21話目

「高校生っていいよね。」

唐突な椿の言葉に、清臣はもはや顔を顰めることさえしなかった。

「なんでですか。」

いつも以上に淡白な返事だ。

清臣の仕事には椿の相手をすることも含まれている。

「夏休みの宿題がないから。」

清臣は椿の目の前の白紙のノートをシャーペンで叩く。

「自主学習。」

短い言葉に椿は不満そうな顔で言う。

「なんで高校生って自主学習ができる前提なんだろう。」

椿は夏休み明けの模試のことがすっかり頭から抜けていて、全く、本当に全く勉強していなかった。

夏休みも残り三日になってから、そのことに気づいて、清臣にSOSを発したのだった。

「集中してください。」

はーい、と椿はやる気のない返事をしてノートに向き合う。

清臣は椿が最も苦手な数学から始め、次に数学、その次に数学、二日目も数学……そのあとちょっと英語……

「私、何時間勉強したんだろ。」

椿は机に突っ伏して言う。

頭からは湯気が出そうだ。

「加法定理は?」

清臣が不意に聞く。

「sin(α+β)が……」

「よくできました。」

清臣はにこりともせず言う。

「ほんとに思ってる?」

「それを、一年後も覚えていれば上出来です。」

無理だよー、と椿は泣きそうな声で言った。

「次はなに、英語?」

椿が聞くと清臣は少し考える。

「勉強会は終わりにします。」

椿の顔にいろいろな感情が入り混じる。

嫌いな勉強が終わった喜びと、このままで試験は大丈夫かという不安。

「根詰めるとパンクするだけですよ。」

それもそうだ。

まさに、今の椿はパンク寸前である。

「お嬢。」

どこか優しい声が言う。

珍しい様子の清臣を椿は恐る恐る見た。

「少し、外に出ませんか?」


椿は山盛りのフルーツで飾られたパフェを前に目を輝かせている。

「私、ずっとここ来たかったの!」

パシャリ、と一枚だけ椿は写真を撮った。

「唯華に送っとこ。」

それから、清臣と目を合わせて言う。

「ありがとう。」

清臣はチラリと視線をそらした。

机の上にはステンドグラスを通ったオレンジ色の夕日が差し込んでいる。

「頑張った――ご褒美です。」

椿は微笑む。

「私がお礼をするべきなのにね。」

ありがとう、真っすぐな瞳がもう一度そういった。

清臣はその長いまつげと、白肌と、滑らかな頬と、頼りない細い指をじっと見る。

おいしい!と一人はしゃぐ椿からさきほどの憂いの色はすっかり消えていた。

「臣も食べる?」

椿はたっぷりとクリームの乗った小さなスプーンを清臣の前に差し出す。

だが、そのミニサイズのパフェは遠慮がちに遠ざかっていく。

「間接キスになっちゃうか。」

清臣はそんなこと気にはしない。

椿はずっと清臣にどこか距離を置いている。

「甘いもの苦手なんでいいですよ。」

椿は肩をすくめた。

「だからそんな真っ黒なコーヒー飲んでるの?」

舌バカだとよく言われる。

他人より甘さには敏感だが、それ以外の味には鈍い。

どれだけ濃いコーヒーを出されても、清臣は難なく飲み干せる。

「お嬢は飲まないんですか?」

コーヒー?と透き通った声が聞く。

パフェのように甘ったるくもなく、コーヒーのように渋くもない。

夏の海のような、雨上がりのみずたまりのような声。

「飲むよ。でも、ブラックは無理。」

椿は清臣がいるのに、食事に夢中になっている。

頬いっぱいにほおばって、大事そうに噛んで、飲み下す。

距離は置く癖に、遠慮はしない。

本当に不思議な人だ。


「ごちそうさまでした。」

椿が深くお辞儀をすると絹のように滑らかな髪が小さな肩からさらりと零れ落ちる。

顔を上げて手櫛で髪を直すと、椿は少し先を行く清臣の隣に並んだ。

「なんかお礼したいんだけど。」

清臣はチラリと椿のほうを見る。

一瞬、目が合ったけれど、そんなこと無視して前を向く。

まったくもっていつも通りである。

照れているのだと思いたいが、そのあっけなさと表情の無さには、そんな仮説も無駄だと言わざるを得ない。

「欲しいもの、ない?」

「ないです。」

何も遠慮のない返事。

物欲なさそうだもんなぁ、と椿は思う。

「必要なものは?」

「ないです。」

ふと、清臣が椿を見た。

思わず目が合ってしまうから、椿はその目をそらしそうになった。

「お嬢が選んでくれるなら、何でもうれしいですよ。」

椿は少し足を止めて清臣をじっと見つめた。

「それが一番困るんだけど。」

また距離ができて、椿は再び清臣の下に走り寄る。

「なら、そういうのいいですよ。」

えー、と椿は小さく言った。

「お嬢の好きなようにしてください。」

そんなこと言われても……と椿は困る。

それじゃあ、お礼にならない気がする。

そもそも、清臣にうれしいとか喜びとかいう感情があるのかはわからないが。

別に、物じゃなくてもいい。

でも、それは椿の自己満足に清臣を付き合わせてしまうだけかもしれない。

椿が考え込んでいるせいで、二人の間には長い沈黙が流れた。

「あれ?」

柔らかくてかわいらしい声に、椿は思わず顔を上げる。

ふんわりと巻いた髪にぱっちりとしたまつげ。

淡いピンク色のチークが大人っぽい顔に、少しの幼さを印象付けていた。

一言でいえば、芸能人みたいにすっごくかわいい人。

「清臣君じゃない?」

椿は声も出さず、二人の顔をちらちらと交互に見た。

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