第37話 聖女の責任

 リアにアンナの来訪が告げられたのは、就寝前だった。


 コリンナが慌てたようにリアの部屋にやってきて、その詳細を教えてくれた。

 湯を浴び、身綺麗になったコリンナは、屋敷に訪れる女性客用の豪奢なドレスを身に纏い、現在クラウスと面会中とのこと。


 長椅子で、ゲルトからの贈り物である首飾りのラピスラズリを磨いていたリアは、急いで立ち上がった。


「アンナ様が……」


 ヴェルタの聖女であるアンナは、神殿から出ることは叶わないはずだ。

 聖女であるかぎりは、親族の死や国王の命であっても、神殿の外に出ることはできない。

 それが決まりだ。破ることなどありえない。

 だが、コリンナが嘘をついているはずもなく、アンナは確実に同じ屋根の下にいるのだろう。


 心配なのは、生命の水だ。聖女がいないとなれば、急激に濁ってきても対処できる人間がいない。

 今すぐにでも神殿に行かなければという焦燥感が湧き上がるが、はたと自分の立場を思い出す。


 リアはもうヴェルタの聖女ではない。そう思えば、自然と肩から力が抜ける。いつの間にか握り込んでいた拳も解いた。


「どういう用件で来たのか、聞いてる?」


 不思議なほど凪いだ気持ちで訊ねると、コリンナは首をふるふると振った。


「いいえ。でも、正妻になると仰っていたところを見ると、リア様の噂が届いたのではないかと」


「私の噂?」


「クラウス様がリア様に求婚なさっていることですわ」

 

 リアは頭痛がして頭を抱えた。

 確かに、クラウスの隣にいたアンナは、明らかに彼を好いているようだった。

 だが、聖女になった身だ。引退するまでは恋愛や結婚などの類の話は縁遠くなる。


(アンナには自覚が足りなさすぎる。聖女の結婚などありえないのに)

 

 アンナに言いたいことが山ほどあるが、顔を合わせたくもないという気もする。

 思い悩むリアに、コリンナが戸惑ったように視線を迷わせていると、扉と叩く音が響いた。


「ゲルトだわ」


 控えめなノックの音は聞き慣れたゲルトのものだ。

 驚くコリンナを尻目に、リアは扉へ寄り、来客を招き入れた。

 リアの言う通りゲルトの姿が見え、コリンナは目を瞬かせたあと、にんまり微笑んだ。


「では、一応、ご報告まで、ということで。リア様、ゲルト様、おやすみなさいませ」


 そして、グフフと怪しげな笑い声を漏らしながら、さっと扉から滑り出た。

 ぱたんと扉が閉じると、ゲルト長椅子までやってきて、リアにも座るよう促し、自分も腰を落とす。


 長椅子に放り出されていた首飾りを手に取ると、その傍らに置かれていた布を摘まみ上げ、慣れた手つきで磨き始める。


 一番近い壁についた燭台に火を灯しているが、ずいぶんと薄暗いので、お互いの顔もはっきりとは見えないが、ゲルトは微笑んでいるようだ。それを見て、リアはほっと胸を撫でおろす。あの大泣きした日以来、ゲルトは以前ほどではないが、元気を取り戻したようだった。このまま、元通りのゲルトになることを願ってやまない。


「アンナ・バーレが来たらしいな」


 世間話をするようにゲルトが切り出した。


「知っていたの」


「狭い屋敷の中だ。噂なんてすぐ届くよ」


「神殿が心配」


 ゲルトはリアに目を向け、眉を顰めた。


「心配する必要なんてない。リアはもう聖女じゃないんだから」


 ゲルトの言う通りだ。言う通りなのだが、自分でもそう思い込もうとするのだが、本当にそれでいいのかと問いかける声がする気がするのだ。口を開きかけたリアに、ゲルトは磨き終えた首飾りを差し出した。手を出そうとしたリアだったが、ゲルトは両手で首飾りを広げ、リアの首にかける。わずかにひんやりした紐が首筋にあたり、石の重みを感じた。


「リアの役目は終わった。今は普通の女の子だよ。それでいいんだ」


 胸元の青い石に触れながら、リアは目を伏せた。


「そう、なんだけど……でも、もし、問題が起きていて、天災の原因が生命の水なら、私にもどうにかできるかもしれない。私は、力を失ったわけじゃないから」


「今も聖女の力があるから、リアにも責任があるって?」


「だって、ついこの間までは私がヴェルタの聖女で——」


 言い掛けて、リアは口を噤んだ。

 唇に、ゲルトの指が触れていた。驚いて見返せば、深緑色の瞳が細められている。


「もういいんだよ、リア。リアを追放したのは神官たちだ。義務を果たそうとしていた俺たちを追い出したのは、あいつらなんだ」


 ひんやりするゲルトの指先は、今リアの手の中にある青い石の冷たさと似ていた。

 ふっと口元に笑みを浮かべるゲルトをまじまじと見たリアは、はっとした。


 小屋にいたゲルトを救出したとき、リアはゲルトの口づけを受けた。

 一度ではない、何度もだ。

 そのときのことを思い出し、かーっと顔に血が上る。

 唇に触れているゲルトの指先の感触に、リアを見つめる彼の瞳に、あのときの口づけが重なりそうになり、リアは視線を逸らし、空いた方の手でゲルトの指に触れ、唇から遠ざけた。


(私……もう聖女の力なんてないのかもしれない)


 高揚感にも似たふわふわした気持が一気に沈み込み、肩を落とす。

 聖女は清らかでなくてならないのだ。異性との口づけなどもってのほかだろう。


 自分を形作っていた重要な要素を、リアはあのとき失ってしまったのかもしれない。 水清めの力があるということは、リアにとってアイデンティティだったのだ。

 

 だからといって、無理矢理唇を奪ったゲルトを恨む気はない。

 あのとき、ゲルトは正気を失っていたのだし、正直な話、嫌ではなかった。

 驚いたし、戸惑ったことも事実だが、ゲルトの口づけは優しく、甘かった。

 恋人ではないけれど、ゲルトはリアの大切な人だ。


「今夜は眠るまで一緒にいるよ、前みたいに」

 

 ゲルトは悪戯めいた微笑みを浮かべると、屈み込んで、リアの膝の裏を背中に腕を差し込んだ。そして、一気に持ち上げるので、体がふわりと宙に浮く。


「ゲ、ゲルト⁉」

 

 上擦った声を上げるリアに、ゲルトは軽く笑いながら、寝台まで歩いて行く。

 そして、白いシーツの上に優しく下ろし、足から靴を脱がせた。

 靴を寝台脇に揃えて置くと、今度は椅子を持ってきて、寝台頭側に置き、腰を下ろす。

 背凭れにゆったり背を預けると、軽く腕を組んで、顔を赤くして、視線を泳がせるリアを見た。


「さあ、何も考えずに眠るんだ。そうしないと、俺が寝不足になる」

 

 さあ、寝てみろと言われて眠れるはずがないと思いながらも、リアは布団を顔の半分まで引き上げて、ちらりとゲルトを盗み見る。

 神殿ではいつもこうしてゲルトに見守られながら寝入っていたのだが、口づけだの何のと考えていたばかりで、落ち着いて眠れるわけがない。


(もう、眠れるわけないじゃない)

 

 余裕の表情を浮かべるゲルトを恨めしく思ったとき、はたとリアは考え直す。

 余裕ぶったこの顔こそ、ゲルトらしいと。

 そう思えば、この状況もそう悪くはない。リアは薄目を閉じて、ゲルトが傍に居る 懐かしい感覚に身を委ね、自分でも信じられないくらい早く眠りについていた。

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