神様だと思っているだけ

noy

第1話 噂話

「二〇二〇年、九月十三日。では、どうぞ」

 レコーダーのボタンを押してから、無言のまま三分は経っただろう。

 長田はしきりに垂れてくる汗を拭い、そのままその手ぬぐいを口に運んで、こちらへの配慮なのかチラチラと様子を伺いながら申し訳なさそうに口の中に自前の手ぬぐいを入れて口腔を拭き取っているようだった。

「ごめんなさい、汚いでしょう。でもこうしないと話を続けられないんです」

 口から取り出された手ぬぐいは見せないように折りたたんだつもりだろうが、緑とも黒とも言えない粉を練ったようなべったりとした異物がしっかりと見え、口の中は舌の色の変わる駄菓子を食べた時のように真っ黒で異様だ。そして、臭う。

 長田は、水を持ってきますと巨躯を前に倒しながらほとんど膝を曲げずに摺り足でのそのそとドリンクバーの方へ歩いていった。




 長田の事を知ったのはつい二日ほど前の事だ。

 私は昔から不思議な話が好きだった。いつからかその趣味が高じてマニアなサイトで一文字何円の怪談話の記事を書いているが、勿論それだけでは食ってはいけないので実家のカレー屋で働きながら夜な夜な原稿を書く、三十半ばにしてやっぱり今でも趣味に毛が生えたような生活をしている。

 とはいえ、やはり沢山のコメントが付き小さくバズったりたまにその界隈のイベントに召集がかかると足に羽根が生えてしまう程嬉しい。どこかに良いネタが転がっていないかと必死で聞き耳を立てる日々だった。

 その日も翌日の仕込みを終え、近所の行きつけのバー「MMM」へ足を運んだ。変わり者の同級生である佐野がマスターをやっている席数たった七席の小さな店で、客はそれほど多くない。佐野はすぐに気味の悪い心霊話や近所であった猟奇事件の下世話な噂話を始めるから、空気が合わない新規の客は一杯飲んだら嫌な顔をしながらさっさと帰って行くし、逆を返せば常連はそれをわざわざ聞きに来たり、真偽不明の話を土産に来るようなるような変人達だ。

 仕込みを早く終えたこともあり早い時間に入店するとまだいつもの常連も誰もおらず、佐野だけが呑気にスマホを見ていた。

「お、お疲れマリちゃん」

 私がカウンターに腰を下ろすと佐野はジョッキを目の前にドンと置いて、目を輝かせて身を乗り出してきた。

「実は俺マリちゃんが来るの待ってたんだよ。すげえ話があって」

「なに、教えてよ」

 佐野は誰もいないのに周囲を確認するようにして、妙な小声で話し出した。


 つい一昨日の話だという。

 毎晩のように閉店までいる常連が珍しく嫁に呼び出されたと文句を垂れながら普段より早く店を出た。その時点で閉店一時間前だったし平月の平日でノーゲストであったこともあり、佐野は早めに店を閉めようと片付け始めていた。

 カウンターを一通り拭き終えた時、物凄い勢いで店の扉が開き、ラグビーか格闘技でもやっているような体の大きな坊主頭の見たところ二十代中盤くらいの男が、走ってきたのか息を切らしてTシャツの色が変わるほどびしゃびしゃに汗をかきながら入店してきたのだという。

 あまりの迫力に閉店する旨を伝えるどころか何も言えずに呆然としていると、坊主男はハァハァという呼吸音の間に震えるような声で佐野に話しかけた。

「あの……水、あぁいや、出来るだけ、強い酒と、あとティッシュもらえませんか」

 佐野はまあ座って下さい、とカウンターに男を促しておしぼりとウイスキーと水と箱ティッシュと、いつぞや近所の商工会の挨拶回りで貰った新品のタオルを手渡した。男はウイスキーを一気飲みしてすぐにおかわりを催促し、小さく会釈してタオルで顔と頭をごしごしと拭いた。

「あの、大丈夫です?」

 汗を拭った坊主男の顔は火照っているどころかまるで生気が無いように真っ青で、よくみると唇が小刻みに震えていた。男は佐野の質問には答えずに新しく注がれたグラスの中の丸い氷を見ながら話しだした。

「はあ、すみません。あの、ここ何時までですか」

「基本、客足によるって感じですかね。今日みたいな平日は早く締める事も多いですけどお客さんがいれば朝までって事もしばしばです」

「そうですか。あの、まだ居ても平気ですか?」

「勿論。お兄さん今いらしたばかりじゃないですか」

 男はそわそわと背後や外をしきりに気にしながら未だ止まりそうにない汗を拭きながら良かった、と呟くとさっきより小さな声で話し始めた。

「……なんか変なもの、っていうか気味の悪いものを見たっていうか、聞いたっていうか。帰れなくて、はあ。どうしたら良いんですかね」

「え?」

「いや、何でもないです。おかわり貰えますか」

 気付くと男のグラスはまた空になっていた。どうしてこの店にはこういう面白い話が集まってくるのだろう、と坊主男の話の導入ですっかり浮かれた佐野は、自分の水割りも作って続きを催促した。

「気味悪い、ってどんな?変質者的な?それとも警察呼んだ方が良さそう?」

 男の顔面にまた汗が吹き出しタオルを取った。

「信じてもらえなくても仕方ないとは思うんですけど」


 男は名を長田というらしい。

 長田は幼少期を隣町で過ごしてから両親が離婚するタイミングで小四の時に何県も跨いで転校。いわゆるヤンキーとして十代をだらだら遊んだのちに、高校を中退した後は、偶然再会した地元の先輩が就職の面倒を見てくれるという事で戻って来たが、隣町では交通が不便だから隣町はやめて、この町にアパートを借りたのだという。四室一棟のおんぼろアパートの二階だったが、先輩が用意した物件だから文句も言わず生活をしていた。

 通勤はいつも自転車で四十分ほどかけて隣町の金属加工工場に通っている。その日も朝いつも通りの時間に部屋を出たが、昨晩置いた筈の場所に自転車が無いのだという。

 その代わりに、自分の自転車のあったはずの場所に、どう考えても小学校二年か三年か、そのくらいの男児が乗るような子供用マウンテンバイクがある。しかもそれは妙に古びていて小汚く、後輪がパンクしているしチェーンも外れて錆びていた。変なキャラクターのキーホルダーは顔が削れていた。

 長田はすぐに自分の自転車をガキに盗まれたと察したが、自分の自転車と言ったって、実際は以前駅前の駐輪場に放置されていたものを盗んできたものだったから、当然届け出も出来ないし誰に文句も言えない。朝から最悪の気分になりながら、とにかくまずは仕事に行かなければといつも向かう道とは逆方向の駅へと向かった。


 仕事を終え、定時より三時間過ぎる頃まで残業して、疲れているのに自転車が無いことを思い出しまたイライラしながら歩いていると、電車を使い慣れないが故に入るべき駅をすっかり通り越していたことに気付く。もはやイライラを通り越して落胆し、そのまま歩いて帰ることにした。

 誰もいない線路沿いをしばらく歩くと、線路を挟んだ向こう側に少し地面が小高くなっている広場がある。なにやら子供連れが楽しめるような安っぽい公園に毛が生えたようなテーマパークの遊具が並んでいて、ぼんやりとした照明がぽつぽつとその周囲を照らしていた。暗くて見づらいが、その先には丘があって山の方へ続いているように見える。

 長田はその場所になんとなく見覚えがあるような気がして周りを見渡した。すると、線路のフェンスに括りつけられた一枚の古びた薬局の看板が目に入った。

(あ、これ知ってるわ)

 一瞬懐かしい気持ちにはなるのだが、それがいつどこで見た看板なのか思い出せない。まあ地元へ帰ってきた訳だからきっと子供の頃に見た何かしらの記憶だろう、と特に気にせず歩みを進めた。

 十歩ほど歩いたところで後ろから子供の声がした。

「おーい、ゲンちゃん」

 長田は咄嗟に振り向いたが、誰も居ない。既に夜も22時を回るところだし、声の主が見当たらないとすれば近所の家の窓でも開いているのだろうと再び歩き出すと、また後ろから声がする。

「なあなあ、ゲンちゃんってば」

 さっきより遥かに近くから声がした。

 少し驚いて振り返るも、特段さっきと変わるところはない。長田の怖いものといえば職場に引き入れてくれた地元のチンピラの先輩を怒らせる事と、良い子じゃなかった息子を女手一つで図太く育てたが気分の乱高下が激しすぎる母親を怒らせるくらいなもので、よく聞く心霊体験の類には一切の興味が無い。それでも気味悪く感じた。

 早く帰ろう、と少し歩幅を広げたその時、線路の奥から本来乗りたかった路線の列車が走ってきた。

 列車が丁度、長田を追い越す時だった。

「ゲンちゃん、見てえ。僕の勝ちぃ」

 声は真隣の耳元、列車と長田の間で確実に聞こえたという。

 声の方をバッと見ると、列車が猛スピードで駆け抜けて視界から消え、線路の向こう側に先程の広場が目に入った。長田は何故かこれは絶対に見てはいけないと思ったが、体は動かず、目玉を固定されたようにそれを見つめた。

 何かが空を飛んでいる。

 いや、正確には揺れている……?

 ぼんやりとしたライトに照らされる度に何かが振り子のように行ったり来たりしている。こんな夜中にテーマパークのアトラクションの試運転か何かだろうかとも過ったが、よくよく見ると巨大なヨーヨーのように山の方から線路側に振れている。

 長田は硬直しながら何度も行き来するその得体の知れない揺れを見続け、やっとハッと息を吸えた時、山の方からぶんとテーマパーク側に振られたソレから、何かが線路を超えて飛んでくるのが見えた。

 飛来物はガシャン、と大きな音を立てて長田の目の前でフェンスに当たって落ち、フェンスに付いていた薬局の看板がその勢いで地面に外れて落ちた。

 飛んできたのは、古く赤黒く錆びついた、大きな工業用のクレーンフックだった。


 それを確認した瞬間、体が動くと気付いた長田は猛ダッシュで家へ走ったという。

 もしフェンスがなかったら確実に当たっていた、当たっていたら死んでいた、いや一体なんちゅう距離を飛んできたんだ、ありえない、と状況を飲み込めずパニックになりながらアパートの近くまで来たところで、うっかり信号を見逃して一度左折車に轢かれかけた。

 なんとか家の前に着きホッとして膝に手をつき立ち止まって呼吸を整えていると、朝の子供用マウンテンバイクが朝とは逆向きに停まっていることに気付いた。

 恐る恐る近寄ってみると、朝はチェーンが外れていただけだったはずなのに、チェーンがはまり、泥だらけの沼地でも走ったかのように何らかの汚い草が絡まっている。得体の知れない気持ち悪さが込み上げてきて、アパートの外階段を上がってすぐ目の前の自室に目をやると、長田の部屋のドアの前にだけ、まるでそこだけ雨が降っていたか、びしょ濡れの何者かがそこに立っていたかのように濡れて、自転車同様に泥だらけの草が落ちていた。

 自分が普段生活しているアパートなのにその佇まいさえも気味悪く思えた長田は二階に上がらず、逃げるようにアパートを背中にして駅の方へ走った。

 マウンテンバイクはそもそも長田のものではないから無関係ではあったが、さっきの謎の声や飛んできたニッパーにしても、部屋の前がびしょ濡れなことだって、到底信じられない気持ちの悪い事象だ。長田の精神状態はその時には恐怖のピークを迎えていて、とにかく一人でいられない、とたまたま客が出ていくところが見えた佐野の店へ飛び込んだのだという。


「って話なんだけど」

 佐野は話に夢中になって一度も口をつけなかった水割りを一口飲んでいつものニヤニヤした顔で興奮気味に続けた。

「その長田さんが最後に言った超怖い一言、聞きたい?」

「うん」

 私が興味津々で頷くと、佐野はわざとらしく声をオクターブ低く、

「自分、名前にゲンって、かすってもいないんすよ。長田浩司っていうんですけど。誰なんですかね、ゲンちゃん。……だって、どうよ」

 きた、と思った。地元の怖い話、まして産まれたてほやほやの怪談は良いネタになる。己の実体験でもないのに何故か誇らし気な佐野の表情を見ながらジョッキの残りを飲み干した。出来るだけ早く記事にしたい。

「佐野、その長田さんはその後はこの店には来てないの?」

「うん。その日飛び入りで一時間ちょっと居て帰っていって以来。でも連絡先分かるよ、あと多分家も分かる。ストリートビュー見たから」

「えっ、今見れる?その家」

 佐野はちょっと待ってねーなどと言いながらスマートフォンをこねくり回した。

「…え、あったけど、これ絵が変わってるな…」」

 画面に映っていたのは、築年数のいったアパートと子供用の自転車であろうものに養生テープがぐるぐる巻きになって置いてある不気味や物体だった。

「長田さんと見た時はこんなの無かったよ」

「私、彼に話を聞いてみたいわ。番号教えて」


 これが、私と長田が会うことになったきっかけだった。

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