峠の怪 決着

「ひひひっ、ひひひひひっ!!」

 くちびるをめくれ上がらせ、笑うような声をあげながら狒々ひひが迫ってくる。

 清司郎せいしろうはすぐに体勢を整えようとしたが、右肩がずきり、と痛んでうまく体を動かうことができない。

 狒々が思い切り振った右腕が当たり、清司郎はまたも吹き飛ばされ、地面を転がった。

「若先生っ! いま行くよ!」

 霞む視界で、おはるが駆けてくるのを見つけた。お榛は手にした錫杖しゃくじょうを槍のように構えて走っている。

「お、お榛……来るな!」

 清司郎はお榛を止めようと声を上げたが、狒々はうるさい虫でも追い払うかのように腕を振ってお榛を弾き飛ばす。

 ようやく立ち上がった清司郎は痛みに耐えながら“荒正あらまさ”を正眼に構えて狒々を正面からにらみつける。

「ひひっ、ひひひっ」

「なにが楽しいんだ」

 笑っているわけではない、とわかっていても、清司郎はそう口に出さないではいられなかった。

「笑ってるんじゃ、ない」

 清司郎はまっすぐに狒々をにらみつける。

「ひひひっ、ひひひひっ」

 狒々はひるんだようにほんの刹那せつなだけ動きを止める。その狒々の背後に谷川たにがわが立った。

「ふんっ!」

 谷川は狒々を背後から締め上げるような形で捕らえ、身動きを封じる。狒々の方もそれを振りほどこうとするが、谷川は離さない。

「谷川、そのまま離さないで!」

 蜻蛉とんぼが飛ぶような勢いで戻ってきたお榛が錫杖の石突きを突き出して狒々に迫る。

「おん ちらちらや そわか!」

 真言を唱えながら錫杖の石突きで狒々の胸を突くと、狒々の全身から砂のようなものがこぼれ落ちた。

「若先生!」

「おう……!」

 清司郎はまだ痛む体を引きずるようにして狒々に駆け寄り、“荒正”で斬りつけた。

「ひ、ひひ、ひ……」

 狒々の総身から力が抜ける。谷川が放すと狒々はその場にばたりと倒れた。

「これは……どうしたんだ?」

「狒々ってね、毛皮に松脂まつやにで砂を張り付けて鎧にしてるの。だから刀で斬りつけても刃が滑って受け流されちゃうってわけ。念を込めた錫杖で突いて、その砂を落としてやったのよ」

 谷川の質問に、お榛は得意げに答えた。

「さて、それじゃあ頼まれた荷を探しましょうか」

「あ、ああ。そうだな」

 清司郎は“荒正”を鞘に戻すと、狒々の巣穴へ向かう。

 巣穴の周囲にはいくつもの荷箱が打ち捨てられている。どうやら、峠を越える荷馬にうまを襲って食べ物を得ていたのか、魚の骨や野菜の切れ端なども散らばっている。

播磨はりま屋さんの荷も、食べ物を運んでると思われたのかもしれないな」

「そうだな……っと、播磨屋さんの箱はこれか?」

 谷川が打ち捨てられていたうるし塗りの箱を拾い上げた。中身が食べ物でないせいか、箱に結ばれた緋色の紐はほどかれた形跡はなかった。

「少し汚れてるが、箱は壊れていないしようだし、あとは播磨屋さんに見せて中身を改めてもらおう」

 清司郎たちはその場をそれで引き上げることにした。

 小仏こぼとけ宿に戻り、播磨屋の番頭がせっている旅籠はたごに立ち寄ると、ちょうど医者が出てくるところだった。

「おや、今朝がたの……どうされましたかな?」

「峠の勿怪もっけを討伐したので、それを報せに来たのです。番頭さんには、頼まれた大事な荷はあたしたちが江戸へ届けるとお伝えください。それでは」

 お榛がさっさと話をまとめ、そのまま出ようとすると、医者が引き留めた。

「お待ちなさい。ご浪人、体を強く打ち付けたようですな。急がぬのであれば、少し休まれていったがよろしいでしょう」

「体を打ち付けたといっても、別段変わったことはありませんし、痛みももう引いてきています」

「いやいや、油断は禁物ですぞ。一見なんともなくとも、無理はせぬことです」

 医者に言われて、清司郎は少しだけ考えたが、やがてうなづいた。

「わかりました。では、そのあたりの茶屋で一休みすることにします。二人とも、それでいいだろう?」

「そうだな。体を動かしたから、そのぶんなにか食いたいと思ったところだ」

「じゃあ、お団子でも食べていこうか」

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