第三話 首のびる女房

青菜売りと侍

「さて、今日はこんなところで終わりにするか」

 遠くうまの刻を告げる鐘の音が聞こえてくる。

 子供らがあわただしく帰り支度を始めるのを見ながら、清司郎せいしろうは今日の昼をどうしようか、と考えていた。

「そういや若先生、どうして師匠なんかやってんだ?」

 長司ちょうじがふと思いついたようにたずねた。

「ん、どうして、とは?」

「いや、だってさ、若先生みたいな歳で手習い師匠やってる人なんて他にいないだろ」

「そうだな……まあ、子供にはわからない事情ってものがあるんだ」

「なんだよ、それ」

「いいんだよ、世の中には知らなくていいこともあるんだ」

 清司郎はそう言って長司を帰した。

 子供たちが家へ帰って、一人になった清司郎はふと昔のことを思い出した。

(そういえば、父上の御役御免おやくごめんを知らされたのはこんな日だったか)

 清司郎の父、清三郎せいざぶろうは数年前、御家騒動おいえそうどうのあおりを受けて仕官していた某藩から御役御免を言い渡されていた。以来、清三郎は他家へ嫁いだ姉の世話になりながら母とともに晴耕雨読の日々を送っている。

「なんだか、郷里くにの味が恋しくなったな」

 清司郎は家を出て、町へ繰り出した。

 行き交う人々の間を縫うようにして清司郎が向かった先は深川の富岡八幡。このあたりまで来ると食べ物を売る屋台店もちらほらと見えるが、昼ということもあって客が途絶えないようだ。

 清司郎が目当ての屋台を探していると、若い男が声をかけてきた。

「もしや、清司郎さまではございませんか?」

 よく見れば、その男の顔には清司郎も見覚えがあった。以前、清三郎の屋敷に出入りでしていた男だ。

「よもや松之助まつのすけか? 父上のところに青物あおものなんかを入れていた」

 青物や青菜というのは野菜の中でも特に葉物野菜を指す。松之助の商売は、朝に仕入れた青物を方々の得意先に卸してまわるものであった。

「そう、その松之助でございます。いやぁ、懐かしいですな。清三郎さまは息災そくさいでしょうか?」

「ああ、姉上の世話になりながら、郷里で隠居暮らしを楽しんでいるようだ」

「そうでしたか。ある日突然に御役御免となって、どうなさっているかと気にかけておりましたが、安心いたしました」

 松之助は清司郎より少しばかり年長であったが、江戸屋敷では他に歳の近い子供がいなかった清司郎は、よく松之助に声をかけて色々な話をせがんでいたものだ。

「そういう松之助はいま、どうしているんだ? 青物売りは続けているのか?」

「ええ、おかげさまで少しずつあきないも大きくなってまいりまして。それもあって、今度嫁をもらうことになったのですよ。今日は、そのことで八幡さまにお参りに来たのです」

「そうなのか。それは良かったな。独り身のおれが言うのもなんだが、大事にするんだぞ」

「ありがとうございます、清司郎さま。実はこの縁談、贔屓ひいきしてもらっている大店おおだなの旦那の世話でしてね。大事にしなくちゃあバチが当たるというやつですよ」

「そうだったのか。それなら、なおさら粗末にはできないな」

「まったくです」

 松之助は仕入れる品物の質が良く、値も決して欲張っていない、と清三郎から聞いていた。そういう真面目な商売をする人間だから、そんな縁も巡ってくるのだろう。

 そんな話をしているうちに、清司郎の目当ての屋台が見えてきた。

「松之助、今日の昼はあそこの屋台にしようと思っていたんだ。せっかくだし一緒に食べよう」

「いえいえ、いかに清司郎さまといえ、お武家さまと一緒に、などと恐れ多い……」

「武家といっても、いまのおれは手習い指南で糊口ここうを凌いでいる浪人だぞ。いいから行こう」

 清司郎は松之助にそう言って、屋台まで連れて行った。

「お、珍しいね、若先生が人を連れてくるなんて」

 目を丸くするおはるに、清司郎は松之助を紹介した。

「昔、父上のところに青物を卸してくれていた青物売りの松之助だ。松之助、こいつはお榛といってな、上州から単身江戸に出てきた饅頭売りだ」

「松之助さんね。榛名はるなです。どうぞご贔屓に」

 お榛が商売向きの笑顔を向けると、松之助は訳知り顔でにやりと笑った。

「なるほど、清司郎さまも隅に置けませんね」

「ばっ、ばか! そういうわけじゃないぞ」

「ふうん、そういうわけってどういうわけ?」

 お榛もそれに便乗してくるので、清司郎はすっかり参ったのだった。

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