」

 その意味だ。死んだ人間が土中に埋葬されるように、この武器が長い年月埋められていたのは事実かもしれない。


「セイズだか魂だか知らないが、ここにあるのはそれが入ってない失敗作だってさ。イザリースの墓から掘り起こしてきたらしい」


「へー」

 僕にとってはそんなことでも、


「なるほどな。使えない失敗作だと言うのなら、俺が引き取ってもいいが」

 ユッグ・ドーはさらに目を輝かせた。


「それは無理。直してから、あたしが使う予定だからだ」

 シェズはユッグ・ドーを押しのけるように前に出た。つまり彼女も目の前のお宝を狙っていたというわけだ。


 ユッグ・ドーは眉を吊り上げた。商売人ならば次の展開を考えたい。この武器が不完全であるというのなら、完成した時にはどうなるか知りたい。その上で出来る商売の話もあるだろう。


「武器は使ってこそだからな。しかし直すってのは、どういうことだ? 磨いて錆を取るってことか?」


「知らん。そういうのは、ナタがやってくれるらしいからな」

 シェズはそこで顔だけを背後に逸らしていた。そっちに聞けとでも言うのだろう。


 僕とユッグ・ドーはそして振り返る。


 背後に居たのは、ナタやリッリ。黒いコートの少女ミツハと職人らしい白い髭の男がいた。運搬してきた貴重な武器の扱いをめぐって今まさに話し合いをしているところだ。


 とくにナタは半年前にキリーズの店に訪れた時のまま。最低限ではあるが戦闘に備えた皮の防具を身につけていて、しかし退屈そうに腕を背後に回したりする。


 リッリは赤頭巾が気に入ったのか、いまだそういう恰好をしていた。そこから頭をひょっこりと出すのは愛嬌。


「お前ら」

 ユッグ・ドーからは、思わずそんな声が出ていた。「ミツライムで大変な事件が起きたって言うから、心配していたんだ。怪我でもしているんじゃないかと思っていたが、みんな何よりで良かった」それは彼がずっと案じていたことだった。


「そのことに関しては、ワレのほうこそ礼を言わんや。チイから聞いてり。海賊団を斡旋してミツライム軍と戦いや。ユッグ・ドー、それには感謝しやり、そろそろワレのほうからキリーズに出向こうと思うてりが、先を越されたりやら」


 赤頭巾は杖を持ち上げた。これが嬉しそうな彼女の仕草にも見えた。


 そうなれば商売柄、ユッグ・ドーからは、たわいない話にもなるものだ。

「あれはチイさんが俺に依頼をしてくれただけさ。俺は俺の仕事をしただけだ。礼を言われるようなことはしていない。礼ならチイさんにでも言ってくれ」


「なんでも狼の傭兵団にまた世話になったらしきや。その窓口をそれがしておりんや。ワレはまだその分の礼もしておりん」


「あいつらのことは気にしなくていい。そういう約束になっている。払うべき報酬は払った。後の気遣いは必要ないだろう」


 たいわいない話のついでに、

 ユッグ・ドーはさっそく切り出す。僕が興味あるのもその先の話。


「それはそうと、そこにある武器のようなものだが?」


 さっきから商売人を魅了する武器。挨拶以外の会話の中心にあるのは、斧のような武器だ。「こいつは何だ?」一人で持ち上げられないものが本当に武器なのかどうか。材質は何なのか。どこで作られたものなのか。いまだにユッグ・ドーには答えが出ていなかった。


 おそらくそれは関係者以外には見せることができない類いのものだろう。


 そこはキリーズの商人としてザッハダエルの事件やミツライムの事件で協力してきたユッグ・ドーのことだ。

「俺でよければ力になる」とひとこと声を掛ければいい。


「ユッグ・ドーに相談してみたほうが早いかもしれないな」

 前に出たのはナタだった。


「そうだろう。俺にできることなら何でも相談してくれ。あんたたちは上客だ。当然だが、商売人として秘密をばらすようなことはしないと約束しよう」


 このひとことも後押ししたかもしれない。


 こうして、

「月の剣」

 ナタは、ひとことそう呟いていた。


「月の剣?」

 それが何かと言えば、


「月の剣の作りかけというか、失敗作というか。ずっと隠されていたものだ。それをカグツチが知っていて、ここへ運んできてくれた」

 そのようにナタは言った。


「そいつが完成するとどうなる?」


「アマノツルギになる。イザナミが持っていた太陽の剣やアリーズが持っていた火の剣のようなものだ」


「魔法の剣ってところか。俺は太陽の剣も火の剣も直接見たことはないが、噂は聞いている。実際にこうして見ているだけでもそれとわかる。失敗というが、今のままでも人間が作ったとは思えない造形でびっくりしたところさ」


 ユッグ・ドーは、「なるほどな。こういう技術があるもんだな」察して、手を引っ込めた。


「使えればいいけどな」

 とはナタの言いぐさ。


「そういうことなら、目の前のそれは俺がどんなに望んだところで譲っては貰えないってことか。まあ、まずは完成したアマノツルギとやらを自分の目で見てみたい」

 これは単純に好奇心からだった。


 しかし、次のような問題がそこにある。


「完成させたいけど、こいつを扱える鍛冶師がいないんだ」

 つまりナタがユッグ・ドーに相談したい内容がここにあった。


「鍛冶場を作るって話をさっき聞いたぞ」


「カグツチが居るから窯はできる。だけど、火を起こしたり、鉄を叩いたりする奴がいない。ただの鉄の剣ならいいが、アマノツルギとなると窯の中に太陽を作ったりする必要があるらしくてさ」


「普通の鍛冶屋じゃ駄目だってことか」


「タケミカヅチがいるらしい」


「そりゃ何だ?」


「アマノツルギを叩く職人。カグツチには心当たりがあるらしい。それがギリシャのほうにいるんじゃないかって言うわけで今から探しにいこうかって思っていたところなんだ」


「ギリシャにそんな奴がいるなんて聞いたことがないが」


「なんか昔、その月の剣を叩いていた奴がひとり逃げ出したってさ。そいつの失敗で月の剣は完成しなくなって、親方はそいつが帰ってくるまで月の剣を保管していたらしい。イザリースがなくなった今となっては、そいつを探し出して続きを叩いてもらうしかないってところだ」


「鉄を叩けるとなれば、そりゃあ英雄扱いだぞ。どういう名前だ、タケミとかなんだっけ」


「タケミカヅチのドギ。ドギって名前だ」


「聞いたことがないが、そいつが居るのは本当にギリシャか?」


「カグツチはギリシャに行ったって言うんだ、そっちから探してみるしかないよ。ユッグ・ドー、あんたに知っていることがあれば教えてくれないか?」


 ナタ、そしてリッリから期待する目がユッグ・ドーに集まっていた。


 僕からすれば、

「また冒険するの?」 

 そんな話だった。


 ミツマの民をカナンに招き入れてから街は大きくなりつつある。そして鍛冶場を作るとなれば街はさらに大きく変身するらしい。


「どっちみちヒルデダイトはそのままにしておけない。ザッハダエルやミツライムがやられたように、あいつらに気付かれればここも終わる。その前になんとかしたい」

 それがナタの思惑だった。


「なんとかするって言っても、相手は大国だよ?」

「だからこっちもそういうツテを頼るんだ」


「ツテなんてあった?」


「イザリースには、まだアースガルドが残っている」


「アースガルド?」

「そこにブラギダスティやヴァルキリーの巫女たちがいる。あいつらと合流できれ何とかヒルデダイトと対抗できる可能性があるだろ」


「ギリシャは? さっきギリシャに行くって言わなかった?」


「だからついでに、ドギを探しにギリシャによる予定。相手は火の剣と太陽の剣を持っているからな。あれをどうにかするためにも、月の剣は必要だろ」


「ほー」

 僕には全てが初耳だった。


「どっちみち、お前は一二柱の神を探す仕事が残ってるじゃん」


 なんて言われれば返す言葉がないのだけど。

 つまり僕には僕が決める以前にアースガルドまでの旅が約束されているらしい。


「一二柱の神様?」

 そこでユッグ・ドーはため息をついた。


「やれやれ」と彼は言ったところだ。「こんな剣を扱える奴は神様も同じだぞ。神を探すなんて変な話だが、鍛冶師のほうもたいがいだ。ヘルメス、お前の苦労は俺にもわかる。考えてもみろ、噂もないところでそんな奴が見つかると思うか」と言って僕を落胆させると同時に、僕と違ってユッグ・ドーはできることをやるだけ。


「まあ、名前を変えるなんてよくある話だ。逃げたというならなおさらか。あとで商売仲間に聞けば俺の知らない情報が出てくることもある。一応そのドギって奴の特徴を聞いておいてもいいか? できればもっと詳しく聞いておきたい」

 これが商人の提案だった。


「特徴?」

 と僕。


「特徴か?」

 ナタも首を傾げる。面識がないのだろう。「どんなだ?」とは、隣の老いた職人への問いになった。


 白い髭のカグツチと呼ばれた職人が口にするのは友人の悪口のようなものだった。


「長い髭だから見ればすぐわかるだろう。女好きで、ギリシャに出かけた際にいい思いをしたらしくて、それが忘れられないときたもんだ。そのままイザリースからバッくれおった。もう三〇年の前の話だがな。才能だけはあったから生きていりゃあ今でも鉄を打ってるだろうよ」


「三〇年も前の話か」

 ユッグ・ドーにしてみれば、まだ自身が生まれてもいない頃の話だ。「こりゃあ難題だぞ」先が思いやられたことだろう。


 難題といえば、


「あの、すいません。どなたか賢者の石というものをご存知ではありませんか?」


 しびれを切らしたアリアドネが喋ったのはこの時だった。



 誰も反応できない言葉の響き。

 賢者の石というものだけは、僕たちの住んでいる世界とは違う場所にある言葉のようだった。

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