喫茶ミスト

時雨澪

第1話

 光が全く無い。真っ暗で、苦しい。常に何かから圧迫されるような感覚がする。呼吸をしようとしても上手く息が吸えない。喉が焼けるように痛い。

 やめて。

 手足の感覚はずっと前からおかしい。何をしていたか思い出せない。何をしようとしていたかも思い出せない。思考は乱れ、さっき考えていた事がわからない。

 やめてよ。

 過去が赤に染まり、未来が黒で埋まる。そんな感覚がする。

 何かから追われている。何かから襲われている。それは脳を占拠し、体を支配する。

 やめて。やめてよ。やめて!!!

「わぁぁぁぁ!!!!」

 何かに突き動かされるような感覚がして、叫びながら飛び起きた。

 視線が定まらない。鼓動がうるさくて、呼吸も落ち着かない。じっとりとした嫌な汗をかいていた。

 なんだろう、よく思い出せないけど、何か酷い夢でも見ていた気がする。頭の内側に何かがこびりついている感覚がする。

 自分の鼓動を感じながら、一つ、二つと深呼吸をする。

 ちょっとずつ落ち着いてきた。ぼやけてた視界も広がる。

 ベッドは真っ白なシーツに包まれ。私が寝ていたであろう枕はとてもふかふか。部屋はそれほど広くない。木目調の壁はとても安心感がある。部屋には私が寝ていたベッドと小さなテーブルにイス。あまり物は多くない。カーテンは開け放たれており、部屋の中はとても明るい。外から入る光が目に痛かった。

 ……ここはどこだろう。こんなに部屋をぐるりと見渡しているのに、ここがどこか見当もつかない。はっきり言って全く知らない場所だ。時折、旅行先の旅館で目覚めた時に襲ってくる感覚と似ている。しかし、その時と違ってこの部屋の景色にピンとこない。元々知らない場所だ。

 部屋の隅に置かれた全身を写せる大きな鏡には、黒いパーカーを着た黒いショートヘアーに赤い目の少女がベッドの上に座っている。これはもちろん疑いようもなく私だ。……本当に私? こんな感じだったような、違うような。そもそも、この部屋には私しかいない。

 どうしてこんな見ず知らずの所にいるんだっけ……。

 あれ……何も思い出せない。おかしい。昨日の記憶も、一週間前の記憶も、一ヶ月前の記憶も、全く思い出せない。

 ここはどこ! 私は誰!

 そんな定番の記憶喪失キャラがよく言うセリフを発したくなる。

 ……本当に私は誰だろう。

 どうやら本当に記憶喪失なのかもしれない。だって自分自身の事すら思い出せないもん。

 知らない場所に無くなった記憶。

 まさか……誘拐?

 作り話の読みすぎなんて言われるかもしれないけど。なんか変な薬でも飲まされたとかじゃないの? 

 そうでないとおかしい。

 きっとこれから身体改造でもされるんだ。それとも洗脳かな。いや、きっと私は記憶が無くなる前はとても悪いことをしてたんだ。これから処刑されるんでしょう。十字架にかけられる? 火炙り? それとも首が――。

 私の思考を邪魔するように部屋の外から足音がする。部屋の外に人がいるんだ。ここにいるのは私だけじゃない。そりゃそうだ。ここに連れてきた人が居ないとおかしい。

 誰だろう。いや、もしかしなくても、私にとって危ない人でしょ。

 足音は部屋の前でピタリと止まった。

 ああ、部屋に入ってくる。これから殺されるんだ。

 掛け布団を頭まで被った。最後の抵抗だ。

 一体過去の私は何をしたんだろう。

 部屋にある唯一の扉が開く音がした。

 スリッパの擦れる音が部屋の中に入ってくる。

「大丈夫? なにか大きな声が聞こえたけど」

 女性の声が私を心配している。

 いや、そうじゃない。これは私をおびき寄せる罠だ。絶対に布団から出てはいけない。

 足音がどんどん大きくなる。近づいてきている。これから私は死んじゃうんだ。どうしてこうなったんだろう。過去の私を恨むしか無い。

「おーい、大丈夫かしら?」

 私を包んでいた掛け布団が剥がされる。布団が剥がれないように抵抗していたつもりだが、いとも簡単に取られてしまった。

「あら、起きてたのね――」

 恐る恐る相手の表情を見る。ピンクの髪を長く伸ばした背の高い女性。いかにもお姉さんといった感じだ。優しい表情をしている。こんな穏やかそうな人に今から殺されるんだ。

「あら、酷い表情。どうしたの、何かあった?」

 女性は私を見ると、深刻そうな顔をした。

 そんな表情して。いまから私のことを殺す癖に。

「こ、来ないで」

 私は勇気を振り絞って声を出した。全身に力が入らない。上手く話せない。

「あら」

 女性は三歩、ゆっくり後ろに下がった。

 意外だった。てっきり強引にどこかへ連れて行かれるものだと思ったんだけど。

「あなたは……」

 私の声は掠れていた。

「私? 私は霧咲ミカ。好きに呼んでもらって構わないから」

「ミカ……?」

「ええ」

 ミカは私に微笑みかける。

「私は……殺されちゃうの?」

 二人の間に静寂が流れる

「……は?」

 ミカが腑抜けた声を出した。

「えっと……」

「あはは! そんな事言っちゃっていきなりどうしたのよ。まさかそんな訳無いじゃん。そんなの架空のお話の中だけの出来事に決まってるじゃない! あ、もしかしてそういうの好きなの? あはは! ああ、涙でてきた……」

 あ、あれ? 私の思い込みすぎだったって事……? ああ……なんか緊張の糸が切れちゃった。

「も、もう、そんなに笑わないで! こっちはここがどこかも私が誰なのかもわかってないんだから!」

「……え?」

「え?」

 さっきまであんなに大笑いしていたミカが一瞬で真顔になった。

「あなた、今なんて?」

「ここがどこかわからない」

「そっちじゃない」

「私が誰なのかわかっていない」

「それ。どういうこと?」

 いや、そのままの意味ですけど。

「私が誰なのかわからないんです。本当に、言葉通りに。記憶が無いんです。ここ数ヶ月の記憶と自分が誰なのかという記憶の一切が私から抜け落ちてるんです」

「え?」

 さっきと同じトーンじゃん。再放送かな。

「何も無いの? 産まれた場所はわかる? 育った場所はわかる? 通っていた学校の名前は? 一番大切にしていた友達の名前は? 親の名前は?」

 見事に分からない。酷い。聞かれた質問全てに答えられない。記憶にモヤがかかっているとかではなく、そもそも聞かれた部分に対する記憶がすっぽりと無くなっているような気分だった何も思い出せない。

「ごめんなさい……全部思い出せない。嘘ついてるんじゃなくて――」

「分かったわ」

 ミカは私の言葉を途中で切ると、どこからともなくメモとペンを取り出した。ミカはメモに何かを書き込み始める。途中で小さく「とりあえず一安心」と聞こえた気がしたが、多分気の所為だ。

「それは?」

「んー、君には内緒かな。別に見ても面白いものじゃないよ」

 そう言われると逆に気になる。

「えー、教えてよ」

「内緒って言ったでしょ」

 ケチだなー。

 どうせ私について何か書いているんだろうけど。ただ、私はメモされるような人じゃないと思うんだよね。記憶無いし。何も引き出せないよね。

「うーん、名前が無いのは不便だね」

 ミカが呟く。

「私もそう思う」

「何かピンと来る名前は無いの?」

 記憶を探るも、そもそも人の名前が全然出てこない。私友達居なかったのかな。

「無いかな」

「困ったな」

 ミカの視線が宙を泳ぐ。

「ミカが私の名前を決めてくれてもいいんだよ」

 なんとなく名前が欲しい気分になった。名乗る名前が無いとなんだかふわふわしている。

「良いけど、私ネーミングセンス無いんだよね」

 ミカは目を逸らした。

「名乗りやすかったら何でも良いよ」

「うーん……また考えとくね。近いうちに」

 これは……記憶を失ってもこの感じはなんとなく分かる。決めないやつだ。

「楽しみにしておくね」

「う、うん」

 一生視線が合わない。

 ふと、部屋の外からまた足音が響いた。ガチャリとを立てながらゆっくり部屋の扉が開く。

「マスター? まだなの?」

 扉の奥から茶髪のポニーテールに髪より少し明るい茶色の瞳をした少女が、顔をひょっこり覗かせた。背は私より少し低いくらいかな。明るい声をしている。

「マスター……夜ご飯の時間……」

 もう一人でてきた。同じように顔を覗かせている。白く長い髪に、伏しがちな青い瞳。少しおとなしそうな声をしている。茶髪の少女と同じくらいの身長かな。

「あらあら、下で待っててって言ってたのに。少し待たせすぎちゃったかな。ごめんね?」

 ミカは二人の少女を一気に優しくハグした。

「ごめん。この子達は誰?」

 いきなり見た事が無い人が一気に二人も現れると困る。あ、今の私は記憶喪失だから会う人全員見た事無いか。

「この子達はウチの従業員だよ」

 ミカは言った。

「従業員?」

 やっぱり何かの組織じゃん……!

「そう、従業員。実はこの建物は「喫茶ミスト」っていうカフェなの。二階建てで、一階はカフェとして運営していて、二階はここみたいに従業員が暮らすためのスペースになっているのよ。そして、この子達は喫茶ミストの住み込み従業員ってワケ。ほら、自己紹介して?」

 ミカに促されて少女達は部屋に入る。

「ナツがナツだよ!」

 茶髪の女の子が大きく手をあげて言った。

「フユがフユ……」

 白髪の少女は少し引っ込み気味に言った。

 二人とも一人称が自分の名前なんだね。

 見た感じ私より一回りも二回りも年下に感じる。バイトとか出来る年齢なのかな。ちょっと幼く感じるけど。

「二人とも良い子だから。ぜひ仲良くしてちょうだいね」

 ミカが言った。仲良くする……?

「え、私はこれからここで暮らすの?」

「逆に聞くけど、あなたは家がどこか言えるの?」

 それを言われると困る。

 私が少しの間黙っていると、ミカは口を開いた。

「ほら、答えられない。別にホームレスになれって言ってる訳じゃ無いんだから。大人しく私たちと暮らそうね」

「よろしくね!」

「よろしく……」

 二人の少女は私の近くまで歩み寄ると、笑顔でわたしを出迎えてくれた。

「よ、よろしく」

 差し出された二つの手を両手で握る。これからどうなるんだろう。不安が渦巻く。

「じゃあ私は一回ここから離れるね。ちょっとやらないといけないことがあるからさ」

「はーい、留守番は任せて!」

「気をつけて、マスター」

 ナツとフユに見送られてミカはどこかへ行ってしまった。

「三人きりだね!」

 ぱたんと音を立てて閉じたドアを見てナツが言った。あんまり三人しか居ないことを三人きりって言う人いないと思うけど。二人きりだけじゃないかな。

「えーと、そうだね……?」

 空気を悪くしたくないので一旦合意でいこう。

「体の具合は大丈夫……? どこか痛い所とか無い……?」

 フユが心配そうな表情で私の顔を覗き込む。

「私になにかあったの?」

 正直自覚が無い。どうしてここにいるのかも、どうしてこんなに心配されているのかも。

「え、気づいてないの?!」

 ナツが後ろでとてもびっくりした。

「うん」

「あなた、実は一週間ずっと眠り続けてたの……」

「え」

 一週間?

「信じられないようね。でもこっちは写真も撮ってるのよ」

 ナツが見せてくれたスマホの画面には、目を閉じてベッドに横たわる私の姿がはっきりと全身写っていた。

 そんなに寝てたなんて……。

「私の身に何があったの?」

「それがわかったら苦労しない……」

 フユは目を閉じてゆっくり首を横に振った。

「ある日いつもと違う道を散歩してたら道端で倒れているあなたを見つけたの。ナツたちびっくりしちゃってさ。気づいたらナツとフユでここに運び込んでたの。無我夢中ってやつね」

「そうだったんだ」

 救急車ってシステムは無くなったのかな? まあでも記憶喪失で身寄りの無い私を受け入れてくれてる時点でこっちの方がありがたいかも。何も言わないでおこう。

「それで……運び込んでから一週間……。だから、本当はもっと眠っていたかも」

 怖っ。良く無事だった、私。

「だから君がこんなに元気で良かったって訳。君が……君が……。あれ、名前って聞いたっけ」

 ナツが首を傾げた。

「それがなんだけど、私どうやら記憶を失くしちゃったらしくて」

 私は二人に対して素直に今の状況を打ち明けた。なんて言われるかわからないけど、嘘をつき続けるわけにはいかないからね。

「あー……」

「じゃあ名前決めてあげないとね!」

 ……あれ、受け入れられてる?

「なんかもっと驚きとかあるとおもったんだけど」

 ナツとフユは互いに顔を見合わせる

「……エー」

「キオクソウシツダナンテー」

 演技が下手らしい。

 まあきっと現実をすぐに受け入れられるタイプの人たちなんだろう。

 グー……

「あれ、お腹すいたの?」

「ずっと寝てたもんね……」

 二人の言葉でさっきのお腹の音が私から出た音だということに気づいた。

「言われてみると確かにお腹が空いてるかも」

「じゃあご飯用意するから! あなたはそこで待ってて!」

 ナツはそう言うと、フユと一緒に部屋の外に出ていってしまった。

 待っててと言われたら待つしかないよね。

 待ってる間暇だなぁ。

 どうして私は待たされてるんだろう。ナツとフユに着いて行ったらそれまでじゃないのかな。

 今からでも部屋から出れば二人に追いつくんじゃない? 建物の中だし、どれくらい広い建物なのか分からないけど、二人が全く見つからないなんて事はきっと無いでしょ。

 そう思って思いつきで行動した私は、すぐに後悔した。

 脚が動かない。

 いや、もちろん立てはする。しかし、脚が自分自身の体重を支えきれていない。

 足が震える。あれだ、「産まれたての子鹿」ってやつだ。

「うわ、わあっ!」

 そのまま耐えきれなくて床に倒れ込んでしまった。

 床はベッドと違ってカチカチだが、ひんやりしてて気持ちよかった。まあ、これはこれでありか。

 どうしようもできないし、ナツとフユが戻ってくるまでこのまま待っていよう。

 ……ああ、それにしてもここはどこなんだろう。

「喫茶ミスト」と言われてもねぇ……それがどんな町のどこなのか分からないし。

 分かったところで私の記憶が無いからどうにもならないんだけどね。

 町には何があるんだろう。キレイなのかな。

 家からどれだけ離れてるんだろう。……私の家どこだっけ。そうだ記憶無いんだった。

 ……私の記憶、どうなるんだろう。いつかは記憶が戻ってくるのかな。どんな名前だったのかな。何をしていたのかな。どこに住んでいたのかな。どんな友達がいたのかな。他にも抜け落ちてしまった記憶は沢山ある。なんだか体にぽっかり穴が空いてしまったようだ。思い出したくても思い出せない。もちろん記憶は戻ってきて欲しい。それが遠い未来の話であっても。

 部屋の外からバタバタと音がする。

 部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

「お待たせー!」

 上機嫌で入ってきたナツは私を見ると表情を変えた。

「ちょっと君! 何してるの?! どうして床に寝てるの?!」

「あはは……ちょっと立ち上がりたくなっちゃって」

 ナツは怪訝な顔をした。

「それと床で寝転ぶ事に何の関係があるの?」

「脚に力が入らなくて」

 私がそう言うと、フユが遅れてやってきた。「この子……ずっと寝てたから……筋力ない……」

「ああ、言われてみれば……」

 ナツは呆れた声を出すと、私の頭側に立った。

「動かないでね」

 ナツはそう言うと、私の両脇の下に腕を通す。そして、そのまま上に引っ張り上げた。

 ナツの力は強いなぁ。あっという間に私はベッドの上に復帰した。

「もう、無茶な事はしないでよね」

「はい」

 ナツに叱られてしまった。明らかに私の方が年上なのに。動いた私が悪いか。いやでも脚に力が入らないなんて思わないじゃん? 私悪い?

「ご飯……持ってきたよ……」

 さっきまで後ろの方に居たフユが、頃合いを見計らったかのようにナツの後ろからやってきた。料理の乗ったお盆を両手に持っている。さっきからなんだかいい匂いがすると思ったらこれか。

「わーありがとう。何を作ってれたの?」

「ハンバーグ……おいしいよ」

 ナツがベッドの近くに机を持ってくると、フユがそこにお盆をそっと置いた。

 ソースのたっぷりかかった大きいハンバーグ。おいしそう。食べきれるかな。

「今日はここで食べちゃって! ずっと眠ってたんだから、その分いっぱい食べなきゃダメだよ? フユが下の階のキッチンで一生懸命作ってくれたんだから。フユの作る料理は食べると元気いっぱいになるの。だからいっぱい食べてね」

 ナツがそう言って隣に座った。

 元気いっぱいになる? なんかすごいこと言ってるな。まあこの言葉は一旦気にせずに……。

 じゃあ遠慮せずにいただこうかな。

 そうしてナイフとフォークを持った時、私に一つの考えがよぎった。

 本当にこれ、安全なものなのかな。なんか変なものが混じっていたりしない?

 ミカも、ナツもフユも、みんな私に対して優しくしてくれる。それは本当にありがたい。でも、それはこの瞬間に油断させるためじゃないの?

 食べたら眠らされちゃうとか? なにか病気になっちゃうかも?

 ミカは私の考えを作り話の読みすぎだって一蹴したけど、完全に安全だと言いきれる根拠にはならないはず。

 この喫茶ミストとかいう場所は本当に安全だと言い切れるのかな。

「どうしたの……?」

 フユがこっちを見ている。

「もう、いきなり固まっちゃって。あ、もしかして食べさせてほしいとか? もーワガママだなー」

 ナツがそう言うと、私からナイフとフォークをひったくった。ナツはハンバーグを一口サイズに切ると、フォークに刺さった小さいハンバーグの欠片を有無を言わせずに私の口の中に突っ込んできた。

「んんっ!」

 えっ、超強引じゃん。喉突いたらどうするのさ。

 そんな文句が口から出そうになったが、いざハンバーグの味を認識すると、そんな文句は雲のように消えていった。

「おいひい!」

「もう、口にものが入ってるときに喋らないの」

「えへへ」

 ナツは面倒見がいいらしい。食べ物を食べさせてくれたり、口をふいたり。お姉ちゃんじゃん。

 フユは私の食べる姿を満足そうな表情で眺めていた。この子が作ってくれたんだもんね。毎日でも食べたいね。

 この料理が何か怪しいなんてそんな訳ないよね。疑う余地すらない。誰だ! 怪しいとか考えた人は! ……私か。

「髪、キレイだね」

「えっ?」

 突然ナツが私の髪を触りながら言った。

「フユもそう思う」

「そ、そうかな」

 別に髪に対して何か思い入れがあるわけじゃないけど。……そもそも記憶無いわ。

「うん。キレイな黒髪だよ。……あ」

 ナツは何か思いついたかのようにこちらを見た。

「なに?」

「ねえねえ、フユ。この子の名前『クロ』にしない?」

「フユも同じ事考えてた」

「はい、じゃあ決定! 君は今この瞬間から『クロ』だよ!」

 え、そんないきなり? ちょっと髪の話しただけじゃない? 命名理由がちょっと単純すぎじゃない?

「……名前、不満? 自分で決めても良いけど……」

 フユが首を傾げた。

 うーん。自分で決めるのはなあ……。自分で自分の名前を決めるならあと二年欲しい。

「いや、『クロ』いい名前だと思うよ」

 自分で決めておかしくなるよりは『クロ』でいいか。

「よし、じゃあ名前決まり! マスターにメッセージ送っとこっと」

 ナツはスマホを取り出すとポチポチ触り始めた。

 そんな様子をみて、フユはおもむろに近づく。おいてあったナイフとフォークを取ると、ゆっくりとナイフでハンバーグを切る。

「クロ、こっち向いて。あーん」

 初めて『クロ』と呼ばれた。なんだか悪い気はしない。

「あーん」

 ナツと違ってゆっくりで優しい。

「んん、おおひいはも」

 大きいかもって言いたかった。丁寧で優しい代わりに一口に対する容赦がない。なんか二人を上手いことミックスさせた感じの人は居ないのかな。いやまあ自分で食べればいいんだけど。

「あ、マスターから返信きた!」

 ナツがスマホの画面を見せてくれる。そこには一言『いいね!』だけ書いてあった。返信短いな。忙しいのかな?

「じゃあマスターから返信もきたところだし。クロ、残りを全部食べちゃおう」

 ナツは目を輝かせて言った。

 ちょっとは食べたはずなのに、全然減っているように見えない。

 これ全部食べきれるかな。


 ***


 ハッと目が覚めると、日も落ちて外は真っ暗だった。

「あれ、いつの間に……」

 部屋の中には誰もいない。いつの間にか眠っていたようだ。

 まだお腹の中にハンバーグが残っている気がする。少し苦しい思いしながらもナツとフユの圧力には勝てなかったんだよな。フユが「せっかく作ったんだけど……」とか涙目で訴えかけてきたらそりゃあ食べるしか無いよね。

 これから何回もああいう目に遭うのかな。できれば避けたいんだけど。

 それにしても喉が渇いた。水が欲しい。ハンバーグの味が濃かったからなのかな。でもこの部屋には水どころか冷蔵庫も見当たらない。

 部屋の外に行けば水あるかな。そういえばフユは下の階のキッチンでハンバーグを作ったとか言ってたっけ。キッチンがある。それすなわち蛇口がある。水道水でも大丈夫でしょ。

 とりあえず下の階に行くしか無い。

 体を起こしてベッドから立ち上がってみる。

「あ」

 立ち上がった瞬間。寝ぼけていた頭が一気に覚醒する。バラバラだった思考回路が一瞬で繋がる感覚がした。そして、私の頭がある一つの事柄を思い出す。

 私、立てないんだった。

 まずい。このままじゃまた床に倒れ込んでしまう。しかも今度は明日の朝まで誰も来ない。流石に長時間あのフローリングの感覚を味わうのは勘弁だ。

「……あれ」

 意外と歩ける。

 おかしい、あんなに震えていたはずの脚が全く震えない。余裕だ。意外とかじゃない。全然歩ける。

 これが「元気いっぱいになる」ってやつ。いやいやまさかね。あれは比喩だし、歩けるようになったのはたまたま。絶対そうだ。そんなオカルトチックなことは信じないぞ。

 まあいいや。歩けるんだから、これは水を取りに行く大チャンス。さあ、部屋の外という新世界に旅立つぞ。

 部屋の扉を開けると、廊下は薄暗い照明に照らされていて、簡単に回りの状況が確認できた。どうやら左右に少し廊下が伸びているっぽい。右を向くと、いくつかの扉と行き止まりしか見えない。しかし、左を向くと、下に伸びる階段が存在していた。下はなんだかもっと明るい気がする。

 勝手に扉を開けるのは良くないだろうし……ここは階段を降りた方が良いよね……?

 ゆっくりとした足取りで階段を下る。一段が高くて階段の角度が急なせいで、足を踏み外しそうで怖い。

 一段一段をゆっくり確実に降りていく。なんとか下に降りると、広いスペースになっていた。光をたっぷり取り込めそうな大きい窓、横に長いカウンターと数席のテーブル席。なるほどこれが話に聞く喫茶ミストか。それほど広い訳では無い。けれど、この雰囲気、私は好きだ。一日中居たくなる。なんだかそんな不思議な魔力があるようだった。

 フロアを一通り歩いて見て回る。沢山のイスとテーブルに立派なカウンターまで置いてある。壁も家具も小物も全体的にアンティーク調で落ち着いた雰囲気だ。

 ただ一つ気になることがある。

「あのー、どうしてそんなところで寝てるの……?」

 階段から一番近い席、昼は客が座るであろうソファーに一人の少女が寝ていた。三人は余裕で座れそうなソファーを贅沢に横に使い、肘置きに足を乗せている。

 なぜかひらひらのメイド服は着たまま、茶髪のポニーテールを解かずにすやすやと寝息をたてている。うん、どう見てもナツだった。

 声をかけても起きないので、少女の頬を指でつんつんしてみる。

「んんー……もうちょっと寝かせてー……」

 ぷにぷにしていておもしろい。少女は声を漏らしながら身じろぎする。

 何度か触っていると、少女は薄目を開き始めた。少女の瞳がこちらを捉える……。

「――っ!!!」

 起きたかと思うと、少女は野生動物のような身のこなしで飛び上がり、私の視界から消えた。早すぎて目が追えなかった。

「あなた、誰?」

 後ろから声がした。同時に、後頭部に何か冷たい棒のような物を突きつけられる。なんだろうこれ。

「えっと……」

「あ、動かないで」

 振り向こうとしたら冷たい声で制された。誰って言うから答えようとしたのに。体の芯まで凍りそうな冷たい声。あのハンバーグを食べさせてくれたお姉ちゃんのようなナツとは別人のようだった。

「君、誰?」

 ナツはもう一度私に問う。

「え、私の事覚えてない?」

「質問を質問で返さないで」

 めちゃくちゃ怒ってるよ……。怖いなあ。

「それで、君は誰なの」

 さっきより後頭部にかかる圧が強くなる。あれ、これってもしかして危ない状況?

「え、何してるの……」

 唐突に、カウンターの方から声が聞こえた。

 声のする方を横目で見ると、そこには別の少女が立っていた。長くて真っ白な髪に透き通る青い眼。身長は茶髪の子と同じくらい。この子も同じようにメイド服を着ていた。あ、フユだ。

「何って、知らないヤツが中に居たから」

「いや……その子……クロ……」

「えっ?!」

 フユにそう言われると、ナツは大きな声を出して驚いた。後ろから私の顔を覗き込んでくる。明るい茶色の瞳に吸い込まれそうだった。

 私の顔をじっくりと見たナツは申し訳なさそうに小声になった。

「その、あの、寝起きでさ、つい警戒心が――」

「ナツ……言い訳の前に言うことあるでしょ」

「えっと、ごめんなさい!」

 フユに促されてナツは深々と頭を下げた。

「あはは……どうやら大丈夫っぽい?」

 あまり事態を飲み込めていない私はどう反応していいか分からなかった。ただ、よく見ると、茶髪の少女が腕を体の後ろに隠しているが、そこから黒く光る筒が少しだけ見えていた。

 まさか……いやいやそんな。あれはゲームの中でしか出てこない代物だもんね。

 まあ見えなかったことにしよう。

「ごめんね。怖かったよね。ちょっと警戒心が強かっただけだから。普段はこんな事しないよ? 絶対しないんだから……それにさ――」

 ナツは努めて笑顔をキープしながら困り眉で言い訳を繰り返していた。状況が飲み込めてないから怒るポイントが無いんだけど。

「大丈夫だって。それにしてもナツってばすごいね。あんな早く動けるなんて。シュッ、シュッって」

 視界から消えるレベルで早かったんだもん。

「すごいでしょ」

 ナツは両手を腰にあてて胸を張った。えっへんと聞こえた気がした。

「何か習い事とかしてたの?」

「えっ?!」

 何故かナツは動揺した。視線が泳ぐ。

「……パルクールだっけ?」

「あ、そうそう! ぱるくーるだよ!」

 本当かな。なんか話を合わせたように聞こえたんだけど。パルクールって単語を人生で初めて言ったのかな。すごく拙かったけど。

 渇いてたんだよね。ああ、思い出した途端に水分が欲しくなってきた。

「本当?」

「ホントホント。そんな事よりさ、どうしてクロがこんな所にいるの? 上で寝てるはずなのに」

 なんかナツに無理やり話題を変えられた。まあいいか。ナツが動ける理由を知ったところで私に何かあるわけじゃないし。

「いや、喉乾いちゃって」

「あ、そうだったの? それなら早く言ってくれれば良かったのにー。水持ってくるね!」

 いや今までのどこに「水が欲しい」と言うタイミングがあったんだ。

 カウンターの奥にあるバックヤードの入り口に消えていくナツの背中に、心の中でツッコミを入れずにはいられなかった。

 フユはカウンターの少し高い椅子に腰掛ける。すると、私の方を見て言った。

「隣、座って……立ちっぱなしじゃしんどいでしょ……?」

 フユに促され、私は隣に座った。

 カウンターはオレンジの灯りに照らされて、どことなく落ち着く。

「ごめんね……あんな事しちゃったけど、ナツは悪い子じゃないから……」

 フユは申し訳なさそうに言ってくれた。

「別に大丈夫だよ。これから良い所見せてくれるんでしょ?」

 「多分……ナツは優しいから大丈夫だと思う」

「そうだと良いんだけど」

 本当に優しいのかな。ついさっきの出来事がフラッシュバックする。あの冷たさ。まさに「冷酷」という言葉を当てはめたくなる。温かさの欠片もない。優しさだけは本物だよね……?

「ねぇクロ……そのネックレス、可愛いね」

 フユが突然私の胸元を見て言った。

「え?」

 ネックレス?

 首元に目をやると、確かに私はネックレスを着けていた。あれ、全く気づかなかった。

 真ん中がくり抜かれて縁だけになった銀色のハート、そしてその内側を通るように細かなチェーンが私の首の後ろを通って一周していた。

「私も気づいてなかったよ」

「良いデザインだね。誰かからもらったの……?」

「うーん、どうだろ?」

 フユにそう言われて私はネックレスをしばらく見つめてみる。

 なんだか何かを思い出しそうな。もやの奥から何か人の姿のようなものが――。

 ピキッ!

「うぁっ!」

 突然頭の奥で何かが切れるような痛みを感じ、頭を抑えた。

「どうしたの!大丈夫?!」

 フユが今までの口調からは想像もできないほど大きな声を出す。

「ごめんごめん。大丈夫だから。ちょっと突然頭が痛みだしただけだから」

 本当は頭の中を切れ味の良いナイフで切られたくらいの痛みを感じたけど。

 びっくりした。なんだったんだろう。もう痛くない。

「フユ、私の頭から血が出てたりしない?」

 フユは私の頭を少し撫でる。

「いや、特に血とかは……。というか大丈夫……? そのネックレス、もしかしたら良くない物かも……フユとナツで預かってもいいけど、どう……?」

 ネックレスをもう一度見る。天井の灯りに反射してハートは少しきらめいた。ただ、さっきみたいに、何かが呼び起こされるような感覚は感じられなかった。

「うーん、いや、これは私が持っておくよ。もうさっきみたいに頭が痛くなることは無くなったし。さっきのはたまたまだったのかも」

「なら良いけど……って、たまたまならそれはそれで問題がある気が……」

 確かにフユの言う通りかも。

「だ、大丈夫だよ。今は平気だから」

「おまたせー。ごめんごめん。体温計とか冷却シートとかいろいろ探してたら時間経っちゃった」

 なんとか誤魔化していると、裏からナツが戻ってきた。ナイスタイミング。

「クロ、はいどうぞ」

 カウンターの上に置かれた大きめのコップには、見た事の無い色をした液体がなみなみに注がれていた。

「えっと、これは?」

「ナツ特製栄養ドリンクー」

 なんというか……全体的にケミカルを感じる。脳が「これはダメ!」と言っている気がする。

 というか時間がかかった理由って絶対にこれでしょ!

「これ、飲めるの?」

「飲めない物は入れてないから飲める!」

 そうかー。理論は正しいね。でも人間が口にいれて大丈夫な色じゃないんだよ。黄色系の蛍光色って明らかにダメなやつでしょ。

 ナツはカウンターを軽く飛び越えると、私の肩を組んで言った。

「クロはナツの作った栄養ドリンクが飲めないの?」

「えっ」

 うわ、いきなり嫌な先輩みたいなムーブするじゃん。

 助けを求めてフユの方に視線を送ってみる。すると、表情を変えないまま、無言で親指を立ててきた。

 サムズアップで応援されても困るんだよね。できればこれを飲みたくないんだけど。そういう方向には働きかけてくれない感じね。

「これからの関係の為に景気よく一気に飲んで欲しいな」

 よくそんなことが言えるね。私は常に被害者だけど。これからの関係ってつまり、私がずっと被害者になる関係ってこと?

 気づけばナツもフユも私に期待の視線を送っている。逃げようと思えば逃げられるかもしれないが、どうせ走ったところで身体能力の差は歴然だ。すぐに追いつかれる。そもそも外で生きていく術を持っていない。飲まない選択をして駄々をこねるのも非現実的だ。この後の関係にもヒビがはいる。ここは……飲むしかない。

 カウンターに乗ったコップを掴む。

「ごめんごめん。ちょっとボーッとしてた。ドリンクありがとうね。早速いただきまーす」

 私はそう言うと、コップに口をつけた。二人の視線が後戻りできないことを私に悟らせた。

 コップを一気に傾ける。謎の液体が口の中に入る。ドロッとした液体が、口の中いっぱいに広がる。それは、名状しがたい味で、思わずむせ返りそうになった。脳がこの飲み物を拒否しているようだ。ただここで止まってはいけない。もう片方の手でコップを抑え、さらに口の中、いや、胃の中に流し込む。絶対に止まらない。その気持ちだけでコップをさらに傾ける。そしてその勢いのまま――コップの中の蛍光色が減っていくのと、食道に液体が流れるのを感じて――飲み干した。

「はぁ……はぁ……ごちそうさまでしたっ!」

 コップをカウンターに叩きつけた。苦しみからの開放。そして怒り。すべてがコップに伝わる。少しコップにヒビが入ったように見えたけど多分気のせいだ。

「おお……良い飲みっぷりだね!」

 ナツは嬉しそうにしている。うんうん良かった。これからも安心だ……。あぁ、意識が遠のく……。

 バタン!

「ええっ、クロ! どうしたの!」

 なんだか体が動かない。もう何も考えられない。何もできない……。

 薄れ行く意識の向こうで二人が話していく。

「ナツ……クロに何を飲ませたの……」

「え? たまたま冷蔵庫に入っていたものをミキサーで混ぜたんだよ! 栄養ドリンクに、スポーツドリンクとゼリー、あとネギと生姜とそれから――」

 なんてもの飲ませるんだ……。

 そこで私は夢の世界に入ってしまった。

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