チーズの想い出

野宮麻永

第1話

野球界を引退する日、テレビカメラを前に、ここまで育ててくれた球団やフアンの方へ向けて、俺は感謝の言葉を述べた。


高校を卒業してすぐにこの世界へ入り、1軍でのポジション争い、怪我をして復帰にこぎつけるまでのリハビリ、語りつくせないほど長く戦い続けた人生の一幕が終わる。



「――ありがとうございました」



挨拶の言葉を言い終え、深々と頭を下げると、記者からの質問が始まった。



「現役時代の最も印象に残ってることをお話いただけますか?」


「最も印象に残っている話、ですか……そうですね……あれは、いつだったか――」





同じ球団のやつが警備員に「僕、自転車どこに置きましたっけ? そもそも僕、自転車で来ましたっけ?」などと話しかけているのを横目に、試合を終えた俺が、従業員通路をタクシー乗り場に向かって歩いていた時だった。


ロッカールームからタクシー乗り場に向かう通路では、時間帯からなのか、球場のスタッフと会うことはまずない。


それが、その日は若い女の子が歩いていた。


「めずらしいな」と思った瞬間、突然、目の前をタイヤが転がるかのように、30cmくらいの円柱の何かがこちらに向かって転がって来た。

そしてちょうど俺の目の前で、くるくると円をかき、パタンっと倒れた。


拾い上げると、それはチーズだった。


こんなに大きくて丸いチーズは、アルプスの少女ハイジでくらいしか見たことがない。



「すみませーん!」



女の子がこちらに向かって言った。

チーズだし、そこそこ大きいので、飛んできたドッジボールの球のように投げ返すわけにもいかず、チーズを手にして女の子のところへ向かった。


女の子もこちらに向かってやって来た。


ちょうど、広い通路の真ん中あたりで、俺はチーズを女の子に手渡した。

そして、どうしても気になったことを聞いた。



「これ、チーズだよね?」


「そうですよ。あ、いります?」



そうじゃない。


そうじゃないんだ。


どうしてこんな大きなチーズを、君が、今、ここに持っているのかが知りたいんだ。



「ちょっと待ってくださいねー」



女の子は手際よく、チーズを覆っていた透明なセロファンを破ると、持っていたカバンの中からチーズナイフを取り出し、大きなチーズをその場で半分に切った。

そして、その半分を、やはり持っていたかなり大きなジップロックに入れてから、俺に渡してくれた。


なんて器用なんだ。立ったままで。



「どうぞ。美味しいですよ」



何となくその半分になったチーズを受け取ってしまった。



「じゃあ、失礼しまーす」



女の子は俺の目の前から、何事もなかったかのように去って行った。


残されたのは俺と、かつては丸かったが今は二分の一となってしまったチーズ……




タクシーで寮に戻ると、早速自分の部屋でチーズをジップロックから出した。


あの場所は球場関係者しか入れないところだ。

知らない子からもらった食べ物だったけれど、食べても大丈夫……だよな?


それほど魅力的なチーズだった。


好奇心に抗えず一口食べてみる。


美味しい。


けれども、女の子がパッケージを破いてしまったので、どこの、何のチーズなのか、わからない。

要冷蔵かどうかもわからない。


またあの女の子に会ったら、まずはチーズの名前を聞こうと思った。





けれどもそれから、あの女の子には会うこともなく、遠征を終え、ホーム球場に戻って来たのは、2週間後のことだった。



屋内練習場を出て、球場に向かう横断歩道を渡っていると、従業員専用の出入り口の前に、あのチーズを持っていた女の子を見つけた。


急いで横断歩道を渡り、女の子に声をかけた。



「この前は、ありがとう!」



女の子は、最初こちらが誰なのか分からなかったようで、きょとんとした表情をしていたが、


「チーズ、美味しかったよ。それで、あのチーズの……」


と言いかけたところで、


「ああ! あの時の! あれ、美味しいですよねー。でも、今日は持ってないんですよ」


と、申し訳なさそうに言った。


いや、チーズの名前を教えてくれれば自分で買えるから。



「あのチーズの名前……」


「こっちあげますね」



女の子はカバンから、以前と同じあの大きさのチーズを取り出した。



「ちょっと、ここでは分けれないから……」



と、辺りを見渡す。


周りには、これから始まる試合を見に来た観客や、特定の選手の出待ちをしているらしきフアンが大勢いた。



「どうぞ。あげます」



女の子は名残惜しそうに、まるいままのチーズを俺に差し出した。

その様子から、前回よりいいチーズなのだということがうかがい知れる。



「いや、それじゃあ悪いから」



チーズの名前を教えてくれれば、それでいいんだ。



「わたし、ここの球場でビール売り子してるんです。だから見かけたらビール買ってください。それでいいです。じゃあ、失礼します」



そう言って、俺に押し付けるようにチーズを渡すと、女の子は目の前の従業員専用出入り口に向かって走って行ってしまった。



いや……


前回は着替えてたから私服だったけど……


今日は、思いっきりホームのユニフォームを着ている。


何なら、背中のバッグからバッドの先も見えてると思う。


君がビールを売ってる、まさにその時間、俺は試合に出てるんだよ。

スタメンなんだ。


絶対ビール買えないから。



全身ユニフォームで観戦に来た、野球フアンだと思われたのか?


でも周りにいた人たちがキャーキャー言いながら、写真を撮ったり、俺の名前を囁いてたりしてたと思うんだけど……



俺は大きなチーズを持って、女の子が入って行ったのとは別の、関係者専用出入り口に向かった。



もらったばかりのチーズを見ると、外側のパッケージはなくて、チーズを包む透明のセロファンだけの状態だった。


また、チーズの名前はわからなかった。





「結局、そのチーズも要冷蔵なのかわからずじまいですよ。賞味期限も聞いてませんでしたが、すぐに食べたんで、まぁ、大丈夫でした」



俺は笑顔で話を締めくくった。



「あのぅ……今のお話は?」



あんたが「現役時代の最も印象に残ってることは?」って聞いてきたから、答えたんじゃないか。






END

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