第21話 高尾 

 中央線の高尾駅に降り立った時、藍子は幼少期に何度も訪れた母方の祖父母を思い出した。既に二人とも亡くなり、高尾にある自宅も取り壊されてしまったが、藍子にとっては思い出深い土地だ。


 藍子とマークは京王線に乗り換えて高尾山口駅で降りると、登山道に向かって賑やかな通りを歩き出した。紅葉の見頃が過ぎたとはいえ、日本一の登山者数を誇る高尾山だけのことはある。若者や現役を引退した老人達が仲間と楽しそうに歩く姿が見られた。


 山道の脇にはモミジやカエデの落ち葉が積み重なり、赤や黄、茶色のグラデーションを織りなしている。頭上にはカシなどの常緑樹が生い茂り、引き込まれるような静けさを肌で感じながら二人は一号路を登って行った。


 藍子が三才の頃だったろうか。高尾山のあちらこちらにある天狗のお面や石像を見るたびに泣き出してしまい、家に帰りたいと言って両親と祖父母を困らせた事がある。藍子は急にそのことを思い出し、マークにその話をした。

「かわいらしいですね。見てみたかったです。それで、登山は諦めたんですか?」

 マークは微笑ほほえみながら藍子に尋ねた。


「どうだったかな。たしか、おばあちゃんが天狗の話をしてくれたと思う。高尾山の天狗様は神様なんだよ。悪いことが起きないように怖い顔をして守ってくれているんだよって。それで登ることができたんだと思う」

「そうですか。優しいおばあさんですね」

 マークの言葉に藍子は深くうなずいた。


 小学校に入学後、どういった理由でか学童に入れなかった藍子は、一年生の頃から自宅で一人過ごすことが多かった。年の離れた姉は部活動や習い事で忙しく、放課後に遊べるような友達も少なかった。

 そんな藍子を心配したのだろう、高尾から祖母が毎月のように泊まりに来て、二、三日一緒に過ごしてくれたのだ。祖母がいる日は授業中も帰宅するのが楽しみだった。


「おばあちゃん、二年生までは来てくれたんだけれど、足を痛めてしまって来られなくなってしまったの。でも三年生からは私にも友達ができたから、寂しくなかったのよね」

 そこまで言うと、少し黙り込んでから藍子はまた話し始めた。


「私が四年生の頃、五つ上の姉と両親の衝突がとても激しくなったの。姉は塾に行くふりをして友達と遊んでいるような人だったし、両親は忙しくて勉強を見てあげられないのに、結果だけは求めるような人達だったから。口論だけではすまなくて父は手も出していたし、私はそのケンカを止めたり、布団に入って耳をふさいだり」

 マークは辛そうに話す藍子の話にじっと耳を傾けながら歩を進める。

 高尾山の中腹を超え、二手に分かれている道を二人は左に曲がった。薬王院へ続く道だ。


「私、その時髪の毛を抜くのが癖になっていて。ちょっと痛いんだけれど、抜いている瞬間はすっきりするの。気付いたら後頭部が薄くなってしまっていて。それでも、家族は誰も気付いていなかった。それどころじゃなかったんだと思う、きっと」

 藍子は薬王院の男坂の階段を登りながら、また話を続けた。


「私ね、苦しくなって週末に一人で中央線に乗って、おばあちゃんの家に行ったことがあるの。その時のおばあちゃんの顔、今でも忘れない。よく来てくれたねって言って抱きしめてくれて」

 あの日、祖母は藍子の暗い表情に驚き、後頭部の状態にもすぐ気がついた。そして娘である藍子の母に電話をし、それまで聞いたこともないような口調で娘を叱責した。

 お姉ちゃんばかりじゃなくて藍ちゃんのこともちゃんと見てあげなさい。藍ちゃんはしばらく預かりますから学校にも連絡しておいてください。

 祖母の家で過ごした一週間、久しぶりに心が安らいだことを藍子は昨日の事のように思い出した。


「そうか。分かった。あなたの香り、懐かしいなって感じた理由。おばあちゃん、紅茶が好きでよく紅茶を淹れて飲んでいたの。おばあちゃんの家に行った時、私も飲ませてもらったんだ」

「そうだったんですか。それじゃ、思い出の香りだったんですね」

「普通の紅茶だったけれど。あなたみたいなフルーツがブレンドされたものじゃなくてね」

 二人はそんな話をしながら薬王院の大本堂の前に着き、両手を合わせて拝んだ。


 藍子は大本堂を眺めながら、祖母が自分の薄くなった後頭部を撫でながら言った言葉を思い出した。

 藍ちゃん。自分を大事にしなさい。藍ちゃんが自分を大事にしないとおばあちゃんはとっても悲しい。それにね、自分を大事にしないで他の人を大事にすることはできないの。

 あの言葉は真理であったと藍子は思う。私は自分の気持ちを殺して両親や姉の心配をし、結婚後は自分の考えを抑えて夫との関係を築いてしまった。


 その結果マークと犯したあの過ちを知ったら、祖母はきっと悲しむだろう。あの過ちはそのことを知らぬとはいえ息子を傷つける行為であったが、同時に自分自身を傷つける行為でもあった。まるで、あの時の抜毛症ばつもうしょうのように。

 健吾がもし知ったら驚いた後、怒りや侮蔑の感情を抱くであろうが恐らく傷つきはしないだろう。もはや自分の事を愛しているとは感じられないから、藍子はそうも思った。

 二人は薬王院を出て、山頂に向かう。あと二十分ほどで着くはずだ。

 

 山頂に辿り着くと、藍子が用意した弁当を二人で食べ、展望台に立った。

 澄み渡った空の下に丹沢の山々や遠くには富士山が見渡せる。

「メッセージで送ったけれど、来週は会えないから今日であなたと会えるの最後になるわね。間違いも犯したけれど、あなたと出会えたこと感謝しています。あなたが帰国して、上手にご両親と距離を置きながら自分らしく生きられるように祈ってる」

「ありがとう。藍子さんのことずっと心配でしたが、今日おばあさんの話を聞くことができて良かったです。藍子さんの心にその思い出があるなら大丈夫だと思います。藍子さん、自分を大切にして下さい。私もがんばります」


 二人はしばらく見つめ合い、それからまた展望台からの景色を眺めた。

 この日の景色を目に焼き付けるかのように。


 

 

 

 

 





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