アホは雑音の中に

そうざ

The Noise is with AHO

 机の抽斗からそのカセットテープを見付けた途端、俺は目の前の現実が遠ざかるように感じた。

 黄ばんで剥がれ掛けたラベルには、稚拙な筆跡で『ヤングユートピア』、そして西暦で日付が記されている。

 もしかしたら、何処かにラジカセもあるのでは――室内をさぐる。目に見えない埃が舞い、噎せ返りそうになる。それでも俺は我楽多がらくたの山を乱暴に蹴散らした。

 果たしてそれはあった。ダブルカセット仕様の最早、骨董品だった。スピーカーを覆うメッシュ状の金網は所々が凹み、錆びたアンテナは曲がっている。液漏れをした電池を取り出すと、端子の部分に緑青がこびり付いていた。

 まだこの部屋の電気は解約されていない筈だ。壁のコンセントに電源プラグを差し、カセットテープを入れ、恐る恐る再生ボタンを押す。サーッとノイズが聴こえ始める。


((プッ、プッ、プッ、ポーーーン……))


 時報の後、懐かしいテーマソングが流れた。仕舞い込んでいた記憶が一気に色付く。


((今夜も始まったヤングユートピアッ! ここからはヤングだけの解放区だっ、最後まで寝かさないぞ~っ!))


 それは、中学生の俺が睡魔と闘いながら欠かさず聴いていた深夜番組だった。毎週土曜日の午前零時から一時までの生放送。パーソナリティーは当時、人気絶調のコメディアンが務めていた。

 進学のタイミングで転居した俺は、新しい人間関係に中々馴染めず、孤独に押し潰されそうな毎日を送っていた。

 そんな俺を救ってくれたのは、物置きの隅で埃を被っていた携帯ラジオだった。

 側面のダイヤルを回すと、小気味好くカチッと電源が入る。そこからゆっくりとチューニングを合わせて行く。

 知らない誰かの話が、音楽が、ドラマが、交通情報が、CMが、雑音混じりの遠い世界が耳元までやって来てくれる。登下校中も、食事中も、入浴中も、布団の中でも、ラジオは宝物であり、唯一の友達だった。


((今日もかっ飛ばして行くぞっ、〔何でも輪廻転生〕のコーナー!))


 はっとした。リスナーから募った葉書ネタで進行する、俺が一番好きだったコーナーだ。

 瞬間、忘却の彼方にあった記憶が引き出された。

 ラジオから流れる自分のネタ――この事実が俺の暗い青春をどれだけ輝かせてくれたか。


 荘厳な音楽をバックに、パーソナリティーがわざとらしくも厳かな口調でコーナーの趣旨を説明する。


((生きとし生けるものはいずれ死に、やがて再びこの世に生を受ける……しかし、望み通りになるとは限らない))


 要は『○○に生まれ変わるのは嫌だ』という定型のお題に合わせ、どうして嫌なのかを考える大喜利のコーナーだ。

 時折、外国語の雑音が混入する中、次々にネタが読み上げられて行く。

 が、どれもして面白くない。当時は身をよじって笑ったものだったが、所詮は一般の中高生が浅墓な頭で考えたものだ。それでも、傍らの放送作家は番組を盛り上げようと大袈裟な笑い声を上げ続ける。


((次の葉書は、ペンネーム《元気が出るアホ》))


 胸がドクンと鳴った。うろ覚えながら、ペンネームに『アホ』というワードを入れた事はよく憶えている。数十年の時を経て、かつての自分と邂逅する事になるとは――顔面が上気して行くのが判る。

 それにしても、何故こんなセンスの欠片もないペンネームにしたのか。教室の片隅で息を殺している俺だけれど、笑いのセンスだったら負けない――そんな根拠のない自負をこじらせ、『一般的なリスナーのレベルに合わせて敢えて詰まらないペンネームにしてみた』のかも知れない。


((ダンゴムシに生まれ変わるのは嫌だ~っ。だって、何を食べて生きて行けば良いのか分から~んっ!))


 放送作家の高笑いを余所に、疑問符が頭をもたげた。

 パーソナリティーがおどけた声色で読み上げたのは、全く知らないネタ・・・・・・だったのだ。

 人指し指が自然と停止ボタンを押した。

 ペンネームには憶えがあるのに、ネタには憶えがない。これはどういう事だろう。

 ネタ葉書は何回か投稿した。もしかしたら、記憶にある一番の自信作は別の週に読まれていて、このカセットテープに録音されているのは、俺自身も忘れてしまった他のネタという事だろうか。

 しかし、採用されたのは一回だけだ。毎週欠かさず聴いていたので、それは間違いない。読まれたのは自信のあるネタとずっと勘違いをしていたのか。肝心の内容が思い出せないのは、何とも歯痒い。

 再びの再生。

 見ず知らずのペンネームとそのネタが読まれて行く。やっぱりどれもこれもレベルが低い。


((今回もレベルの高いネタばかりだったなぁ。さて、優秀賞を決める前に、惜しくも読まれなかった投稿者の中から何人かピックアップしよう))


 そうだった。慰めなのか、激励のつもりなのか、毎回コーナーの最後に不採用者のペンネームが読み上げられていた。


((《人生ゲロゲロ》、《うどん色っぽい》、《猪木くれない》、《ピリ辛さんが通る》、《アホが止まらない》他、多数っ。次こそはネタが読まれるように頑張れよぉ!))


 ペンネームに『アホ』――《アホが止まらない》――《元気が出るアホ》――アホ、アホ、アホ――俺は、自分が自分ではなくなったような感覚に陥った。


((さて、それでは今日の優秀賞だ。ダンゴムシのネタを書いてくれた《アホが止まらない》っ。番組特製キーホルダーを記念に進呈するぞぉ、愉しみに待っててくれっ〉〉


 目に見えない小さな杓子しゃくしが脳味噌の奥深い箇所をえぐり、そこから或る人物を掻き出した。

 転校生だ。こちらから声を掛けたのか、声を掛けられたのか。きっかけはラジオだった。特に『ヤングユートピア』を聴いていると知り、一気に距離が縮まったのだ。

 あいつは、真新しいラジカセを持っていた。毎週、欠かさず『ヤングユートピア』を録音していると言った。羨ましかった。腹が立つ程の羨望だった。その癖、この負の感情を覚られて堪るかと振る舞う俺が居た。第一志望の高偏差値校に合格していれば、祝いに買って貰える筈だったが、辛うじて第三志望校すべりどめにしがみ付いた俺に、両親は冷たかった。

 俺が密かにネタ葉書を投稿するようになったのは、それから間もない頃だ。

 全てはあいつを見返す為だった。あいつは、俺のネタが読まれたとは知らずに放送を録音する。その翌日、あのネタって実は俺が書いたんだよねぇ、と何気なく告白する――これが、仄暗ほのぐらくもささやかな策略だった。



「それってもしかして、カセットテープって奴ですか? 初めて本物を見ましたよぉ」

 そう言いながら、後輩はコンビニで買って来たペットボトルを俺に差し出した。

 俺は、思わずラジカセのボリュームを絞った。後輩にはラジカセさえ物珍しい古物のようだった。

 あいつは、俺のネタが読まれる前に再び転校してしまった。苛めが原因という噂だった。それが単なる噂でない事は、俺自身がよく知っている。中々ネタが読まれない苛立ちが、俺を陰口へと走らせた。その事がクラス総出の苛めに繋がった可能性は否定し切れない。

 その後、あいつがどんな人生を送ったのか、俺にそれを知るすべはないし、そもそも興味も湧かない。もし今、気に掛かる事があるとすれば、この安アパートの住人がどんな経緯いきさつから自室で孤独死を遂げるに至ったのか、そして、表札の有り触れた苗字があいつのそれと同じという事実についてだ。

 遺品で埋もれたこの空間の何処かにキーホルダーが眠っているとしたら、全てがはっきりする。あいつも密かにネタ葉書を投稿していた事、それが放送に乗った事、あまつさえ優秀賞に選ばれた事――いや、今更それが判って何になる。俺の細やかな栄光が全くの錯誤だったと結論付けられてしまうだけだ。

 それに、どれだけ記憶の断片を捲ろうとも、キーホルダーの色も、形も、手触りも、栄光を手に欣喜する少年の姿さえも、俺は蘇らせる事が出来ないでいる。

「それにしても、片付ける業者の身にもなれって言いたいですよねぇ」

 缶コーヒーを飲み干した後輩が、苦笑いを浮かべながら腰を上げる。


 ――ガッ、チャン――


 そして、ラジカセが事切れるように停止した。

 俺は電源プラグを乱暴に抜き、取り出したカセットテープをごみ袋へ投げ入れた。

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