第1話 魔軍 対 魔女軍

 その海は荒れ狂っていた。

「みなのもの! 軍列を乱すでない! 対岸はすぐ先じゃ!」

 魔軍王オロバスは、海竜の鎌首の上に立って、全軍に激を飛ばした。

 魔軍王たちが敗れ、魔王さまが敗れ、魔軍が王城から潰走して数時間、残った軍勢を集め、軍を立て直すべく、オロバスはこの海を渡ることに決めたのだ。

 すでにあの巨獣との戦いで、魔王さまをはじめ、魔軍王二人を失い、魔軍を率いるのは魔軍王オロバスただひとりとなってしまった。残る魔軍の軍勢は二万たらず。オロバスは、その軍勢をこの海へいざない、泳げるものは泳がせ、そうでないものは海竜や、飛竜に乗せて海を渡っていた。

 荒れ狂う波頭と、吹きしぶく波をその全身に浴びながら、それでも目をいからせたまま微動だにしなかった。

 魔女国はこの人跡未踏の絶海のさき。

「オロバスさま! しかし、魔女国が受け入れてくれましょうや?」

 副官のリザードマンが、震える声で問う。

「魔女国は魔国とはながく絶縁しておる。歴史上、ほとんど他国と交流をもたぬ国ゆえ、どのような者たちなのかわからぬ。まず、向かってみねばどうにもなるまい」

「おお、見えたぞ!」

 黒雲におおわれて陽の目も見えぬ海上は、墨のごとき黒々とした波の背が、巨鯨の背のようにうごめいて見えている。その先に黒い陸の影が、そしてその中央に、光が見えていた。

「なんと・・・」

 近づいた陸地を見て、オロバスたちは息を吞んだ。

 獣の歯のように乱食いに切り立った岩の岸壁が続く、生き物を寄せ付けぬようなその険しい陸地のありよう。

 だが、それに驚いたのではなかった。そこには折り重なった魔族の死体が積みあがっていたのだ。

「これは・・・、これは! いったい!」

 おそらく、先遣として出た魔軍の軍勢の一部だ。

 その死屍のうえに、女たちが現れた。

 見渡す限りの海岸線を埋め尽くしていた。

 魔女。

 先頭に立つ、上位魔女と思われるものこそ見目麗しいが、ほとんどの者はおそろしく醜い半生半死の不死者の群れ、あるいはラミアやアラクネのような半獣魔女ばかりであった。

「われらが魔族に与すると思うてか! 愚かな者どもよ!」上位魔女が叫んだ。

「なんと!」

「魔族は壊滅、そして人間族も衰退、いまこそ魔女国がかの地を支配するときがきたのじゃ!」

 陸地から、おお、とときの声のように歓声があがった。

「オロバスさま・・・、いかがいたしましょう! これでは!」

 見れば、数メートルを超す巨体の半獣魔女も列をなしている。軍勢の数は数十万におよぶであろう。

「おのれ! われら魔族が数を少なくしたとあなどりおって! 後悔させてくれるわ!」

 魔族は魔王によって鍛え上げられ、それらは一騎当千。単なる数で押せるものではない。

「ものども! かかれ!」

 オロバスの一声のもと、海上に整然と軍列を敷いた魔軍に巨大な魔方陣が浮き上がる。目を射る光とともに、究極の破壊魔術式が発動し、数百の砲列となって放たれる。

 瞬時に、その身に加速術式と、防御術式を多重にかけられた軍勢数千が、砲術の弾丸のように魔女軍地に殺到する。

 オロバス自身も、その全身に魔偉の炎をまとい、手の魔戦具を最大魔力で輝かせながら、船の舳先を蹴った。

 ごうと唸る竜巻を帯び、巨大な津波のように魔軍の先鋒が、魔女軍に届く。

 だが、その先鋒は、もろく砕け散った。

 オロバスは感じていた。

 なんだこれは!

 これは、ふたたび感じるものだ。

 極限の魔術障壁が、泡のように砕け、すかされる無力の感覚。渾身の魔力がとどかぬ虚無の奈落。

 まさか?

 アレが、また、なぜここに!

 オロバスは力を失いながら、哄笑する魔女の声を聴いたのみであった。



 わたしは冷静になってた。

 一日ぶりにご飯を食べて、トイレにも行ったし。

 そうだな。しかたないか。

 この世界に残りたいと、いったんは言ったけど、しょうがないよね、元の世界に戻ろう。そうするしかない。

 リオラは魔石があればとかなんとか言ってくれたけどもさ、そんなんムリに決まってるっしょ。これから知らない敵とまた戦うなんてありえないでしょ。また二十四時間とかもっとムリだし。

 よく考えたらそうだよな。

 お母さんたちも残してきたんだし、心配してるよな。

 こっちでハッピーになれる保証はありゃしないんだ。

 帰ろう。

 またもとの、あの現実に。

 そう思うと、なんかすごく寂しくなったけど。

 王の間に戻ってきたら、みんな机に頭を集めて話してた。

「どう行くかな〰〰? 遠いしな、海だしな〰〰」

「飛行魔術はどうですか?」エリクシールえらく積極的だな。

「術士はそろえられそうじゃぞ」王さままで。

 わたしは割ってはいった。話そう。帰ることを告げよう。

「あの、リオラ、わたしやっぱり帰ろ・・・」

「だいたい何名の部隊としましょう?」ランスエリス聞いてよ。

「そんなには行けそうにないよね〰〰」

「あの、わたし・・・、帰るから・・・」

「よーし、五人くらいで」

 どいつもこいつも聞いてねぇ。

「ねえ、わたしは・・・」

「では人選をすぐに!」

「わたし・・・、おら、おしりっぷ〰〰」

「それより装備を早く」

「聞けよ!」

 女の子がここまでやってんだ、聞いてやれよ!

 なんでみんな、そんな行きたがってんだよ?

 ゾウラハウスによれば、魔女国って誰も知らない国なんだろ? わからないヤバい敵なんだろ? だれも寄せ付けない荒れた海のさきにあって、簡単には近づけもしないというじゃないの?

「なに? 行かないの? 魔女国?」

「なんで行くの当然みたいになってんの? おかしいでしょ?」

「いいんじゃないですか? 行ってみたら?」

「ものは試しじゃよ」

 おかしいだろ。


 ランスエリスは、少し離れてそのようすを見ていた。

 ちくちくと心が痛んだ。

 そうなのだ。わたしたちはまた、この少女を利用しようとしている。

 魔女国からエランジルドへ、特使を要求する連絡がきたのはついさきほどのことだ。

 魔国が潰え、エランジルドが戦いのあとの窮状におちいっているいま、他国との関係、特に魔女国との関係はなにを差し置いても重要になる。それは王の言葉であった。そのとおりだろう。

 同時に、この機にこの大陸を制しようとする勢力が現れてもなんら不思議ではない。それは魔術師リオラの言葉だった。

 そしてなんと、魔女国は、巨獣だった少女、タエと、リオラを特使に指名してきたのだ。

 その目的は明瞭ではない。

 たしかなことは、魔女国がエランジルドと魔国との戦いを克明に見ていたに違いないことであった。でなければ、タエのことを指名などできるはずがない。そこにはリオラの警告する危うさが透けて見えるように思えるのだ。

 だが、拒絶すれば、一気に魔女国が攻めてくる可能性が高い。すでに、彼女たちを特使として魔女国に連れていくことは王命となっている。背くことはできない。王国の存亡がかかっている。

 彼女にはほんとうに申しわけない。

 その身はいかなることがあってもこのわたしが守る。すべてを賭してもそれだけはなしとげなければ。

「団長、さっきからじっと見てますね?」副官のエイムスが寄ってきた。ランスエリスは正式に騎士団の団長になっていた。

「な、なにをだ」

「あの娘ですよ〰〰、ああいうのがよかったんスか?」

「こんなときに冗談はよせ」

「ま、ここらにいないかわいい感じっスよね〰〰」

「いや、だから・・・」

「知らなかったっスね〰〰、ランスエリス団長がロリだったとは。貴族令嬢たちそろって自殺もんですな〰〰」

「ロリ・・・、な、なにを言っておる! それは彼女に失礼であろうが!」

「でも気になるんスよね?」

「わ、わたしは純真なものが好きなだけだ!」

「ああ、まあ、団長に迫ってる城の令嬢たちはみんな、ムチムチの肉食系っスからね・・・」

「だから、そ、そういうことではない!」

 そういうことではない。そうではないのだ。

 彼女を返したくないわけではない。

 チクっと痛んだ。



 どーんとドアが開けられた。

「ひあ!」

「魔王さまあ!」

 ダリたちはいつもいきなり現れるので、びっくりする。

 薄っぺらい板ドアが壊れそうにきしんだ。

 どたどたとやってきたのは、ダリとガーロだ。部屋のなかにぶら下げてある俺の洗濯物をのれんのように押しめくって、どしんと畳に正座した。

 三畳しかない従業員部屋は、三人が入ると膝をくっつけ合って座るようにしかならない。築六十年という木造の床がきしんだ。

「たいへんっスよ!」ダリが詰め寄ってくる。

「な、なんだ? なにが・・・?」

 仕事終わりに、ディスカウントストアの缶詰サンマで、チューハイを飲むのが俺の生涯の楽しみなのに、なんで邪魔を。

「あたしたちの時給が、八二〇円でしょ、だけどほかの従業員の時給はなんと、一一〇〇円だったんっスよ! なんと! 驚きっス!」

「そ、そうなのか・・・?」

「ええ、そうなんですが・・・」ガーロも考え込んでいる。

 ダリはずいっとさらに寄ってくる。

「ちくしょう! 搾取ですよ! サクシュ!」

「ダリ、あたしたち・・・、拾ってもらえてるだけありがたいんじゃないの?」

「魔王さま! このままじゃ、ムリっスよ! どう考えてもムリっス! 魔王さまのこの世界での成り上がり計画が頓挫とんざしてしまうっス!」握りこぶしを作り、うつむいてプルプル震えた。

 ダリは、なんとかこの世界で小銭を貯めて、商売を始めるんだと言っている。そして、それを拡大し、いずれは大帝国を築くのだと。

「ダリよ、そもそもだ、いまの時給で、宿舎代と生活費をまかなうと、のこりは数十円にしかならんのだ。もし時給をあげてもらってもだな・・・」

「ダリ、やっぱり、大帝国はムリだと思うわよ・・・・」ガーロがなだめる。俺もなんどもそう言ってるんだが。

「魔王さま、弱気になっちゃダメっス! だいじょうぶっス、いけるっスよ。あの魔軍の育成だってあんなにたいへんだったヤツを、二千年もやったんスよ?」

 ダリはサッと腕をあげて指さした。

 アルミサッシですらない昭和のガラス窓のさきは、隣のビルの汚いコンクリ壁だ。一階の奥部屋は陽の光もまともに届かない。

 そのビルの隙間に見えるわずかな空に、銀色の塔が輝く。修復中の麻布台ヒルズタワーだった。

「いずれはタワマンっスよ! タワマン! そうっスね、五千年くらいがんばってですね・・・」

「ああ・・・」

 俺は心底どうでもよかった。また必死になって上に立って、大勢力を従えたいなどとは露ほども思ってなかった。生きていくだけの小銭でぐうたらに暮らせたら、どんなに幸せか。

 でも、こいつらぐらいは、もうちょっといい暮らしをさせてやりたい気がないではなかった。ダリたちは俺と違ってテキパキと働いて、この汚い共同便所の、風呂ナシの暮らしにも文句ひとつ言わずにがんばっているのだ。

 俺は、手に持っていた缶チューハイを畳において、腕を組んだ。

「うーん、そうだなあ・・・、もう工事現場いくしかないかなぁ」もっとキツイ肉体労働なら、かなりの額が稼げると聞いていたのだ。

「あと、マグロ漁船かな? 二千年乗ったらどれくらいになるのかな?」

「ちくしょう! 魔術さえ、魔力さえつかえたらっス!」

「六本木でボーイとかはできませんかねぇ?」

 せちがらいぜ。

「あっ! あれ! あれを!」ダリがいきなり叫んだ。

 テレビは点けていた、元いた住民がおいていったものだった。

 ワイドショーの画面には、なんと、アレが映っていた。

「ああ!」ガーロが叫んだ。

「えっ!」俺もびっくりした。

「―――情報によりますと、この巨大生物は十日まえからこれまで、八王子市内、玉川河川敷、中央自動車道の高架裏にはりついていたなどの目撃情報がありましたが、いまは高尾山中のどこかに穴を掘って潜伏しているとみられ、夜間に飛行するなどして居場所が不明のままでしたが、いま、自衛隊が・・・」

 それはあの、俺が召喚した昆虫型の魔獣だった。人間たちに送り返されたヤツだ。

 どういうことなんだ? 十日前?

「俺たちがこっちにくる直前に、アレは消えたはずだよな」

 俺たちが転生させられて、もう一週間ぐらいたっていた。

「だとすると、なんか、こちらのほうが、時間の流れが速いんですかね?」ガーロは冷静だ。

 なんか、この世界の軍隊が出て駆除するというようなことを言っている。

 ちょっと、かわいそうな気もした。

「いま、もとの世界はどうなってるんだろうな〰〰?」

「そうですね」

「これは! これは!」

 ダリがいきなり立ち上がった。干してある俺のパンツに頭を突っ込んだ。

「ダ、ダリ・・・」

「これはヤバいっス! ヤバいっスよ!」

「いや、俺のパンツはそんなに臭くないぞ! 洗ってあるんだぞ!」

「これは、チャンスっスよ! 魔王さま! もとの世界に帰るチャンスっス!」

「ええ・・・」

「思い出してください! 例の巨獣はタワマンのうえから跳んで、どうやら元の世界に戻ったっス! あそこにいる虫の魔獣も戻れるんじゃないっスか? だとすると、あたしたちがこっちきたときみたいに、あれといっしょにいれば、戻れるんじゃないっスか?」

 パンツをかぶったまま、ガッツポーズしてた。

「あ、ああ、言いたいことはわかった。だがな、あれも十日もまだそのままみたいなんだぞ。あれが戻れるかどうか、わからんじゃないか・・・?」

「そんなの考えたってムダっスよ! あれが、あたしたちが帰れるかもしれないただひとつの手がかりなんスよ! やるしかないじゃないスか!」

「で、でもな〰〰」

「魔王さま、それは、ダリの言うとおりかもしれません」ガーロもちょっと、目をうるませている。

 俺は頭をポリポリとかいた。ああ、コイつらにしてみれば、戻りたいんだろうなあ。

 ちくしょう、俺はこのままがすごくいいんだけどな〰〰。どうしよう〰〰。戻ったからって、魔国は壊滅しちゃってるしな〰〰。でもな〰〰。

「戻って、そしてお金もって、もういちど転生して、この世界を征服して! こんどこそタワマンにいい!」

「ダ、ダリ・・・、それはちょっと違うぞ」

「あ、ちょっと臭いっス、パンツ・・・」

  

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