第12話


 おそらく、綺麗に笑えた。

 いつも通りに笑えた。


 ソフィが淹れてくれた美味しい紅茶に異物である角砂糖を一つ入れて、それを混ぜる。

 混ぜて、まぜて。

 悲しみと平常を丸ごとかき混ぜて、気付かれないように、一つに溶け込むように丁寧に混ぜる。


 なんとなく、顔を上げ辛くなり、視線を閉ざしたまま紅茶を口にする。

 何事もないことを演じるためそれを飲めば、鼻に紅茶の香ばしい香り、喉に甘味が絡みつく。


 全部飲み干して、気持ちを切り替える。

 そうすれば、全部うまく行く。

 いつも通りになる。


 そのはずなのに。


「……団長に、最近の訓練に身が入らないと指摘された」

「えっ」

「もうすぐ北に生息してる猛獣がゼベランに渡る時期なのに、集中できないやつは帰れと命令された」


 唐突に始まった説明に私は驚いた。

 彼が、こんなに長く話すのは初めてなのではないだろうか?

 そして、こんなに早く喋る方なのだろうか?


「だから、気にするな。これは、俺個人の失態だ」


 今度は、彼が私から顔を背けた。


「……君に、これ以上負担を掛けたくない」


 眉間に皺を寄せながら、彼は言葉を終わらせた。


「私に、負担って……」

「俺の噂、君も知っているだろう」

「……何のことでしょうか?」

「……いや、いい」


 彼は深いため息を吐いた。


「君にとって、この結婚自体は不本意だっただろう」


 ああ、どうしよう。

 私の中から何かが、弾けた音がした。


「あんな噂を持つ男と結婚しないといけないんだ。……本意からほど遠いだろう。それに、君は――」


 ――パン!


 体が、理解より早く動いた。

 左手からひりひりとした熱い痛みが広がる。


 私にとって、この結婚自体は不本意、ですって?


「馬鹿にしないで……」


 不本意に決まっているでしょう!

 それでも、私はそれを受け入れることにした! しようと努力した!

 大好きな人から婚約解消が言い渡された日から何回も何回も何回も! 数えたくないくらい! 自分自身を説得した!


 仕方ないんだって。

 どうしようもないんだって。

 私にはこれくらいしか価値がないだって!


「もし本当に不本意だったら、なんですか? それで気を遣って私に指一本触れないおつもりですか? 私から距離をとってそれが私のためになるとでも? むしろ不本意なのは貴方の方ではありませんか? だって、私との子供がいらないのでしょう!」


 一度溢れだした感情に、歯止めが利かなくなった。

 何も言わない彼を都合よく解釈して、言葉の氾濫が止まらない。止められない。


「不本意だから、私は嫌々嫁いだと思っていますか? 勝手に決めつけないで! 一緒にいても、後ろに立ってまるで他人のように扱われて、私は、私はどれくらい……どれくらいっ!」


 何のために大好きな彼との想い出を火葬したのか。

 何のために好きでもない人に抱かれる覚悟を抱きながら家から離れたのか。

 どんな思いでただひたすら何もかも、一人で全部を呑み込んだのか!


「私の覚悟を、私のちっぽけな矜持を、これ以上踏みにじらないで!」


 今まで胸の奥に溜まった泥を吐き出せたおかげか、とても晴れやかな気持ちになった。


(ああ、胸が軽い)


 私の一部が昇華され、救われた。そんな、天に昇ったような心地だ。


 だけど、それは刹那的な凪に過ぎなかった。

 いや、むしろ心が落ち着いたせいで気付いたかもしれない。


(私、は……ああ、どうしよう)


 一番見せてはいけなかったものを見せてしまった。

 よりによって一番知られたくない相手に、だ。


「ご、ごめんなさい……私は、私……」


 逃げなきゃ。あの夜みたいに、逃げなきゃ。

 ここから先の展開なんて、知りたくないんだもの。

 ふらついた足に力が入り、あの夜みたいに、私は身を翻した。


「っ! 待ってくれ!」


 だけど、私の逃亡は始まる前にあっけなく幕を閉じた。

 渾身の力を振り絞ったそれを、彼はそれを片手で阻止した。


「いや、離して!」


 私の最後の悪あがきに、彼の力が一瞬だけ緩んだ。

 その隙に彼の拘束から左手を自由にした。

 左手が自由になった。その代わりに、彼の表情で私の身動きが杭に打たれた。


「なんで……」


 何で、そんな顔をするの?

 眉を寄せて、目を揺らして。


 まるで、傷ついた人の表情じゃないか。


 その表情はうまい具合に私の罪悪感を刺激する。

 同時に、理不尽な苛立ちも逆撫でされた。


 口から飛び出そうとした言葉をひたすら呑み込む。

 代わりに、言葉が涙に変換された。


「……すまない」


 謝罪の言葉に誘われて顔を上げると、眉間に皺を寄せる彼の顔と目が合った。


「君に、そんな思いをさせた。そんなつもりはないのに。……君を蔑ろにしない、それは俺の本心だ」


 今まで聞いたことがない、柔らかい声だった。


「だが、俺は知らないうちに、君を、君の覚悟を蔑ろにしたんだな」


 それを、聞くことしかできなかった。


「すまなかった」


 何でだろう。彼は謝る必要はなかったのに。これは私が大人になり切れないせいで起こした癇癪だから。むしろ、私が謝るべきなの。

 でも、その謝罪で、私の「何か」が赦された気がした。

 だから、なんだろうか。


 ぽつぽつと、本音がこぼれる。


「辛かったの」


 受け入れようと思ったのに、今でもまだ引きずっている。

 割り切れない自分に嫌気が差す。


「子供だって、産まなければ世間ではどう見られるのか……そんなことを考えたら、すごく怖かったの」


 これから考えようと思いながら、今はまだ大丈夫と現実から目を逸らした。

 現状に甘えている自分に嫌気が差す。


「それでも……それでも、国のためには必要だって言われて……それも、頭ではわかってて……だから、だから辛くても私が我慢すればいいと思って」


 だけど、それが上手くできず、今こうやって決壊している。

 理想の自分になれず、嫌気が差す。


 そのせいで、同盟国の重鎮である夫に無礼な振る舞いをしてしまった。


 割れたカップは、二度と元に戻らない。

 その残骸を見て、ひたすら「どうしようどうしよう」と泣きながら慌てる自分がもうどうしようもなく嫌い。そこに止まらず、他人のせいにまでしている。


 冷静で賢明な姉だったら、こんな失態をおかさないのに。

 そう思うと、益々と涙が止まらなくなった。

 足から力が抜けて、重力に身を任せ、私はその場に崩れ落ちた。


「ごめんなさい」


 嫁いだのは、私でごめんなさい。

 お姉様ではなくて、ごめんなさい。


「……ごめんなさい」


 私は私で、ごめんなさい。




 突然、体が温もりに包まれている。

 急なことに、涙が止まった。何が起きているのか理解できず、視界を遮る黒い布を見つめることしかできなかった。


「……君は」

「え?」

「君は、頑張ったんだな」


 耳元に、その言葉が小さく呟かれた。

 それは、私の我慢を剥がすには充分すぎるほどなものだった。


「ひくっ……うっ……!!」


 そうなの。

 「シエラ」が、すごく頑張った。

 やりたいこと、言いたいこと、表現したい気持ち。全部全部、「シエラ」が頑張って我慢した。

 皆が望む「妖精姫シエラ・アルブル」になれるために、沢山我慢したの。


 彼の言葉を貰った「シエラ」は、ただただ、泣くことしかできなかった。



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