第38話 嵐の夜の来訪者
翌朝、目覚めるとゲルトの姿はなく、椅子も元の位置に戻されていた。
外は相変わらずの雨天で、夏に差し掛かるというのに肌寒いほどだ。
のっそりと起き出したリアはカーテンを開け、目を擦りながら鏡台の椅子に移動し、抽斗から櫛を取り出して丁寧さの欠片も見られない仕草で銀の髪を梳いていく。
燭台に明かりを灯さなければ薄暗いのだが、髪を梳かすのには支障はない。
まだぼんやりした頭で、鏡の中の自分に向かい合いながら、昨夜聞いた話を思い出す。
(アンナ様に事情を聞かないといけないよね)
ゲルトは気にするなと言っていたが、やはり神殿のこと、生命の水のことが気にかかる。
全て髪を梳き終わった頃、ノックの音に続き、コリンナの声がした。
返事をすると、コリンナがいつものようにきっちりと髪を束ね、皺ひとつないお仕着せ姿で入って来た。どこか浮かない顔をしている。
「おはようございます、リア様。お支度お手伝いいたしますね」
言いたいことがあるのだろうが、後回しにしたらしく、コリンナはてきぱきと衣服の準備を始めた。
全て準備が整うと、コリンナは困ったように眉を寄せ、躊躇いながら口を開く。
「食堂にアンナ様がいらっしゃるそうです。どうされますか?」
ここのところ、クラウスも食堂に出てくることが多く、リアも食事を共にするようになっていたので、基本的には食堂に行くことにしていた。
だが、昨日までと勝手が違うわけだ。おそらくリアに敵意を持つであろうアンナがいるのだから。
「そうね……アンナ様の気分を害するかもしれないから、私はここで頂きます」
リアがそう答えると、コリンナはほっとしたように胸を撫でおろしてから、微笑んだ。
「わかりました。では、準備いたします!」
頭を下げると、足取り軽く部屋を出て行った。
リアは小さく息を吐いて、窓の外に目を向ける。
この雨はいつまで続くのだろう。
悪天候が当たり前になってしまってから、リアは自室で過ごすことが増えた。
それまでは庭や屋敷内を探索することもあったが、今では専ら読書に勤しんでいる。
モルゲーン屋敷には、立派な図書室があり、天井まである書棚にはびっしり本が並んでいる。部屋自体はさほど広くはないのだが、収められている本の数は馬鹿にできない。
神殿にも図書室はあったのだが、聖典などの堅苦しいものが多く、好んで読みたいとは思わなかったが、この屋敷の本はあらゆるジャンルに渡っているので、読むものに困らない。
部屋で夕食を終えたリアは、共に食事をしたゲルトを隣室に送り出してから、寝支度を整え、読書を開始した。
決して十分とは言えない蝋燭の灯りだが、この世界では仕方ない。
前世では、夜などお構いなしに蛍光灯の灯りで真昼のような明るさが手に入ったものだが、この世界では望むべくもない。
書き物机に置いた三股の燭台の太い蝋燭の上で、橙色の炎がゆらりと踊る。
本の頁をめくるときや息を吐いたとき、そして身じろぎする度、炎は揺れ、壁に映し出される影も揺らめく。
顔を本に近づけると、銀の髪が一房開いたページに落ちてきた。
リアは掬い上げるようにその髪を耳に掛けるが、またも反対側から一房垂れてくる。
それを掻き揚げ、リアは本に目を落としたまま、寝衣の隠しから滑らかな手触りの黒い紐を取り出し、慣れた手つきで束ねた。
響子の時にしていたようなポニーテールだ。
リアであるときは髪を結ぶことなどほとんんどないのだが、作業をするときは別だ。
作業と言っても読書だが。
ようやく落ち着いて読めると再び本に目を投じたとき、聞き慣れないノックの音が響いた。
「はい」
声を張ると、一拍置いてくぐもった女性の声がした。
「ちょっとお話があるんです」
その声に聞き覚えがあり、リアはひたと扉に見入る。
束の間、逡巡したのち、リアはおもむろに立ち上がり、扉まで静かに近づくと、そっと扉を開け、客人を招き入れた。
そこにいたのは、真っ赤なドレスを着たアンナだった。
ワインレッドの髪を器用に編み込み、頭に巻き付け、耳の上あたりに真っ赤な大輪の花の飾りをつけている。胸元が大胆に開いたドレスの縁には黒いレースがあしらわれ、全体的に薔薇模様が透かしで入っている。耳には煌めく赤い石を揺らし、首には同じ石を嵌め込んだ首飾り。黒と赤を基調とした衣装は、クラウスを意識しての装いなのかもしれなかった。
片手にカンテラを下げ、もう片方の手には黒い布を掛けている。
おしろいをはたいた肌はきめ細かく、ワインレッドの瞳を縁取る睫毛はくるんと上を向いていて、唇には真っ赤な紅がさしてある。まるで舞踏会でも抜け出してきたような姿だ。
およそ聖女とは程遠い姿に、リアは眉を顰めた。
「お久しぶりですね、アンナ様」
リアは居住まいを正してから、聖女らしい仕草で頭を下げる。
「神殿のことで、リア様にお話があるんですの。ここでは誰が聞いているかわかりません。場所を移動したいのですわ」
早口でそう言うと、アンナは思いの外、強い力でリアの手首を掴み、返事を聞くともなく、慌ただしく部屋を飛び出した。
「あ、あの、待ってください!」
立ち止まり腕を振りほどこうとすると、アンナは勢いよく振り返り、目を見開いた。
「重要なお話なのですわ!」
有無を言わさぬその口調に、リアは押し黙った。
「わかりました。手を放していただけますか? 着いて行きますから」
わずかに躊躇したアンナだったが、すぐに手を解き、代わりに腕に掛けていた黒い布をリアに差し出してくる。受け取り、開いてみるとそれはローブだった。
怪訝に思ってアンナを見れば、カンテラを床に置き、もう一着あったローブをドレスの上から羽織っているところだった。
「外に出なければいけないのです。今は何も聞かず、着いてきてくださいな」
腰をかがめカンテラを拾うと、アンナは歩き出した。
手の中のローブに目を落としてから、リアもそれを広げ、寝衣の上から羽織る。
いくら夜とはいえ、寝衣で外出するのには抵抗があったが、前を見ればアンナの姿が小さくなっている。
リアは髪を結んだ黒い紐をすっと解き、それを傍にあった扉の取っ手に掛けた。
ゲルトの部屋だ。
「リア様」
囁き声を発しながらアンナが戻って来てくる。リアは急いでアンナの元へ行き、肩越しにちらりと黒い紐のかかった扉を目に映してから、再び前を向いた。
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