帝国歴685年 西部戦線より


 鉄錆の匂いが染み付いた塹壕で砂の浮いた水をあおる。

 どんな泥水でも、今は高級レストランの氷の浮いた水より、ずっと美味だ。

 後3時間もすれば再び交戦が始まる。それまでに体を休めて置かなければならない。昂った頭を少しでも落ち着けようと1人になったが、殺すために鍛えた手が疼いて仕方ない。


「ラルフ」

「ヒルドルフか。どうだ、そっちは」

 自身を呼ぶ声にラルフは振り返る。傷跡の目立つ背の高い男を見上げた。

 ヒルドルフはラルフの問いに、若いのにすっかり刻み込まれてしまったシワのついた眉間に、より一層深い溝を作った。


「また神の使徒が出たんだとよ」

「ああ…アレか」

 敵軍である共和国側の最高戦力と名高い『神の使徒』はその突破力と統率力で、数多くの戦線を切り開いてきたとされている傭兵団だ。信仰深い共和国の人間は、戦場で活躍する彼らを称えてその名を与えた。


 金さえ貰えば何でもやる荒くれと違い、その名を名乗るに相応しい善行を積んでいるのだとかいないとか。

 いくら装っても、その下の血と硝煙の匂いは簡単に消えるものでは無いとラルフはせせら笑う。

「撃てば死ぬと思うか?」

 ヒルドルフは塹壕に落ちた空の薬莢を見て呟く。

「さあな。神のご加護のおかげか、やつらには銃弾は届かないらしいぞ」

 馬鹿にしたようにラルフは言う。科学の発展した近年では、人の心は信仰から離れていた。

 だからこそ、英雄のように語られる神の使徒はラルフたちにとっては気に食わない存在だ。



 ◆◆◆◆◆



 2人はこの戦争の引き金となった事件である、共和国側のスパイによる虐殺で家族を殺されたもの同士だ。

 ラルフは幼い妹と母を。ヒルドルフは両親と弟を殺された。

 旅行先で具合が悪くなり、ホテルに居たラルフは窓から暴れだした共和国の男を見て、ヒルドルフはその現場に居た。理不尽に振りかざされた暴力で、愛する家族が死ぬさまを見た二人は復讐に燃えた。


 そんな共通点があり、新兵の頃の訓練でバディを組んでから、ずっと二人で戦場を駆けてきた。背中を預けるのにこれほど頼りになる存在はいないという確信が2人の絆をより強くしていた。


「髪、伸びたな」

 ヒルドルフがラルフを見て呟く。戦線に来て2ヶ月。ヒルドルフは髪を短く刈り込んでいたからまだ短い。だがラルフの黒髪は今や背中にかかる程に伸びていた。

 普段は結んでなんとか帽子の中に収めているが、今はだらしなく降ろしている。


「ん?ああ、そうだな。少佐に見つかる前に隠さないとな。…ああそうだヒルドルフ、ナイフあるか?切っちまおう。」

「またお前はなんでそう雑なんだ。紐は?」

「さっき切れた」

 ヒルドルフはあっけからんと笑うラルフに肩を落とす。ここまで伸びたのは前に切る機会があった時、怪我をして寝込んでいたせいだ。

 その時の息も絶え絶えになっていた姿をヒルドルフは夢に見るというのに、当のラルフは今はケロリとしている。

 そう言えば血やら泥にまみれる兵士たちの中で、ラルフに汚らしい印象を持ったことは無かったなとヒルドルフは思う。いっそ旗持ちでもやれば良かったのだろうに。


 2人は無言でそれぞれの装備を確認する。銃剣の球数。ナイフの数と位置。最後は噛み付いてでも殺す意志。

 国を守ろうとかそんな心持ちは無い。復讐ができるなら、軍人でも傭兵でも山賊でもテロリストでも何でも良かった。

 ヒルドルフとラルフは視線を合わせる。互いの心を見るぐらい、それで充分だ。



 ◆◆◆◆◆


 ◆◆◆




 砲弾の雨が降る塹壕内を2人は走る。

 悲鳴と破裂音。視界の端であっさりと消える命。

 カラカラに乾いた口の中は鉄と土の味がしていた。顔を出せば遮る物が無くなるとしても、敵撃つためにはその身を晒さなければならない。銃を構えて顔を出し、狙って撃ってすぐに隠れる。

「───ぐわっ!!」

「っ!ヒルドルフ!」

 聞きなれた声の悲鳴にラルフは相棒の元へ駆け寄る。

 駆けつけた先ではヒルドルフの耳を銃弾が掠めたらしく、血を流していた。

「問題無い!かすり傷だ!」

「ハッ。

 前より男前になったじゃねえか!」

 軽口を叩きながらラルフはすぐにヒルドルフの止血を手伝う。見た目よりも傷が深くないことに安堵した。


「!ラルフ!後ろだ!」

 ヒルドルフの声に振り返る。帝国軍のものでは無い装備。

 共和国軍の歩兵が塹壕に入り込んでいた。

 先に向こうが細身の剣を抜く。振り下ろされた剣を銃剣で受けた。

「っ!時代錯誤の原始人どもが!!」

 後ろでヒルドルフがナイフを投げ、歩兵の肩に命中させる。怯んだ所でラルフは歩兵を蹴り飛ばし、倒れた歩兵の口内へ銃剣を突き刺した。


 更なる足音にそちらを見れば、同じように入り込んだ共和国兵が3人。

 すぐに発砲しようとするが、さっきの攻防でどこか壊れたのか引き金が動かない。

「くそっ!」

「ラルフ!」

 ヒルドルフがラルフの横を抜け共和国兵に突進する。揉み合いになりながら、ヒルドルフを殺そうと共和国兵の1人が剣を振り上げる。



 ◆◆◆◆◆



「ぁ───」


 ラルフの心臓が大きく脈打つ。

 目の奥がチカチカと瞬き、脳内に情報が一気に流れ込んでくる。

 悲しみ、怒り、憎しみ、そして愛。

 吐きそうになるような感情の濁流の中で手を伸ばす。銃剣では無く、さっき殺した共和国兵が持っていた細身の剣へと。


 1歩踏み込んで、ヒルドルフへ凶刃を振り下ろさんとした共和国兵の腕を切り落とす。

 顔にかかる血に気を停めず、そのまま首を切り裂いた。

 勢いを殺さずに2人目、ヒルドルフの頭スレスレを通って血飛沫を飛ばして目を潰す。3人目はまだ狼狽えているから、心臓を一突きにする。

 情報を処理しきれていない頭はガンガンと痛む。

 耳元で怒鳴られているような、酷い苛立ちを伴って。

 目を潰した兵の頭を柄で殴って気絶させ、剣にまとわりつく血を地面に払った。


「ラルフ?」

 ヒルドルフが呆然とラルフを見上げる。

 共に行った訓練でも、戦場でもヒルドルフはラルフが剣で戦う所を見たことが無かった。もちろん近接戦闘の経験はあるが、それはあくまでも素手やナイフを使ったものだ。


 しかし今のラルフの動きは明らかに剣を使った訓練を受けた人間の動きだった。ラルフの動きは素人目にも明らかに洗練されている。まるで、ずっとそれだけの鍛錬を詰んだかのように。

「無事か?ヒルドルフ」

 穏やかな口調でラルフはヒルドルフを見る。黒い、黒曜石をそのままはめ込んだような双眸が、ヒルドルフを静かに捉えていた。



 ◆◆◆◆◆



 ◆◆◆




 元からラルフは頭が良かった、と思う。


 それは戦闘においても遺憾無く発揮され、1番長くそばに居たからこそ分かる。

 だから酒の席では「正面からなら俺が、そうじゃないならラルフが勝つ」とよく話した。

 訓練兵時代に参謀本部から声がかかったが、ラルフは前線に出たいと言ってそれを蹴った。


 なのに、ある日を堺にラルフは大隊長に会いに行くようになり、数日後には西部戦線の作戦本部へと出入りするようになっていた。


 同時期に作戦も大幅に変わり、それにより拮抗していたはずの西部戦線は押し上げられ始めた。

 前線で銃を構え敵を殺しながら、ヒルドルフはこれがラルフの作戦だと察していた。

 だが、あんなにも後方へ下げられることを嫌がっていたラルフがそうしている理由だけは、どうしても分からなかった。


 ラルフの様子が変わってしまったことと関係があるのだろうか。戦場でのストレスなどでおかしくなる兵士はめずらしくも無い。

「なんで、俺になにも話してくれないんだ」

 いら立ちから唇を噛む。互いに知らないことなんて無いと思っていたはずが、ヒルドルフは今のラルフをひとつも理解できなかった。

「(まるで、別人のようだ)」

 遠くから聞こえた撤退命令に舌打ちする。まだ殺せる。

 なにせ作戦のお陰で帝国は勝ち続けているのだから。


 反比例するようにお互いの死傷者は減っていく。

 優位に立ち、後は背を向ける共和国兵を殺すだけとなった途端に、本部からは撤退命令が出る。

 だから、下がる。


 共和国の人間は、逃げる弟を撃ち殺したというのに。


 勝っていてもヒルドルフの復讐心は満たされることが無く、ずっと心は乾き続けた。



 ◆◆◆◆◆


 ◆◆◆



 ヒルドルフとラルフの再会から10日ほど経った。

 ラルフは共和国が誇る精鋭部隊、神の使徒と秘密裏に会合を開いた。神の使徒のリーダーは約束通り、1人でラルフとの密会の場へと現れた。その姿を見て、ラルフの頬を涙が伝う。


「エリック、お前なのか?」

「ラルフ!」

 美しい金髪と碧眼の青年はエリック。今や遠い前世で、ラルフがマキラと共に失った何よりも大切な友人の姿がそこにはあった。



 ◆◆◆◆◆



 ラルフに記憶が戻り始めたのは、ヒルドルフを助けたあの瞬間のことだ。最初はただ友人を失った喪失感などの断片的なものを。時間と共に1つずつ、貴族として生きてきた頃やマキラとエリックとの暖かな記憶、そして王となった時の記憶。


 思い出して、その度にひどく後悔して。前世で受け止めきれなかった絶望を、何とか飲み下してラルフはなぜ生まれ変わったのかを考えた。


 考えて、考えて考えて祈って。

(これは、神からのチャンスかもしれない。

 エリックを、マキラを救えなかった俺が、せめてそれを償えるように、俺に新たな生を与えて下さったのだろうか)

 魔女たちを殺し尽くすことしかできなかった罪深き王は、新たな生を受けてなにも成さぬまま死ぬことを、許さなかった。



 ◆◆◆◆◆



「エリック、俺は」

「いいんだ。いいんだラルフ。こうして会えた。それだけでいいんだ」

 互いの背に手を回し、エリックとラルフはしっかりと抱き合った。涙を流すラルフをあやす様にエリックは背を叩き、会えて嬉しいと繰り返す。


 落ち着いてから、互いの状況を話し、お互いが戦争を終わらせたいという意志を確認した。それからその上でどうするかの作戦を、ラルフはエリックへと話した。


「うん。いいと思う。さすがラルフだね」

「これが恐らく最も犠牲が少ない。

 少しでも死人が出ないように祈るばかりの自分が情けないがな」

 自嘲気味に笑うラルフの手をエリックが取る。

「大丈夫。僕も頑張るから。

 僕たちで戦争を終わらせて、2人でマキラの所へ帰ろう」

 透き通った、真っ直ぐな青い瞳はラルフと記憶と寸分違わずそこにあった。笑うエリックの表情も仕草も昔のままで、永遠に失われたはずの宝物につい目尻が熱くなる。

 かつての約束を果たせる喜びが、ラルフにはあった。


 エリックの話によれば、マキラはエリックと共に共和国にいるらしい。今は共和国の、戦火の届かない遠い土地でエリックの帰りを待っている。


「だが。」

 マキラに会える。その喜びと共にラルフは深い悲しみに包まれた。どうしても、あの日なにもできなかった無力な自分が脳裏にチラついてしまう。それに、歴史を紐解けば生まれ変わる前のラルフが王として行った所業も、マキラは知っているのだろうか?

 会わせる顔などない。


 そんなラルフを見て、エリックは静かに首を横に振る。

「ラルフ。あの日の事は誰かが悪い訳じゃない。

 マキラもまた3人で会えることを望んでる。」


 ラルフは唇を噛む。

 思い出すのはあの森の広場で3人で昼食を囲み、たわいの無い話をした穏やかで優しい日々。

 戦争が終われば、またそんな日々を過ごせるかもしれない。そんな希望がラルフの胸を静かに満たした。

 初めは神からの罰とさえ思った転生は、実は神からの寵愛だったのだと涙を流したいほどに感謝した。



 ◆◆◆◆◆



 情報交換が終わる頃には密会の時間は終わりに近づいていた。改めていくつかの事項を確認し、ラルフとエリックは別々の出口へと向かう。

「忘れずに鍵をかけろよ、エリック。それでこの部屋には誰も居なかったことになる」

「うん。分かってる。またね。ラルフ」

「ああ、また。」


 次に会えるのは戦争が終わった時。今度は前と違って明確なゴールが見えていた。

 互いに背を向けて、扉に手をかけた。

(前とは違う。今度こそ、俺は2人と未来を掴もう)

 最後にと、一度だけエリックの方をラルフ振り返る。

 マキラがエミーリアの凶刃により死んだ日とラルフがエリックに殺された日。ラルフはそのことを、前世の記憶を思い出す前から夢に見ていた。


 ふいに、ヒルドルフの顔が浮かぶ。

 いつも見る悪夢だと言って夢の話をヒルドルフにした事があった。不思議とラルフはその時のヒルドルフの言葉を思い出す。

『その金髪は、お前を殺したあとにどうなったんだろうな』

 夢が記憶となった今、ヒルドルフの言葉を時折考えることがあった。


 外に出ようとするエリックに声をかけようか迷ったが、辞めた。

 後で話す機会ならいくらでもある。それに、マキラにもエリックにも、もちろんラルフ自身にとっても思い出したくない出来事だ。やはり、このままこの疑問は胸にしまって話さないほうが良いのかもしれない。そう思った。


「(今は、成すべきことを成す。それに集中しよう)」






 ────バンッ







 それは、ラルフが立ち止まっていれば気づかないほどの小さな音だった。

 空耳と片付けても良いほどの音だったが、ラルフは走る。

 どうしようもない胸騒ぎがしたのは、ついさっきマキラが刺されたあの瞬間を思い出したからだろうか。

 ラルフが通った扉に手をかける。引っかかて動かない扉に、事前の打ち合わせ通りにかけられた鍵と気付き舌打ちをする。

 何歩か下がって扉にタックルする。扉の軋む感触にまた数歩下がって体をうちつけた。

 3度目で鍵が壊れ、扉が開かれる。


 目の前に広がる廊下には大量の血。争った跡。


 そして、血溜まりに沈むのは見間違うはずもない友たちだ。



 ◆◆◆◆◆



「ヒルドルフ!エリック!!」


 廊下の壁にそれぞれ背を預けた2人へと駆け寄る。エリックの腹にはナイフが、ヒルドルフの肩には細身の剣がそれぞれ刺さっていた。

 この密会にヒルドルフが居ることへの疑問はあったが、自分を尾行してきたのだと考えればとりあえずの納得は行った。それよりも今は2人の手当てをしなければならない。


「ラル、フ」

「ラルフ、ぅ」

 2人が同時にラルフの名を呼ぶ。

 まだ意識の戻らない朧気な目で2人はラルフを見ていた。


 その時、咄嗟にラルフはエリックの傍へと行った。

 重症度の高い方を選んだかのようで、過去のトラウマから来るものであった。

「大丈夫だ、エリック大丈夫だからな」

 ヒルドルフの頑強さを理解した上での行動でもある。戦場を見てきた経験からも、ヒルドルフの傷が深くは無いことが分かっていた。



 命を預けてきた相棒が自分より敵へと先に駆け寄る姿は、ヒルドルフにはどう映ったのか、ラルフは知ることは無い。



 ラルフにとっては、ヒルドルフも大事な仲間だった。

 記憶が戻ったとして、その前の出来事が消える訳では無い。前世でもああして互いに切磋琢磨し、狂気さえも受け入れ合う仲間など当然いなかった。なぜなら胸糞は悪いがあの都市はおおむね平和で、グレッグと友になることは二度と無かったからだ。


 ヒルドルフが動く気配にラルフは振り返る。こちらを睨む目から感じた敵意に僅かながらラルフは動揺した。

 肩に刺さった剣を自力で抜いて捨て、ヒルドルフの太い腕と大きな手がラルフを掴みあげた。


 敵を助ける姿から寝返ったのだと勘違いしたのだとラルフは悟り、両手を下ろしたままヒルドルフに務めて冷静に話す。

「ヒル、ドルフ、落ち着け裏切った訳じゃな、い」

 エリックにも動かないように手と目で促し、首を掴むヒルドルフの手に触れないようにゆっくり両手を上げた。

「一旦、話を聞いて、欲しい。ヒルドルフ」

 落ち着かせようとするラルフだが、ヒルドルフの血走った目は、いっそう険しくなった。


「─────。」

「は?」


 ヒルドルフの言葉がラルフは理解できなかった。

 言語が通じていない訳では無い。ただ、なぜそう言ったのかが理解できなかった。

 ラルフが思考を巡らす間にヒルドルフの目はどんどん殺意を増していく。戦場で、共和国兵に向けていた目で、ヒルドルフはラルフを見ていた。


 ヒルドルフが激昂し、さっきと同じセリフを怒鳴りながらラルフの体を壁へと打ち付ける。傍で見ていたエリックは声を荒らげ、ヒルドルフはよりいっそう怒る。


 それからヒルドルフは何かに取り憑かれたかのように同じ言葉を吐きながら何度も何度もラルフの体を壁や床へと叩きつける。



 ──────この時のヒルドルフの行動をラルフが理解するのは、ここから更に数百の転生した後だった。


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