第18話 真夜中の侵入者

 夜の空気が包み込む室内には、カーテンの隙間から月明かりがわずかに差し込んで来る。

 外からは草むらに住む虫たちの声が響き、良い子守唄になっていた。


 モルゲーン屋敷に来て当初は、何もかもが新鮮で、よそよそしくて、慣れそうもなかった生活も、毎日続けば日常と化す。神殿生活は退屈で穏やかな日々だと思っていたが、ここに来てからの生活は更に単調だった。神殿では聖女の仕事があったからメリハリがついていたのに、モルゲーン屋敷にはリアの成すべきことはないのだ。だから、一日中のんびり過している。裏庭の散策や、図書室に本を借りに行くこと、コリンナたちとおしゃべりすること。


 基本はゲルトも傍にいて、だからこそ神殿生活とそこまで齟齬がない。神殿からモルゲーン屋敷に移り、仕事がなくなった——それだけのことだ。あとはほとんど変わらない。


(ゲルトのパンは食べられなくなっちゃったけど……)


 さすがに厨房を貸してほしいとはまだ口に出せず、ゲルトお手製のパンにはありつけていない。リアの大好物なのだが。

 そんなとりとめもないことを考えながら、天蓋付きの寝台に横になり、うとうとし始めたときだった。


 足音を忍ばせることなく、誰かが廊下を歩く音がした。

 自然と耳を澄ませていると、足音は部屋の扉の前あたりで止まり、一拍してガチャリと扉を開ける音がする。眠気がさっと引き、全身に緊張が走る。


(誰? ゲルト……? コリンナ?)


 とっさにそう考えるが、屋敷に来てから今日に至るまで、ノックなしに誰かが入ってきたことなどない。しかも、既に就寝時間だ。


 扉が開き、何者かが部屋に滑り込んだのがわかった。リアは息を呑むが、体が動かなかった。息をひそめ、掛け布団を握り締めながら、必死に眠ったふりをする。心臓が急激に速くなっていく。


(どうしよう……⁉)


 人の気配が徐々に近づいて来る。足音は忍ばせることもなく、堂々と。足があるということは幽霊ではないのかもという考えがふいに過るが、もし人であった場合、それこそ問題ではないだろうか。


 ふいに足音が止まる。近くから視線を感じ、人の息遣いが聞こえる。


(何なの⁉)


 今すぐにでも目を開け、逃げるべきだろうか。

 でも、怖くて動けない。

 ぎしっと寝台が軋む音がした。

 どうやら侵入者は寝台に体重を掛けたらしい。だが、大人がゆうに三人は眠れるだろう広い寝台だ。まだ手が届くほどそばにはいない。

 

 リアは身を小さくして、小刻みに震えていた。

 危険を感じたら、すぐにでも部屋を出て、助けを呼ぼうと考える。

 ぎし、ぎしと寝台は揺れ、大柄な何かが自分に近づいて来るのがわかった。

 最高潮に心臓が鳴り、閉じた瞼を更にぎゅっと瞑る。

 ぎしりという音とともに、寝台が跳ねた。リアの体もわずかに傾ぐ。

 すぐ傍で小さな吐息が聞こえ、リアは震え上がった。

 おそらく、リアの隣に横になったのだ。


(誰なのよ⁉)


 目を開ければ、わかるだろうか。でも、怖くてできそうにない。

 かすかに香水が鼻につく。


(この匂い、どこかで)


 最近、この匂いをどこかで嗅いだ気がするが、とっさには思いつかない。

 ふいに、熱いものが右頬に触れた。

 リアはびくりとして、反射的に目を開けた。

 暗がりの中、リアの顔には隣から腕が伸ばされていた。


「何だ、起きていたのか」


 唸るような低音の男の声がした。

 そのとき、クラウスに近づくとほのかに漂っていた甘い香りと、今感じた香りが同じ物であったことに気が付いた。


「クラウス?」


 リアは隣の男から距離をとろうと足と手をついてずりずりと動こうとしたが、頬に触れていた手が逃すまいとリアの腰に回り、逆に引き寄せられる。


「ちょうどいい。話でもしようじゃないか」

 

 クラウスの腕にがっちりと抑え込まれ、耳元で睦言のように囁かれる。

 吐息が耳朶に掛かり、ぞわりと粟立った。

 目の端に映るのは、片腕を枕代わりに横たわるこの屋敷の主クラウス・フォン・アーレントだ。リアを脅すようにして屋敷に連れてきた傲慢な青年貴族。


「話?」


 怖気づいているのがばれないよう冷静を装うが、声が上擦ってしまう。それがおかしいのか、クラウスは鼻で嗤うと、腰に回した腕に更に力を込める。

 リアの肩はクラウスの胸板に当たっており、これ以上ないくらい密着している。


「そう、話だ」


 体を通して伝わる声に、リアはどきりとして身を縮める。


(すっかり油断してた)


 普段から剣技を磨くゲルトと比べれば、その腕は細いが、十分逞しいといえる大きな体は、リアの体をすっぽり収めてしまっている。彼の肩まで伸びるまばらな髪が肌に当たり、くすぐったい。意識したくなくとも、全身の神経が研ぎ澄まされ、耳はクラウスの息遣いを拾い、肌は接した体温を感じ、鼓動が煩いくらいだ。


 ——お前は俺の女となるんだ。


 クラウスは最初にそう宣言した。

 

 好色で有名なクラウスである。よくよく考えなくとも、屋敷に連れて来られれば、どういう目に遭うかなど想像できたはずだ。


 だが、屋敷に来て数日、クラウスとの接触は挨拶程度だったので、完全に油断していた。

 リアは自分の浅はかさに奥歯を噛みしめる。


 開いたカーテンから差し込むささやかな月光を見つめ、今なすすべきか頭を巡らせた。


(逃げる? 助けを呼ぶ?)


 大声を出せば、隣室を宛がわれたゲルトが気づいて駆けつけてくれるだろう。

 部屋の鍵がかかっていれば蹴破ってでもやってきて、剣先をクラウスに突き付けるに違いない。そして、迷わず切り裂く。

 

 そこまで考えて、リアは顔を曇らせた。

 

 クラウスに危害を加えれば、ゲルトの命はない。

 助けに来てほしい。今すぐにでもここから連れ出してほしい。

 けれど、村の安全と引き換えに屋敷に来た身だ。


(そもそも、ここに来ることを承諾した時点で、こういう事態を受け入れると言ったようなもの……でも、私はそんなつもりはなかった)


 クラウスの屋敷に来ることは承諾したリアだが、「クラウスの女」になることを認めるつもりはなかった。だが、それでは筋が通らないだろう。


「なぜ、黙り込む?」


 耳元に囁かれ、リアはびくりと体を揺らす。

 物思いに耽っている場合ではない。既にリアはクラウスの腕の中なのだ。

 何かしらの覚悟を決め、次の行動に移る準備をしなくてはならない。

 そのとき、ふいにクラウスの腕が離れた。

 咄嗟に逃げ出そうと足の指先で寝台を蹴ろうとしたが、すぐに腕が目の前に下ろされる。

 そして、下半身にずしりと重みを感じた。

 リアは息を止める。

 

 背後にいたクラウスは、既に体勢を変え、リアの覆いかぶさるように、両手を寝台に着いている。


「どこへ行くつもりだ? 逃げるつもりか?」

 

 心底愉しげなクラウスの言葉がリアに向かって落とされ、リアは背筋が凍った。

 獲物をなぶる猛獣のような声音に、身動きが取れなくなる。

 天に向かって顔を向ければ、わずかに差し込む光でギラリと輝く漆黒の瞳が見えた。


(まるで獣だわ)


 舌なめずりする唇は、憎らしいくらい形が良い。

 もし仮に、クラウスに好意を抱いていれば、この状況も悪くはないのかもしれない が、リアには砂粒ほどもそんな感情はない。

 

 恐怖と嫌悪が湧き上がり、リアは震える。

 いつだって気丈に振る舞いたいと思っているが、この状況下で強気でいられる少女などそういるものではない。


「お前は自らここに来た。拒否権などないぞ?」


 クラウスがリアの耳元に顔を寄せ、嘲笑うかのように囁く。

 そのざらりとした声音と、耳朶に当たる熱い吐息に、全身がぞわりと粟立った。


 幼い頃から聖女になると言われて生きてきた。聖女には、清らかであることが求められる。だから、恋など縁遠いものだったし、恋愛にまつわる物語や噂話には極力心を動かさないように生きてきた。とはいっても、前世の記憶がある。興味がないわけではなかった。前世である響子は、兄の友人である壮介に淡い恋心を抱いていた。幼稚園の頃に初恋らしきものは経験してはいるが、響子の中では、壮介に対するも気持ちこそが、本当の恋であり、初恋なのではと思っていた。

 

 リアとしては恋と距離を置かなくてはならないが、響子として経験したものはある。だから、恋を知らないとは思っていないし、人並みだとは思っている。

 だが、そうはいっても片想いしか知らない。

 同じ寝台に、異性がいるなどという体験など皆無だ。


 幼い頃、大人用の寝台でゲルトと共に昼寝をしたことはあるが、それは全く別物である。


(逃げたい……逃げたいけど)


 心から逃げ出したいと思うが、クラウスの言った通り、拒否することは不可能なのかもしれない。現状、この腕の檻から逃げられたとしても、部屋を飛び出す前に捕まる可能性が高い。それに、もし運よく部屋から出たとして、今夜逃げ通せたとして、ここを飛び出すことはできない。村の安全を盾に取られているのだから。

 

 リアはぎゅっと目を瞑った。そして、細く息を吐くと、意を決して体の向きを変え、まっすぐ射るようにクラウスを睨みつける。


「逃げる気なんてないわ」


 毅然と言い放つと、クラウスは眩しいものを見るように目を細めてから、口元を歪めるように笑みを作る。


「へぇ」


 クラウスはリアの顔の脇に置いた手を持ち上げると、今度は曲げた肘を寝台に着き、ぐっとリアに顔を自分の顔を寄せる。眼前に、端正だが、獣めいたクラウスの顔があり、リアはさっと目を逸らす。クラウスの肩からさらりとこぼれた襟足がリアの首筋をくすぐるが、じっとこらえる。


「気の強い女は嫌いじゃない。むしろ、好みだ」


 甘くそう言うと、クラウスはリアの首筋に顔を埋めた。

 クラウスの鼻先が肌に当たり、びくりと身を強張らせる。ひりりと熱いほどの体温を感じる。クラウスの肌はいつも燃えるように熱い。


(嫌……)


 好きでもない、否、嫌いな男が、自分に触れている。

 その事実が、リアの心に影を指す。

 だが、それどころではない。悲嘆と絶望と諦観と、あらゆる感情がぜになり、リアの心を嵐のように吹き荒れている。心臓は早鐘を打ち、全身ががくがくと震える。


(怖い……怖いよ、ゲルト)


 じわりと目の縁に涙がたまった。ゲルトの骨ばってまめだらけの無骨な手が、その心地良い温かさが恋しい。深緑の瞳に優しい色を湛え、さわやかな笑顔を向けてくれる、リアだけの聖騎士。ゲルトに触れられるのはむしろ好きなくらいなのに、クラウスに触られるのは吐き気がするほど嫌だ。


(ゲルト、助けて……)


 そのとき、ガタンと大きな音がした。

 一瞬、何の音かわからず、リアは目を見張る。

 一陣の風が吹き込み、刹那、体がわずかに跳ねるほどに、寝台が大きく軋んだ。

 そして、頬を裂くような風と、布を切り裂くような音がして、リアは息を呑んだ。


 クラウスの背後に、一つの影が立っていた。

 影は無言のまま、手にした剣を寝台に突き立てたのだ。

 月光を反射するそれは、クラウスの頭の近くに突き刺されていた。

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