峠の怪 二

 清司郎せいしろうたちは旅籠はたごを辞すると小仏こぼとけの峠道を登り始めた。馬子まごまでも通行を嫌がるということは、播磨屋はりまやの車が通る前から勿怪もっけによる害が出ていたということになるのだ。三人はそれを無視できるような人でなしではなかった。

「笑い声を出す、猿みたいな勿怪ねぇ」

 おはるが首を傾げた。

「心当たりがないのか?」

「いや、あるにはあるんだけど……うーん」

 お榛はなおも困った顔をする。

「話を聞いた限りだと狒々ひひだと思うんだよね。でもさ、狒々って別に、人の持ち物に執着はしないんだ」

「そうなのか?」

「うん。女物の着物に執着する猿鬼えんきやお酒に目がない猩々しょうじょうとは違って、狒々が人の持ち物を奪っていくなんていう話はきいたことがないんだ」

「そうなのか?」

 清司郎も一緒になって首を傾げてしまう。二人でうんうん言いながら山道を登っていると、黙々と登っている谷川たにがわに少しずつ遅れてきてしまう。そのまましばらく登っていくと、先頭に立っていた谷川が足を止めた。

「どうしたんだ?」

「見ろ。どうやらここで播磨屋の荷車が襲われたらしい」

 森を切り開いたような山道の途中にひっくり返った荷車がそのまま放り出してあった。周囲はそこだけ嵐が起こったかのように草むらがなぎ倒されたり、木の枝が折れたりしている。

「勿怪はどこから来て、どこへ行ったんだ?」

 清司郎は草むらがなぎ倒されているあたりにしゃがみこんで調べてみた。柘植つげくしが一つだけ落ちている。

「これは……播磨屋の運んでいた荷か?」

「でも、善兵衛ぜんべえさんの話じゃ運んでたのってほとんどが材料だったんでしょ?」

「ああ、そうだったな。大事な荷はうるし塗りの箱に入ってるって……箱は見当たらないな」

 谷川が荷車を起こしてみるが、その下にも善兵衛から聞いていたような箱は見当たらない。

「ん、あれ見てよ」

 お榛が草むらの奥を指さした。清司郎がそちらを見ると、大きな足跡が残っていた。

「あれって、狒々の足跡じゃない?」

 足跡に近づいてみると、それは人間の足よりも大きく、人間より猿に近い形をしていた。見れば、少し離れたところにも同じような足跡がついている。しかし、高いところから飛び降りでもしたのか、最初に見つけた足跡だけがいやにくっきり残っている。

「この足跡を辿っていけば狒々の住処を見つけられるかも。行ってみようよ」

 お榛が先頭に立って歩き始めた。

 足跡は四尺か五尺(約120~150センチメートル)おきに残っていて、どうやら狒々は飛び跳ねるように歩いていたらしい。もしかすると奪った荷で両手がふさがり、木を登ることができないのかもしれない。

 足跡を追ってしばらく進むと小さな沢に出た。沢を渡った向こう側の斜面に洞穴ほらあなのようなものが見える。

「あそこが狒々の隠れ家か?」

 谷川の疑問に答える声はなかった。

 その代わりに、洞穴の中からのっそりと勿怪が姿を現す。

 一見して猿のようではある。赤茶けた毛に全身を覆われており、顔は赤い。ぎょろりとした黄色い目が清司郎たちを認めるや、勿怪は「ひ、ひひひ、ひひひっ!!」と笑うような声を出した。唇がめくれて黄ばんだ乱杭らんぐいの牙が明らかになる。

「狒々だっ!!」

 お榛が声を張り上げた。

「行くぞ、谷川」

「おうっ!」

 清司郎は愛刀“荒正あらまさ”を抜きながら駆けだした。その後ろからもろ肌脱ぎになった谷川が続く。

 一方の狒々も清司郎たちを敵だと考えたようで、まっすぐに突っ込んできた。

「ぬわっ!?」

 狒々の勢いに清司郎は思わず身をかわす。そのまま突き進もうとする狒々を、谷川ががっしりと受け止めた。

 そのままがっぷり四ツに組んで、双方の力が拮抗きっこうするのか、動かなくなる。

 足元を見ればわかるが、互いに相手を押し込もうとして力を加えている。それがために、足元の土が少しずつ掻き出されているのだ。

 清司郎はそんな狒々の背中に向けて“荒正”を打ち付けた。

 しかし、やはりというか、狒々の毛皮に刃が立たず、するりと滑ってしまう。その上に、清司郎の助太刀が気を引いてしまったか、狒々は急に力を抜き、つんのめった谷川を地面に転がすと今度は清司郎めがけて両手を伸ばしてくる。

 清司郎は上段に構えなおした“荒正”を振り下ろして狒々の腕に斬りつけたが、やはり腕の毛に流されてしまい、大きく体勢を崩してしまう。

 そこに太い腕が迫ってきた。狒々の張り手を受けて、清司郎は三尺あまり(約90センチメートル)も吹き飛ばされる。ごろごろと転がって勢いを殺し、なんとか立ち上がろうとしたところに、狒々の顔が迫っていた。

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