track #36 - New York New York ②

 翌日の昼頃、枕元に置いてあるスマホが振動してベッドの中に横たわったまま電話に出た。

「起きてた?」

と、話し出したの小野瀬だった。

アタシはこの電話が来る前から起きていた。昨晩眠りに着こうとベッドに入ったものの、小野瀬のことを考えてしまいなかなか寝付けずにいた。考えてもどうにもならないし、もはや何を考えているのかもわからなくなって、だいぶ遅くなってから自然と眠りに落ちたようだ。結局また彼のことが気になって自然と目を覚ましベッドの中で思考を巡らせていた。寝不足の頭では何も整理できない上に身体がだるくて起き上がらずに布団にくるまったまま過ごしていた。

「うん、起きてたよ」

と、答えると

「アイちゃん、最後に今日、もう1回会えない?」

と、今日東京に戻る予定の彼が言った。アタシは少し考えて

「じゃぁ、空港にお見送りにいくよ、時間教えて」

そう返事をした。ハッキリとさようならを言って彼の後姿を見れば、眠りを妨げるほど彼のことを考えなくて済むだろう。始まりもせずに終わりもせずに曖昧なまま5年間放置した関係にケジメをつけるタイミングなのだと思った。


 搭乗時間の30分前に待ち合わせをして、空港内のコーヒーショップで買ったコーヒーを片手に搭乗ゲートの前に並んだ沢山のイスの1つに腰を下ろした。

たわいもない話をして、彼が帰る時間が刻々と近づいた。

彼の乗る便の案内がアナウンスされて、同じ飛行機に乗る予定の上客達がゲートに列を作り始めた。

「そろそろいかないと」

アタシが言うと

「そうだね」

と、小野瀬は返事をしてアタシ達は同時に立ち上がった。彼の大きくて綺麗な手はキャリケースの取っ手を掴んでゆっくりと歩き出した。近くのゴミ箱にコーヒーカップを捨て一歩一歩無言でゲートに近づいていく。アタシもそれに合わせて半歩後ろを歩いた。

そして小野瀬は列の最後尾に着くと、それには並ばずにこちらを見た。

「アイちゃん、オレ、仕事辞めるんだ」

急な告白にアタシは何もリアクションできずにただ彼を見つめた。

「全部辞めるんだ。事務所も、なにもかも」

ただ黙っているアタシに小野瀬は改めて言った。

「え? 辞めるの? 仕事……」

まだ理解の追いつかないアタシが彼の言葉を繰り返すと

「そう、辞めんの、仕事。これから無職」

と、彼は笑いながら言った。その目の覚めるような笑顔を見てアタシは彼の言ったことを理解した。

「は?! 辞められるの? まさか!」

彼の選択の重要さを同時に理解したアタシは場をわきまえずに大声を出すと彼も大きな声をあげて笑っている。言葉は理解できたはずだがまだまだ現実味がなくてアタシは続けた。

「いや、おかしくないし、そんな……。 小野瀬直樹が引退するってことでしょ?」

「うん、そう。今年いっぱいでね」

「事務所、よく許したね」

「まぁ、5年かけて説得したから」

あまりにも大きな出来事にアタシの脳内はパニックで、今はまだ理由やそれに至るまでのアレコレを説明されたところで飲み込めなさそうで、言われたままを理解するしかなかった。小野瀬は困惑した表情のアタシ左手を自分の右手で握った。

「アイちゃんに直接会って言いたかったんだ。でも重いかなって思って言えなくて……」

アタシは彼の目を見つめて彼の言葉に集中した。

「オレは今度はちゃんとアイちゃんと付き合いたいなって思ってる。仕事辞めんのはそれだけが理由じゃないけど、オレの仕事のせいでアイちゃんを傷つけたのは事実だから」

彼が言い終わる前にアタシの身体は勝手に動いて、背伸びをして彼の首に両手を絡ませて抱き着いていた。

「アタシは傷ついてはないよ」

と、アタシが言うと彼もアタシの身体を抱きしめて

「ずっとこうしたかったんだ」

と、つぶやいた。

アタシもきっとずっとこうしたかった。彼を抱きしめたかった。5年間ずっと彼を想い続けていたわけではないけれど、消化しきれない彼への思いはずっと心の片隅においてあった。気づかぬふりをしていただけで、ずっと存在していた。

 搭乗手続きの最終アナウンスが響いた。

アタシ達は身体を離し、また向かい合った。

「オレ、引退したらすぐニューヨークに来ていい? アイちゃんのとこに」

「うん、待ってるよ」

「毎日メッセージするから、電話も」

「うん」

アタシはキッパリとケジメをつけようと来たのに、彼に帰って欲しくないキモチでいっぱいになり、彼もまたそんな様子でなかなか別れられないでいた。

「じゃぁ、行くわ」

小野瀬が意を決してキャリーバックを弾く手にチカラを入れた時、アタシは

「待って」

と、言って、彼の肩を掴んでまた背を伸ばしキスをした。彼の左手がアタシの頭にふれて髪がくしゃっとなった。高揚感と多幸感で身体が熱く胸がいっぱいだった。

唇を離すと彼が

「行かなくちゃなんねぇのに!」

と、ふざけて怒った表情で言って、もう1度軽くアタシにキスをして搭乗ゲートに向かった。

彼の姿が見えなくなるまで後姿を見つめた。

空港に来た時はこんなキモチで彼を見送るなんて想像していなかった。

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