閑話 「ウィークポイント」


 年越し前、秋頃。



 ――――Side……雨宮 秋乃あめみや あきの


 ライブハウス『Remain』の事務所。

 私はデスクに向かい黙々とキーボードを叩いていた。

 ディスプレイに映し出されているのは先日撮影したライブイベントの映像データだ。

 動画編集ソフトのタイムラインには無数のクリップが並んでいる。


「……ここのカット割り、0.5秒詰める」


 独り言を呟きながらマウスを操作する。

 カチッ、カチッ。

 無機質なクリック音だけが静かな室内に響く。


 私は元々、パソコンの操作などおぼつかない素人だった。

 けれど先生――天音 在処に出会い、動画編集という技術を教わってから世界が変わった。

 映像を繋ぎ合わせ、音を調整し、一つの作品として完成させる。

 その工程にはパズルを解くような知的な快感がある。


「秋乃さん、マジで仕事早いっすね」


 背後から感心したような声が掛かる。

 雑務全般担当の芦田 結城あしだ ゆうきだ。

 彼女はドラムスティックのケースを片手に私の画面を覗き込んでいる。


「……慣れただけ」

「いやいや、そのショートカットキーの使いこなし方は達人の域っすよ。在処ちゃん直伝っすか?」

「うん。先生の教え方は合理的だから」


 私は作業の手を止めずに答える。

 先生は小学生でありながら、その知識量と技術はプロ顔負けだ。

 何より教え方が上手い。

 感覚的な部分を論理的な言葉に置き換えて説明してくれるため、私のような初心者でも理解しやすいのだ。

 そんな先生の期待に応えるためにも、私は完璧な仕事をしなければならない。

 『Remain』の広報動画、出演バンドのプロモーションビデオ。

 任された仕事は全て最高品質で仕上げる。

 それが先生への恩返しであり、私のプライドでもある。


「秋乃、ちょっといいかしら」


 今度はPA音響担当の水無瀬 佳代みなせ かよさんが声を掛けてきた。

 腕にはバインダーを抱えている。


「はい」

「倉庫の在庫確認をお願いしたいのだけど、今忙しい?」

「問題ない。ここのレンダリング待ちの間に終わらせる」


 私は椅子から立ち上がり、衣服の皺を伸ばす。

 倉庫整理は地味だが重要な仕事だ。

 機材の紛失や故障はライブの進行に関わる。

 クールで万能な事務員として、こういった裏方の仕事も疎かにはできない。


「ありがとう、助かるわ。探してほしいのは予備のマイクケーブルと、あと古い照明のフィルタね」

「了解。すぐに見つけてくる」


 私は短く答え、事務所を出た。

 背後で結城が「かっけー、仕事人の背中っすね」と茶化すのが聞こえたが、悪い気はしない。

 先生に見せても恥ずかしくない、デキる大人の女性。

 今の私はそういう存在に近づけているだろうか。


 ライブハウスの裏手にある倉庫。

 鉄製の重い扉を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

 中は薄暗く、独特の埃っぽい匂いが充満している。

 壁際にはアンプやスピーカーのキャビネットが積み上げられ、棚には無数のケーブル類が雑多に置かれている。


「……照明のフィルタは、奥の棚」


 私は記憶を頼りに倉庫の奥へと進む。

 足元には機材ケースが乱雑に置かれており、足の踏み場も少ない。

 注意深く進みながら目的の棚の前に立つ。


「あった」


 一番下の段。

 段ボール箱の中に色褪せたフィルタの束が入っているのを見つけた。

 私はしゃがみ込み、箱を引き出そうと手を伸ばす。


 その時だった。

 箱の陰から黒い影が飛び出してきたのは。


「――ッ!?」


 それは八本の脚を持つ、小さな生き物。

 素早い動きで私の足元を駆け抜け、壁へと這い上がっていく。

 その動きを目で追ってしまったのが運の尽きだった。

 私の視界いっぱいにそのグロテスクなフォルムが焼き付く。


 思考が停止する。

 冷静さ、プライド、大人の余裕。

 全てが瞬時に吹き飛んだ。


「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」


 喉の奥から自分でも聞いたことのないような甲高い悲鳴が迸った。







 ――――Side……水無瀬 佳代みなせ かよ


 ホールで機材のメンテナンスをしていると、事務所の方から結城が戻ってきた。


「佳代さん、お茶淹れたっすよー」

「あら、ありがとう。気が利くわね」

「へへっ、秋乃さんが倉庫行ってる間に休憩っす」


 結城から湯気の立つマグカップを受け取る。

 中身は甘いココアだ。疲れた身体に糖分が染み渡る。


「それにしても秋乃さん、最近ますます頼もしくなったっすね」

「そうね。動画編集の腕も上がってるし、事務処理も完璧。店長も『私がやることなくなっちゃう~』なんて嘆いてたわよ」

「あはは、店長はサボりたいだけじゃないっすか?」


 談笑しながらココアを啜る。

 平和な午後だ。

 今日のライブは夜からなので、まだ時間はたっぷりとある。

 秋乃が戻ってきたら、三人でお茶菓子でもつまみながら次の動画の企画会議でもしようか。

 そんなことを考えていた矢先だった。


「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」


 空気を切り裂くような悲鳴が聞こえた。

 マグカップを持つ手が止まる。

 今のは誰だ?

 店長? いや、店長は今日は出かけているはずだ。

 となると、店にいる女性は私と結城、そして――。


「あ、秋乃さん!?」

「倉庫っす! 今の声、倉庫から聞こえたっす!」


 結城が血相を変えて叫ぶ。

 私は慌ててマグカップをテーブルに置き、走り出した。

 ただ事ではない。

 普段、感情を表に出さない秋乃があんな声を上げるなんて。

 怪我をしたのか? 重い機材の下敷きになったのか? それとも不審者でも現れたのか?


「秋乃! 大丈夫!?」

「秋乃さーん!」


 私たちは全速力で廊下を駆け抜け、裏口のドアを蹴破る勢いで開けた。

 そのまま倉庫へと雪崩れ込む。


「秋乃ッ!」


 薄暗い倉庫の中。

 私は最悪の事態を想定して身構えた。

 しかし、そこに広がっていた光景は、予想の斜め上を行くものだった。


 倉庫の最奥。

 棚と機材ケースの隙間。

 そこにあのクールビューティーの代名詞とも言える雨宮秋乃が、小さく縮こまっていた。

 長い黒髪は乱れ、美しい顔は涙で濡れている。

 両手で耳を塞ぎ、ガタガタと小刻みに震えている姿は、まるで迷子になった幼子のようだ。


「――秋乃ッ……ん?」


 私は呆気にとられて名前を呼ぶ。

 怪我をしている様子はない。

 不審者の影もない。

 ただ、彼女の視線がある一点に釘付けになっているだけだ。


「い、いやぁ……こないでぇ……」

「秋乃さん? 何があったんすか?」


 結城が恐る恐る近づく。

 秋乃は結城の姿を認めると縋り付くような目で叫んだ。


「ゆ、結城……そこ! そこの壁!」

「壁?」


 結城が視線を向ける。

 私もつられてそちらを見る。

 古びたコンクリートの壁。

 そこに、小さな黒い点が一つ。


「……これっすか?」


 結城が指差したのは一円玉ほどの大きさもない、小さなハエトリグモだった。

 ぴょこぴょこと愛らしく動いている。


「く、くもぉぉぉ……!!」


 秋乃が再び悲鳴を上げ、さらに小さく縮こまった。

 その瞬間、私と結城の間に流れていた緊迫した空気が音を立てて崩れ去った。






 ――――Side……芦田 結城あしだ ゆうき


「……なんだ、びっくりしたっすよおー」


 脱力しそうになる膝をなんとか支えた。

 事件か事故かと思って心臓がバクバクしていたのに犯人はちっこいクモ一匹。

 いやまあ、苦手な人は苦手だとは聞くけれど。


「秋乃さん、これハエトリグモっすよ? 毒もないし、害虫食べてくれる益虫っす。それに意外と可愛くないすか」

「む、無理……足が多い……動きが速い……目が合う……!」


 秋乃さんは涙目で首をブンブン振っている。

 普段の「了解」「問題ない」と淡々と仕事をこなす姿からは想像もつかない。

 完全にキャラ崩壊している。

 というか、目が合うってどの目のことっすか。複眼なんすけど。


「佳代さん、どうしましょう」

「どうするも何も、このままじゃ秋乃が仕事に戻れないわね」


 佳代さんは苦笑いしながら、震える秋乃さんの背中を優しくさすっている。

 完全に怯えきった小動物を見る目だ。

 ここは一つ、私が漢気(女だけど)を見せるしかないだろう。


「よし、あたしが捕獲するっす!」

「き、気をつけて……! そいつ、飛ぶかも……!」

「飛ばないっすよ、跳んだりはしそうっすけど」


 私は近くにあった空の段ボール箱の切れ端を手に取り、クモに近づく。

 クモは私が近づいても逃げる様子もなく、壁をちょろちょろとしている。


「ほっ」


 素早く手を伸ばし、優しく包み込むように捕獲。

 掌の中でモゾモゾする感触があるが気にしない。ドラマーの手の皮は厚いのだ。


「確保完了っす!」

「ひぃぃっ! こっち向けないでぇ!」


 秋乃さんが佳代さんの背中に隠れる。

 佳代さん越しに私を見るその目は、まるで殺人鬼を見るような怯えようだ。


「大丈夫よ秋乃。結城が捕まえてくれたから」

「そ、外に……遠くに捨ててきて……半径一キロより外に……」

「一キロは無理っすけど、裏口から逃がしてくるっす」


 倉庫を出て、裏口のドアを開ける。

 草むらに向かって手を広げるとクモは元気よく飛び跳ねて去っていった。


「バイバイ、達者でなー」


 手を払い、倉庫に戻る。

 すると、そこにはまだ佳代さんにしがみついている秋乃さんの姿があった。


「もういないっすよ」

「ほ、本当に……?」

「本当よ。私が確認したから」


 佳代さんの言葉にようやく秋乃さんは強張っていた身体を緩めた。

 へなへなとその場に座り込む。

 整っていたメイクは涙で少し崩れ、前髪も乱れている。

 普段の完璧すぎる秋乃さんより、今の人間味あふれる姿の方が親近感が湧く。


「……みっともない所を見せた」


 秋乃さんが消え入りそうな声で呟く。

 顔を伏せ、耳まで赤くしている。

 羞恥心が戻ってきたらしい。


「何言ってるのよ。誰にだって苦手なものはあるわ」

「そうっすよ! あたしだってオバケ屋敷は絶対無理っすし!」

「……先生は」


 秋乃さんがボソリと言う。


「え?」

「先生には……絶対に見せないで。言わないで」


 先生、つまり在処ちゃんのことだ。

 秋乃さんは縋るような目で私たちを見上げた。


「先生の前では、カッコいい大人でいたい。頼れる大人でいたい。……クモ一匹で泣き叫ぶような情けない姿、知られたくない」


 在処ちゃんは小学生だけど、中身はかなり大人びている。

 たぶん秋乃さんがクモ苦手だって知っても「へえ、意外ですね」くらいで流すと思うんだけどなあ。

 でも秋乃さんにとっては死活問題らしい。

 在処ちゃんへのリスペクトが強すぎて、理想の自分を演じようと必死なのだ。


 (なんというか、すごく可愛い人だなー)


 私は佳代さんと顔を見合わせる。

 佳代さんも同じことを思ったのか、口元に優しい笑みを浮かべていた。


「分かったわ。これは私たち三人だけの秘密にしましょう」

「そうっすね。トップシークレットっす」

「……ありがとう」


 秋乃さんは心底安堵したようにほうっと息を吐いた。

 そして、まだ少し震えの残る手で佳代さんの服の裾を掴んだ。


「佳代……もう少しだけ、くっついてていい?」

「あらあら、甘えん坊さんねえ」


 佳代さんは慈愛に満ちた表情で秋乃さんの頭を撫でる。

 普段はテキパキと仕事をこなす秋乃さんが今は完全に妹キャラになっている。


「さて、落ち着いたら事務所に戻りましょうか。温かいココア、淹れ直すわね」

「……うん」


 佳代さんに支えられながら立ち上がる秋乃さん。

 その足取りはまだ覚束ない。


「あ、そうだ。在庫確認の途中だったっすね。あたしがやっとくっすよ」

「……すまない、結城」

「いいってことっす! 貸しにしとくっすよー!」


 私はニカっと笑ってサムズアップする。

 秋乃さんは申し訳なさそうに、でも少しだけ嬉しそうに微笑み返してくれた。


 完璧超人に見えた秋乃さんの意外な弱点。

 それを知って私たちは前よりも少しだけ距離が縮まったような気がした。

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