第2話 道理庵主人の肖像 4-⑵


「へえ、ここが翻訳家と呼ばれる方々の仕事場ですか。物々しいですね」


「我が家には応接室がないもので、ここでもてなさざるを得ないのです」


 古めかしさと気品が混ざった書斎に通され、流介はまるで領事館か迎賓館を小さくしたような場所だなと感嘆の声を漏らした。


 西洋風の文机の右には天井まである書棚、左には何かの薬品が入った瓶が並ぶ戸棚と学者の部屋なのか文士の部屋なのか混乱する風景だ。


 鳴事の世になって二十余年、洋館も洋間もさして珍しい物ではないが、この謎めいた翻訳家の書斎は日ごろ奇譚を追っている流介の目にもいささか異様に映った。


 とりわけ目を引いたのは、机の後ろの飾られている壮年男性の肖像画だった。主によく似た顔立ちであることから察するに、父君か祖父殿であろうか。


「失礼ですが、この絵の方は?」


「ああ、これは私ですよ」


「えっ、ご自分の未来を描いてもらったのですか。それはまた何と物好きな」


「いえ、本来なら私はそろそろこのような風貌になる時期なのです。こう見えても古い人間なのですよ」


 主がそう言って示した場所を見た流介は、思わず「あっ」と叫んでいた。肖像画の脇に二回りほど小さな写真があり、映っていたのは肖像画と主だった。主は目の前にいる姿と同じだったが、肖像画の人物は壮年ではなく主を若くしたような男性だった。


「これは二十年前に撮ったものです。肖像画の中の私もまだ若いでしょう」


 これはからくりだ、と流介は思った。


 わざと年齢を変えて書いた二枚の絵を用意し、一方の絵と写っている写真だけを何らかの方法で退色させればそちらの方だけ古ぼけて見えるはずだ。


 絵の中の自分だけが年を取るなど、そんなばかげた話があるものか。


「私は若い頃から、年を取ることに極度の怯えを感じてました。それで永遠に若い姿でいるために悪魔の秘術を会得した画家に「私の代わりに年を取る」絵を描いてもらったのです」


「なるほど、苦しみから逃れるためやむにやまれずこの絵を用意したというわけですね」


 流介は感心したふりをしつつ、内心で「手の込んだほら話だ」と大いに呆れていた。この鳴事の世におどろおどろしい怪奇譚はそぐわない。必ずなにがしかの種があるはずなのだ。


「ではそろそろ本題に入りましょう。……植松氏とは、どこで知り合われたのです?」


「植松さんと知り合ったのは、とある古書店の棚の前でした。植松さんはある外国人作家の本を探していて、どうにも見つからず難儀していたのです。そこで僕が自分の持っている原書に簡単な訳を添えてお貸したというわけです」


「なるほど、それは粋な出会いですね」


「それ以来、植松さんとはこの『道理庵』で文学について語らう間柄になり、植松さんは未翻訳の外国文学を僕の訳で読みたいとしばしばねだってくるようになりました」


「書室というのは?」


「うちの建物に空いている部屋があったので、本棚を運びこんで好きな時に出入りして下さいと申し出たのです。それから週に一、二度「書室」にやってきては二時間ほど読書をして過ごされるようになりました」


「植松氏の交遊関係はどうですか。あなたの他に誰か、親しくされていた方はいたようですか?」


「ははあ、先日おいでになった記者さんもお聞きになっていた『幻の女郎』とやらのことですね?僕にはわからないし見たこともありません」


「なるほど……ところで、あの肖像画はこれからどうなるとお思いですか?」


 話題が絵の話になった途端、主の表情がふっと厳しい物になり流介はおやと思った。


「そうですね……もし肖像画の中の僕が死んで骨になったら、現実の僕はもうどこにもいない人間ということになりますね。……寂しいことですが」


 主は絵に身代わりになって欲しいと言いながら、絵が自分の代わりに現実の時間を生きることにもどかしさのような物を感じているらしい。随分と勝手な話だ。


「どうも長々とお話を伺ってしまってすみません。では私はこれにてお暇させていただきます」


「いいえどういたしまして。もうお一方の記者さんにもよろしくお伝えください」


 主はそう言うと、美しい顔にうっすらと笑みを浮かべた。



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