次の依頼

 ちょうどその頃、外には依頼を受けたチャカがアパートの階下にいた。コンクリート製だが築90年は越えようという古いアパートで、中央の広場ではボロをまとった子供たちが屋台でドーナツを売っていた。ギトギトした不健康そうな油の匂いがチャカの食欲をそそった。

 チャカは子供たちに歩み寄ると、「ひとつくれ」と懐から小銭を出した。

 子供たちは不思議そうにチャカを見ると、ドーナツを紙に包んで手渡した。

 チャカはすぐにそれを口にすると、「うまいな」と言って子供たちに手を振った。

 チャカが階段をのぼりフィスタの部屋に近づくと、ドア越しに木材を叩くような高い音が聞こえてきた。

「……。」

 チャカがドアをノックをする。中から「チャカだったら入って」という声がした。

 チャカが部屋に入る。整理整頓が行き届いている部屋だった。掃除もしっかりしてあって、部屋の四隅にも汚れがない。アパート自体はひびが入り、共有部は住人たちのゴミとも区別がつかないものが散乱しているが、この部屋だけは建物の老朽さえも計算されている趣があった。

 ちゃらけた振舞いの一方で、生活者としてマメなフィスタのギャップにチャカは苦笑いをする。

 チャカは部屋の真ん中にある机の上に、整頓された部屋には似つかわしくない薄汚れた本を見つけた。フィスタがたまに読んでいる「日記」だった。

 読んでいるところは見るが、書いている様子はない日記で、以前になぜそこまでその日記に執着するのか聞いたところ、「昔の自分が書いたものだから」という、当たり前のことを言うので「そりゃそうだろう」としかチャカも返しようがなかった。

 日記の表紙にはカタカナで「アトロポス」と書かれてあった。フィスタが言うには、運命を司る三女神の三女の名前らしく、それが記憶のなかったフィスタの唯一の手掛かりになるとして、自分には三女神の長女を名字としたのだった。

 すると、ちょうどドアを開けて入ってきた風のせいで日記がめくれた。

 いつもだったら無視するチャカだったが、その異様さに気づいて目をやってしまった。

 日記の中が真っ黒だったのだ。しかし手に取ってみると、それは真っ黒なのではなく、何か小さな文字がみっちりと大量に書き込まれているようだった。

 さらに日記のページをめくろうとするチャカだったが、日記の隣に置いてあった写真を見て気まずくなり、日記をテーブルに戻した。

 それはフィスタの娘と思しき少女の写真だった。娘には自分と同じように顔に痣があるとフィスタが言っていたので間違いないだろう。写真の少女は見切れている誰かに抱かれていた。チャカはそれが母親のフィスタなのだと思った。

 チャカがリビングに行くと、そこには木製の円柱型の柱から三本の木の棒が突き出ている木人、中国拳法で型の練習と部位鍛錬に使う練習器具に打ち込みを行っているフィスタの姿があった。

 フィスタはボクシングのようにウィービングしながら右腕で右の側頭部を守りつつ木人に左ストレートを入れると、素早く両腕を交差させ防御の体勢をとり、その組んだ腕を木人に押しつけ、そこから肘打ちを木人に打ち込んだりなどを、高速の手さばきによって繰り返していた。

 部屋の入口のへりに背中をもたげた状態でしばらくその様子を眺めた後、チャカが訊ねる。

「……そりゃ功夫か?」

「……52ブロック」

「なんだそれ?」

「アメリカが合衆国だったころ、ボクシングをベースにアフリカンが身を護るために作ったマーシャルアーツ。特に刑務所で力を発揮したから、ジェイルハウス・ロックとも言われてるよ」

 チャカに説明している間も、フィスタは木人に打ち込みを続ける。アフリカ系の武術、言われてみればその動きはヒップホップの音楽に合わせたダンスのようにも見えた。

「何というか、まぁ、チャイナの道具でアフリカの武術の鍛錬するのはお前くらいのもんだろうな……。」

 打ち込みを続けながらフィスタが言う。

「で、こんな時間に何か用?」

「……仕事の依頼を預かってな、お前に手伝ってもらおうと」

 チャカは懐から手のひら大の通信端末を取り出して、画面をフィスタに見せる。

「あれ? あんた午前中は働かない主義じゃなかったっけ?」

「実働はそうだ。だが準備はいつだって怠らんさ」

「ただの真面目君じゃん」

「で、どうするんだ?」

「内容によるよ。どんな仕事?」

「逃がし屋だ」

「なに? 依頼人は追われてんの? あんまりでかいところともめたくないんだけど、大丈夫?」

「大丈夫だ、依頼人はロウズから逃げようとしてるらしい」

 それを聞いてフィスタが打ち込みを止めた。

「マジ勘弁、あたしがロウズがらみの仕事NGなの知ってるでしょ?」

「いやいや、もちろん知ってるさ。でもな、今回は逃がし屋だぜ? あそこに入るのは難しいが、いったん逃げちまったらロウズの奴らは追ってこない、そんなリスクを取る意味なんかないからな」

「そうかもしれないけれど、とにかくあたしはロウズがらみは嫌なんだよ」

「お前は前からそう言うが、ロウズと何かあったのか?」

「何があったかは知らないけれど……日記に書いてあるの」

 チャカは入り口のあるキッチンに目を遣る。日記の置いてあった場所だ。

「前から聞こうと思ってたんだが、あれはお前の書いた日記か?」

「そのはずだよ」

「そのはずって……。」

「とにかく書いてあんの、ロウズとは関わるなって」

「何だよ、じゃあ他に何が書いてある? 夜の十二時過ぎたら飯食うなとかか?」

「あとはマステマとは絡むな、かな」

「マステマに手を出さないってのはこの地域じゃあ常識だ。日記に書いてなくても……ちょっと待て、マステマの事も書いてあるって、あの日記いつに書いたんだ? マステマがここいらに現れて、もう十年以上になるぞ」

「さぁ、でも結構昔だね。あたしがとっても若い頃だと思う」

「だと思うって」

「だからさぁ、チャカ、今回はあたしはパスだよ」

 鍛錬を終えたフィスタは、タオルで体を拭き始める。

「おいおい、ちょっと待て。前回のお嬢ちゃんから受けた仕事、いっとくがありゃ俺の善意でやったようなもんだからな?」

「現行犯だったじゃん?」

「そうだったとしてもだ、元々割の合わない仕事だったんだからな。こっちには断る選択肢だってあったんだぜ」

「そうかもしれないけれど……。」

「いってみりゃあ貸しだ。返してくれたって良いだろう? なぁ頼むぜフィスタ、依頼料の良い仕事なんだよ。要り様なんだが、この間の嬢ちゃんの仕事じゃあ足りないんだ」

「何かあったの? いっつも用意周到なあんたが金に困るなんて」

「……もうすぐ弟の誕生日なんだ」

 そう言うチャカの言葉は少し口元でつっかえているようだった。

「……チャカさぁ、もういい加減」

「分かってるが、俺にとってあいつのことは、続けていかなきゃいけないけじめみたいなもんなんだ。お前が日記にこだわるのと同じようにな」

「あたしの日記は娘との関係なの、あんたの場合は……。」

「俺の場合は何だ?」

「……もう少し前を向いてもいいんじゃないってこと」

「向いてるさ。向くためにやってるんだ」

「……分ぁかったよ、チャカ。あんたには今生じゃあ返せないくらいの借りがあるからね。……仕事は依頼人をロウズから逃がすだけ、それだけで良いんだね?」

「もちろんだ。もともと依頼人だっていわくつきだろうからな、何たってわざわざロウズから逃亡を図るんだ、話が違えば知らぬ存ぜぬでとんずらこいちまえばいいさ」

「……そうだね。で、いつ実行なの?」

「今日の夜、リェンサンの周辺にある工場跡地で待ち合わせることになってる」

「急ぎだねぇ」

「この稼業はそういもんだ。土壇場の奴からの依頼なんだ」

 フィスタが仕事を受けてくれることに安心したチャカはドーナツをひと齧りする。

「どうしたの、それ?」

「ん、ああ、下でガキどもが売ってたんだ。朝飯にちょうどいいと思ってな」

「へ~……何ともない?」

「何ともないって?」

「あの子たち、バイクの油でドーナツ揚げてんだよ」

「……。」

 チャカはうつむくと「何か気分悪くなってきた」とうめいた。

「まったく、何でもかんでも口に入れるから~」

「……おかんかよ」

 フィスタはそんなチャカを尻目に、棚から瓶を出すと中身をミキサーの中に入れた。黒く乾いた物体がぱさぱさと音をたてながらガラスの器に入っていく。

「……お前こそ、それ何食おうとしてんだ?」

「ん? これ?」

 そう言って、フィスタは瓶の中身をつまんで取り出した。

「お、おま、それ……。」

 フィスタが指でつまんでいるのは乾燥させたコオロギだった。

「コオロギだよ? 大丈夫、大丈夫なところで買ったから」

 フィスタはそう言いつつ、てきぱきとミキサーの中にベリーやナッツ、牛乳を投入していく。

「え? それ全部……。」

 そしてミキサーですべてを粉砕してかき混ぜた。

 チャカは「それを飲むつもりか?」と訊きたかったが、飲むつもりでしかミキサーにはかけないだろう。

 フィスタは混ぜ終わると、ミキサーのガラスの容器を手に取り、一切の躊躇なくごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。飲んでいる間も、フィスタの表情は微動だにしていなかった。

「お前……何でそんなえげつないもの飲んでるんだ?」

 そんなチャカに、フィスタは不思議そうな顔をして逆に訊ねる。

「何でって、これが今手元にあるもので一番栄養価が高いからだよ? ビタミンミネラル、それにコオロギも入れたから、カルシウムもたんぱく質もばっちりなんだから」

「そ、そうか……。」

「あんたも飲む?」

 フィスタはガラスの容器をチャカに突き出した。

「いや、いい……。」

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