第4話
1984年。知毅と怜於が婚約、私が怜於の教師となった四月。その最後の木曜日。
龍明と話したい。朝起きるとそう思った。知毅と怜於の婚約。この出来事を、彼がどう感じているのか。当時の彼の心を探りたくなった。
怜於の授業のために、前日も船を訪れていたが、授業が終わると、龍明はすでに出かけていた。怜於は言った。
(明日は一日うちにいるから、二人でピアノを弾いて、海に行く)
怜於が授業を受けている午前中なら、二人で話ができる。そう思い、電話もかけずに押しかけた。
「おはようございます。蓮實様」
「おはよう。善さん。龍明は部屋?」
「はい」
「お邪魔する」
竹本善さんとその配偶者の律さんは、知毅と龍明の祖父に雇われたという。私がはじめて訪れた時には、すでに船に住み込み、働いていた。1984年には、どちらもすでに六十代半ばとなっていたが、まだまだ壮健に見えた。臨時の雇い人を使いながら、家を隅々まで磨き上げ、素敵な食事を毎日用意して、龍明が望む船を、よく造り上げていた。どちらも礼儀にうるさい門番だったが、私の突然の訪問は、何時でも許してくれた。
いつごろかはよく覚えていない。私は龍明の身内のように、好きに船に出入りして、いたって自由に、船のなかを歩き回っていた。幾つかの部屋には、扉が開けば、勝手に入った。三階にある龍明の部屋にも。この日もそうした。扉を叩いても答えがないから、無断で覗きこんだ。
鎌倉の宗形邸には、三階建ての本館(我々が呼ぶところの船)と離れて、平屋の別棟があった。別棟には檜造の大きな浴室が設けられていたが、本館のいくつかの部屋にも、小さな浴室がついていた。龍明の部屋にもあった。その浴室の扉が空いていて、湯気が見えた。なかをのぞけば、龍明と、ハンサムなブラックシェパードと、美しい雉猫が、湯気のなかで私を見た。
犬の名は公爵。猫の名は毬子さん。公爵は
「みんなで入るには、ここじゃあ狭いだろう」
「ここは朝陽が良く入るし、窓から海が見えるんだ」
龍明は四十を超えるまで、父祖より相続した富で暮らしていた。医学博士でありながら、医者として働きもせず。祖父が興した製薬会社の役員でありながら、ろくに出社もせず。趣味にいそしみ、人との交際を楽しむという生活で、つまりは「道楽者」の旦那だったわけだが、その風貌は、少年時代から英雄だった。
はじめて会ったときは十一歳。その年頃にしては大柄だったが、私より小さかった。端正な知毅の横で見れば、凡庸な顔立ちだったが、目が冴え冴えとして、気品と威厳に満ちた、実に奇妙な子供だった。高校に入学した頃、背丈と逞しさで私を追い抜いた。高校を卒業した頃には、どちらも知毅と並ぶほどとなり、大学を出る頃には、知毅を追い抜いた。その頃には、あの紙幣に刷り込みたいような、気韻高い顔も出来上がりつつあったか。この立派な男は何者だろう。彼を紹介された人間は、必ずそんな顔になる。三十を超えた頃には、そんな風貌となっていた。
過ぎた威風堂々を和らげるのは、いつも上機嫌な顔付きと声だ。その静かな優しさは、二十代の頃でも慈父を感じさせたが。澄んだ眸は、幾つになっても、天衣無縫な子供のものだった。
耳が恐ろしく良いせいか。外国語と楽器の演奏は、習えば、たちまちものにした。十四か国語を操り、幾つかの楽器で、素敵な演奏を聞かせてくれた。その気があれば、ピアノはプロの演奏家になれたかもしれない。馬と車とセスナ機を巧みに操り、パーティーではどんなにダンスの下手な女性も優雅に見せることができて、見事な水墨画も描いた。あれほど豊穣たる才能と魅力の持ち主を、私は他に知らない。
「何かあったのか?」
「別に何もないが。話がしたくなった」
「話?」
「君とはなかなか、二人きりになれない」
「そうかな」
「君にはいつも怜於がへばりついてる。でなきゃ知毅か、久世くんか、薫の君か。君のシンパがだいたい傍にいる」
「あんたも忙しい」
「授業が終わるまでなら、今日は二人になれそうな気がした」
「あんたが呼べば、俺はいつでも、どこにでも行くのに」
湯のなかに沈みきらない、逞しい肩が美しかった。胸元の濡れた体毛が好ましかった。知毅の体も龍明の体も、大型の肉食獣のように見事だった。眺めていると、男とはなんと立派な生き物かと思えた。
「さて。あっちで待っていてくれないか」
「あがるのか。遠慮するな。僕が来なきゃ、あと一時間くらいここで遊んでただろ。君は幾つになっても水遊びが好きだな」
「ここであんたとは話しにくい」
「毬子さん。おいで。ご主人さまは僕の為に、水遊びを中断してくれるようだ」
知毅も龍明も、私に裸を見せると、羞恥を感じるようだった。無礼なこととも思っているようだった。そんな二人の反応に、子供の頃は結構狼狽えた。この頃はただおかしくて、時々そんな二人をからかった。
湯気に濡れた猫の体を、タオルで拭いていると、律さんが部屋に入ってきた。
「失礼いたします」
テーブルの上に、紅茶と胡桃のケーキが置かれた。毬子さんを乾いたバスタオルに包み、私は椅子に腰を下ろした。タオル巻きの毬子さんは膝の上に置いて、逃げないように手で押さえた。毬子様はドライヤーを受け付けなかった。入浴後は水気をよくとり、タオルでくるんでおくしかなかった。
「旦那様はまだ浴室ですか」
「すぐに上がってくるはずだ」
「蓮實様は、その子のお気に入りですね」
「そうかな」
「そんなに大人しく抱かれているのは、蓮實様と旦那様だけです」
ご主人の善さんはいつも温顔だが、奥方の律さんは、いつも難しい顔をしていた。善さんよりかなり長身で、いつも黒い服を着ていた。幾つになっても、背筋が伸びて優雅だった。
律さんが去るとすぐ、龍明が公爵を従え、浴室から出てきた。ベージュのチノパンツに、カカオ色のシャツ。そんな恰好だったか。彼は茶系の服を好んだ。細身の服が流行っていた頃も、大き目の服をゆったり着るのが好きだった。そして家のなかでは、たいてい裸足だった。
公爵は龍明から離れ、窓際に体を伸ばした。タオルで十分に水気をとられた、濡れた黒い体が、午前の光に輝いていた。
龍明は私に、目元で笑いかけた。「待たせた」と、声なく囁いた。私が彼のカップに紅茶を注ぐと、立ったままで、ミルクを入れて一口飲んだ。毬子さんの喉を指で擽ると、ドライヤーを取りに行き、公爵の体を乾かし始めた。
「チカちゃんはまだ戻らないのか?」
「五月の中頃には、戻るそうだ。昨日電話があった」
「知毅と怜於が婚約したことは」
「もう知ってる」
「君が知らせたのか」
「いや」
二十四歳の秋、龍明は細君を迎えた。相手は知毅の幼馴染で、私も龍明も、知毅の紹介で彼女を知った。その名前一凛《イチカ》を縮め、知毅は彼女をチカと呼び、龍明と私は、チカちゃんと呼んだ。
十代の私は、兼平知毅と宗形龍明、二人のことばかり、考えていた気がする。中学生の時は、同学年の知毅に熱中していた。高校時代は、二つ年下の龍明が、日々成長してゆく姿に魅了され、彼に慕われる知毅に嫉妬を感じていた。
こちらも惚れこめるような女と結ばれてほしい。龍明にも、この思いはあった。二人の周囲にいた女たちはみな、私から小姑の観察眼を、いくらかは感じていたに違いない。
私の父は
「知毅はあの子を子供扱いして、あの子の求愛を斥けていた。一体何があって、婚約なんてことになったんだ?あいつに聞いても、何も言わない」
ドライヤーを止めると、龍明は私の前に腰を下ろした。公爵も彼の足元に落ち着いた。私は毬子さんの眉間を指で楽しみながら、何気ない調子で、龍明にそう切り出した。
「俺が婚約の報告を受けたのは、三月二十九日だ。同じことを聞いたが、だんまりだった」
「君にも?」
「二人の秘密のようだな」
「あいつは本気で、あの子と結婚するつもりなのか」
「あの子は本気らしい。知毅は俺にそう言った。それで、あの子に求婚したんだぞ」
「あの二人がどんな夫婦になるのか。まったく想像がつかない」
「今でも良く息の合ったコンビだ。そう見えないか」
「組手の息は合ってるな」
毬子さんが窮屈そうに、タオルのなかで暴れた。タオルを広げると、毬子さんは私の膝の上で体を震わせ、身繕いをはじめた。
龍明が私に言った。
「あんたはあの二人の婚約に、納得できないようだ」
おかしなことになった。二人の婚約を聞いた時、そう思った。怜於が知毅にふさわしい相手とは、私には思えなかった。しかし。
「あの子がもう少し大人になって、二人で納得して結婚するなら、仕方がない。祝福するさ」
これでおさまるなら、最悪の事態ではないかもしれない。二人の婚約に、そんな安堵を感じてもいた。
「あんたは長い間、知毅と松本さんの復縁を願ってたが」
「チカちゃんと君が結婚するまでは、君が彼女を追いかけるように、仕向けてたつもりだが」
十代のチカちゃんはいつも知毅を見ていた。知毅もいつか彼女を見る。私はそう思っていた。どうしてこの女なんだ。知毅が信乃と婚約したときにはそう思った。信乃の魅力を認めるまで、そう思っていた。知毅が彼女との婚約を破談にしてからは、知毅にはチカちゃんがいるのだからと、龍明と信乃を近づけるように画策した。
「彼女が俺を受け入れたとは思えない」
「彼女は知毅を慕っていたが、君にも惚れこんだ。そんな自分を恥じて、君らから離れた。君が追いかければ、いつかは君と結婚したさ。でも君は追わなかった。知毅は君に、彼女を頼むと言ったのに」
「俺のせいで、知毅と彼女の婚約は壊れたんだぞ」
「破談にしたのは知毅だ。君の方が、彼女とはうまく行くと思ったんだ」
「バカげた錯覚だ。本人にも昔そう言った。あの二人は。思い思われた、良い縁組だった」
「それぞれ自分の生活をしていて、仲が良い。君とチカちゃんは、今や僕にとって理想の夫婦だが。君らが結婚した時には驚いた」
「彼女が結婚を承知してくれたときには、俺も驚いた」
「君はいつから彼女との結婚を考えてたんだ」
「彼女はずっと知毅ばかり見てたが。知毅は松本さんと婚約した。そのときから、いつか申し込もうと思ってたよ。はじめて会った時から、憧れていた人だからな」
「君は色々な人間を、ほんとに好きになる。本命がわかりずらいな」
「あんたの本心もわかりづらいぞ」
「本心?」
「彼女に求婚した。知毅と彼女を結び付けることは、いつ諦めたんだ?」
「そこは諦めてから、結構経つよ」
知毅とのことは終わったことだから。そう考える彼女の意思の固さに、あきらめざるをえなかった。
「あんたは彼女がずっと好きだったが。求婚する気があったとは思わなかった」
「申し込んだ自分に、僕自身驚いた」
「本気なんだろうな」
「彼女に責任を感じて、ありきたりの「良い夫」を演じてみたい。心からそう思ってるよ」
「あんたは知毅と、落ち着きたいのかと。俺はそう思っていた」
私もまた、どちらにも恋をした。恋人同士がすることと、一般に思われていることを、どちらともしたことがある。一緒に月を見上げたり、浜辺を歩いたり、お互いに深く落ちてゆくように見つめ合ったり。しかし、結婚したいと思ったことはない。どちらとも。人にその可能性を問われると、笑いたくなった。
「君とチカちゃんの養子になるほうが良いな」
船で三人に囲まれて幸福そうな怜於を眺めていて、そんな気になった。
「本気なら検討するぞ」
「あの子はずっと、君たち二人を追いかけまわしてた。知毅より君の方が、あの子に打ち込んでいて甘い。あの子に落とされるとしたら君かと、僕は思ってた」
「俺は既婚者だぞ」
「そうだな。君らは良い夫婦だ」
結婚して五年が過ぎた頃、チカちゃんの「武者修行」がはじまり、夫から離れて、家を空けてばかりいる悪妻の評判がたちはじめた。根が律義な、良家の子女である彼女の、悪妻の評判が立つような、自由な行動を、私は少しばかり痛ましく思った。知毅がチカちゃんを見つめる眼差しを、どうして今更と腹立たしく感じた。
「知毅は怜於と結婚するなら、怜於を俺の養子にしたい。彼女が帰ってきたら、相談したいと思ってる」
「知毅が君の婿になるのか」
「どう思う」
私にとって最悪とは、知毅と龍明の仲が壊れることだった。私のなかでは、大好きな二人はもはや一対の存在となっていた。これで龍明とチカちゃんの仲は保たれて、最悪は防がれる。怜於と知毅の婚約を奇妙に思いながらも、そう考えた私は、安堵を覚えた。怜於が龍明とチカちゃんの養子になれば、その方角でおさまってゆく。
私と龍明の話にじっと耳を傾けているような公爵と見つめあい、諦念と喜びの思いで、私は言った。
「君は知毅が好きだな」
この時、凄い勢いで扉が開いた。私が龍明を追求する時間は、期待していたより短かく終わった。
「龍!」
飛び込んできた孫悟空は、龍明のもとへとすっ飛んできた。おかまの気分になっても良いのか。この日はスカートを履いていた。白地に黒い棒縞の入ったワンピースの裾が、勢いよく翻った。
私の存在に気づくと、親にしがみつく幼児のように、怜於は龍明の腕をとった。つまらなそうに言った。
「こんにちは。来てたんだ」
幼い恋人を甘やかす男にも、優しい父にも見える顔で、龍明は怜於の手をとった。
「授業はおしまいか」
「うん」と、怜於は目を輝かせて、龍明を見上げた。二人の大きさと逞しさのためか。龍明と知毅を見上げる時だけ、怜於は少女に、見えなくもなかった。
私は二人の様子に、少しばかり違和感を覚えた。その違和感に首を傾げながら言った。
「随分早いな」
甘えた顔を瞬時に引き締め、怜於は知毅のように右眉を上げた。怜於はよく知毅の顔つきや仕草を真似た。この顔つきをすると、知毅は尊大に、怜於は生意気に見えた。
「ジェーンは今日、用事ができたのさ」
龍明が怜於に尋ねた。
「彼女はもう帰ったのか」
「うん。今日はごめんなさいだって」
怜於は公爵とは反対側の、龍明の足元に座り、胡坐をかいた。もう龍明から離れないだろう。そう思った私は、龍明の追及を、ここで完全に諦めた。
怜於は私たちを見比べて、龍明のシャツの裾を引っ張った。
「風呂に入ってたのか?」
「入ってた」
「先生と?」
「この人と?まさか」
怜於は私と龍明を見た。
「何だ?」と尋ねると、むすっとした顔でこう答えた。
「龍と知毅には、先生が貴婦人に見えてる。時々そう思う」
私は龍明に尋ねた。
「そうなのか?」
龍明は言った。
「俺はあんたに求婚してないだろ」
怜於の眦が吊り上がり、その手が龍明の腕をぐいと引っ張った。
「前から聞きたかったんだ。あんたと知毅、先生は昔、どっちと付き合ってたんだ?」
私は腕組みをして、二人を眺めた。怜於に言った。
「どっちとも、今も付き合ってるさ」
怜於は龍明を問いただした。
「どっちとも付き合ってたのか?」
龍明は優しく答えた。
「知毅はあなたと婚約したし。タカさんは松本さんと婚約した。昔のことは気にしないことだ」
「気になるんだよ。なぁ。龍はセンセイと付き合ってたのか?」
龍明は私を見て微笑んだ。
「この人と知毅は俺の兄で、永遠の恋人だが。どちらとも、恋をしたことはないな」
怜於が突っ込んだ。
「永遠の恋人?恋をしたことがないのに?」
龍明は怜於の髪に指を差し入れた。私はまた違和感を覚えた。
「あなたも俺の、永遠の恋人だ」
「ひょっとして、トッキーと薫もか?」
「もちろん」
「一番好きなのは誰なんだ?」
「順番はつけられないな」
私は怜於に言った。
「こいつにとって、惚れた相手はみんな大切な恋人だ。お相手がいる恋人とは、友達付き合いをする。そのお相手とも友達になる。恋に執着はしない。そのくせ、いつまでも恋人だと思っている」
嫌な男だとは、声を出さずに呟いた。
怜於はしかめっ面で言った。
「龍に何人も恋人がいることを、一凛は許してるのか」
龍明は言った。
「怒られたことはないな」
私は言った。
「彼女のことなんてお構いなしで。君はこいつを追いかけまわしてたが。彼女がこの男の配偶者だと、わかってはいるようだな」
ばつが悪そうな顔で、怜於は言った。
「俺、一凛が好きだから、ちゃんと言ったぞ。知毅が好きだけど、龍も好きなんだって。俺が龍を落としたら、龍は俺にくれるって。離婚してもいいって。一凛はそう約束してくれた」
龍明は言った。
「俺の知らないところで、二人でそんな約束をしてたのか」
膝の上の毬子さんが、寝たまま四本の脚を伸ばした。可愛い喉を擽りながら、私は言った。
「龍明は君の養父になって、知毅の舅になりたいそうだ」
毬子さんは喉を鳴らした。公爵が怜於の顔を見た。怜於は目を見開き、口をへの字に引き結んだ。叱られた腕白小僧の顔で、龍明を睨んでいた。
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