反義逆理は戦の道

阿久根えりす

1. 弱者男性 =『卑劣な弱者』は妄想する。

 現代に於いて、日常はむことなき戦の相を呈している。敵たちに少しでも『弱み』を見せるか、あるいは彼らの「義理」を破ったとしたならば、彼らはそれに付け込んで、いくらでもぐさりぐさりと刺していき、刺されて動けなくなった所をまたぼこぼこに殴り潰す。

 一度それが終わっても、浅ましい彼らは満足する事無く、次に義理を干犯おかす『』を見つければまた同じ事を繰り返して行く……


「義理」とかいう言葉をここで使ったが、彼らの「義理」と言っても、理想的なそれとは違い、全く正当正義のものでは無い。


 その義理は、彼らの頭の中に漠然とした雲や霧の様に存在していて、「彼ら」構成員のひとりひとりのその場その場の「正しい」感情で、いくらでも変容する。彼らの義理は、そうした非常に恣意的な物としてある。ナイーブで微妙な私感情、「主観の情・感覚」を無批判無条件に〈〉「正しい」「絶対」の事実として置き、これを前提/根拠にして思考を展開する。そうして思考と認知が「感情」に強く影響される、そんな『価値観』文化。

 彼らは、どんな些細な事であっても「不快に思った」ただそれだけの事があったならば、ひどく重大な法でも破ったが如く、怒り狂いながらその「不快な」者を『』と認定し、その「不快であるという」に調してやって来た数え切れない程の仲間たちと寄ってたかって、そいつを甚だしく蔑み、またはげしく糺弾きゅうだんし、爪をぎ髪を毟り取る勢いで攻撃する。相手が事切れて、もうピクリとも動かなくなったとしても、そいつは世界に存在してはならない汚物として、この世からそいつが生きていた証拠を残り滓ひとつも残さない様に〈滅却キャンセル〉する。その反応には最早もはや人間的理性や憐憫れんびんの感情は一切存せず、ひたすら攻撃的感情と対象への無理解、見下しのみがそこに在る。


 彼らは何故そうした酷い事を平気で出来るのかというと、ある人を義理に違反した『卑劣な弱者』と認定した途端、「そいつを絶対に叩きのめせばならぬ」という強烈な感情が彼らに立ち現れ、その感情が、人の人る所以である理性や事実認識の機能を超越した絶対的事実として、彼ら自身の思考・認知に強烈に働き掛けるから、あらゆる法律も、倫理も、全て吹っ飛ばして何処かに行かせてしまうからである。

 わかりやすく言うと、早い話彼らは『卑劣な弱者』を目にしてしまうと、都合の良い認知と思考しか出来無くなり、彼らの中の「こうあるべき」「こうさせねばならない」「叩き潰されねばならない」が絶対優先となり、「しかし厳然としてこうある」事実を認知する事が出来無くなるのである。こうなると、彼らの思考は『卑劣な弱者』を否定する彼らにとって耳触りの良い言葉ばかりが「真実」であると思い込み、反対に肯定する言葉は何かの世迷い言の様に思い込む。そうしてさらに認識が強化されるスパイラルに陥るのであるが、こうなれば理性のストッパーが完全に外れてしまうから、「死んでも良い」「死んだ方が良い」「救わなくて良いし救わない方が良い」とする『卑劣な弱者』への攻撃に彼らの中の誰も躊躇する事が無い。かくして『卑劣な弱者』は沢山の「彼ら」からタコ殴りにされ、苦境に陥っても放置され、無視され、或いは笑い者にされ……世界に絶望し、この世からせんぐりせんぐり旅立ってしまうのである……


 さらに、世の中では本来擁護すべき存在であるとされる「弱者」を彼らが攻撃する根本の理由も、同じ様に感情に基づいた認知にその原因がある。マトモな常識や優しい心を持った人間ならば、文字通り弱い立場に置かれている「弱者」は、寄り添い助けるべき存在であって、まさかまさか攻撃を加えたり罵声を浴びせたりする様な対象とはつゆも思わないのであるが、「彼ら」は違う。何故かというと、「彼ら」の感情の強い影響下に置かれている認知には、「劣っている対象は絶対に劣っている」し「劣った対象は常に痛めつけられねばならない」という常識からまったく乖離して「彼ら」自身の『価値観』と強力に結び付きて有る『絶対至上命題』があるからである。

 彼らの中にはどんな絶対的事実よりも先立つものとして「弱い」=「劣っている」存在は、すなわち「性格が卑劣」で、「異常な性癖」を持ち「性的に醜く」、「有害な加害者」であって然もまったくの「無能」でありかつ永遠に「道徳的に敗者」だから、そうした人間はいかなる状況に於いても「見下されるべき」で「叩かれるべき」で「この世から排除されるべき」であって、かつ「優位の者 = 自分たちを初めとする世界のあらゆる人間へ自らの罪を認めて常に謝罪し、その後は必ず奴隷の様にかしづかねばならない」という、「お前らは下だ」とする禽獣きんじゅうの順位制に何処か似たそれより益々ますます下劣な、「序列的」感情の規範、価値観感情が、揺るぎない思考/認知の真理としてある。

 猿や鶏の順位制に類似しつつそれよりも愈々いよいよ酷い、禽獣きんじゅう的階級制度の思考。「彼ら」は、個人的或いは集団的な価値観感情若しくは「その場に沸き立った感情」に基づいて自づから決められる「下位者の標識」を持つ者を『卑劣な弱者』と認定して貶める。この価値観感情は彼らの認知世界にとってを左右する絶対的重みを持つ。彼らにとって〈価値/感情〉は絶対。

 それ故に彼らは『卑劣な弱者』と自分達が認めた存在がのうのうと生きていて、『人並みに尊重』されている事を一切許容出来無い。彼らの視点から見れば、『そんな状況はこの世に絶対あってはならない』のである。だから、その「こうある」事実と「こうあるべき」感情規範とのミスマッチを埋める為に、そうした『卑劣な弱者』と認められる存在を見つけた瞬間、あらゆるぞうごんを用いて攻撃するのである。そう思えば理解が出来るであろう。


 抑々そもそもある人が「弱かった」からといって必ず性格が悪いとも限らないし、ましてや加害者なんかである筈が無いぐらい少し頭で考えれば判る事であるし、人間は悉皆しっかい平等びょうどうであるのだから「見下せ」「痛めつけろ」なんてそんな規範を有する事自体がおかしいともいえる。こうした感情規範を「なんてことだ!」「この世のものとは思えない!」と思うのも結構であるが、往々にして彼らに留まらず人間全体の非理性的な側面は、大概この様なものである。人間は皆な誰もが共通して浅ましい部分を持っている。彼らはそれが甚だしい程度にまで肥大化しているだけなのである。本来こういう事は、倫理観や道徳教育で否定されるべき事であるのだけれども。「何故、どの様にして否定されるべきか」を、臆見一個で良いから言わなきゃならない気がしたので、取り敢えず考えた結果、そういう失敗の酷い例として——より高くより深くより広くより長い「人格主義的、二層式功利主義的に修練された、弥栄える『批判的思考』もって慈愛を振り撒くべきである。そこには悪口を言われたからってイライラ感情的になってしまい、相手にそれと同じか、それよりも悪口を言い返す事なんか無く」、「むしろ抱いて浄化する様なチカラがある」——とかいう訳の分からない妄想ぢみた事を言ってみる。‥‥結局、理解が進む事は無い。

 ‥‥ともあれ「カレラ」という、ひとりの尊い『生命』を持つ者の感じ方、視点で〈もの〉を認識して、〈もの〉を思うのも、いつの世だって大切な事ではある。勿論、その逆もある。

 だが、それには落とし穴もあるという事は、カレラニズム的発想を持って居るから、自づから察せられる事なのに、さとれない。当たり前だ。感情感覚と価値観を外に置く事が出来ず、ムシロそれらを中心として、認知/思考をやって居るからである。コレでは何になろう。世は地獄に落ち込む事になる。カレラので。

 言いにくい事に彼らにはさらに悪い事があって、彼らは多数派マジョリティなのにも関わらず騒ぐ少数派ノイジーマイノリティとしてもまかり通りて在る厄介な存在であるから、その見方を絶対に受け入れてはならないのにも関わらず、世人は彼らからきゅうだんされる事に恐れて、あるいはただ単に正義ヅラしたいが為に、しばしば浅ましくも「彼ら」の事を絶賛し、その上で彼らのにんって『感情規範』に反する存在たちの権利を勝手に切り売りし、そうして平気で彼らに与える。社会全体の公平性/平等性が壊される……そういった事もあり、「彼ら」は人々に一種の強制力を有している所為で、なまじっかその『感情規範』は世の中に受け入れさせられている部分がある。なんという世の中だろう。


 また『卑劣な弱者』を見た瞬間見下すのを我慢をするのが出来無い点で、ある種性欲にも似たその「感情規範衝動」ではあるが、そうであるのにも関わらず「彼ら」はそれを抑えるべき物だとも認識してもいないし、その訓練もしていない。むしろそれは抑えるべきものでは無いとして、しきりにこの行為を「善」として他人を「教化」し、そうして露骨に会う人会う人に嫌悪感を表現して見下し、暴力を振るい馬鹿にする事を正義であると心から確信している者も(大勢)居る。まさに自分自身の事を悪とも意識しない純粋悪。彼らは全ての人間を人として尊重する事が出来無い。これこそが人を苦しめる諸悪の根源では無いか……?まづ「彼ら」は、差し置いて他人を痛め付ける前にその『感情規範の文化』をきちんと認識して欲しい……

 この様に浅ましいこの世の物とは思えない惨い事実を見れば判るが、これでは、彼らにある「義理」は人間世界にあるべき道理では無く、更には獣世界に有る幼稚な秩序にすらも劣っているのである。



⚫︎

 さて、おさらいとして、今迄の事をまとめつつには改めて、更にやや違う角度から見た物も入れて理解を深める様に説明したならば、彼らは、〈「これ」がの全てである〉という「規範」「絶対至上命題」を宿す『価値観』——過去の世紀からの文化を理屈、現実や後先考えず安易に彼らの『中心感性(中心感覚)』にう様に兎に角「感じの良さ、都合の良さ」だけを抽出・改変して受容し引き継いだ物であり、それ故に人間全体の長期的視点から見て非常に危険な程に都合の悪い物——を持っている。


 ここで、「彼ら」のその虐をままにして顧みぬ悪さに気付いた幾つかの人々——居るとすれば、多くは「彼ら」や「彼ら」の感情により全待遇を左右させる『感情規範』により‥‥実際に構造的に明らかな悪虐に苛まれて居る/居たにも関わらず——その行為を悪い事だと思わない、しかもそれを辞めさせようともせずムシロその行為を賞賛するとかいう‥‥最早認識する事すらも出来ぬ「従わずには居られない魔力の有る『感情規範』に阿呆な迄に毒されて‥‥そうして腑抜けになりたる絶対多数の現実の世の人々や気風」に対して、ひどくがくぜんとした、思う所のある者達だろう——が「彼ら」に対して「畢竟ひっきょう『価値観』を改めさせないとイカン!」と立ち上がった場合、どうなるか。

 この様な事が起きた時、その者らの言い分が彼ら個々の『中心感性』に背く限り、つまりし、『価値観』——『感情規範』含む——を基層として共有する仲間内で一緒になって、改めさせようとする者達の事を「そんな事を言う奴は永遠に『卑劣な弱者』のままだ、気持ち悪い」等と『感情規範』に基づき一方的にレッテルを貼って腐し、「オマエらはコレで良いのかぁ?」「ホントは我らを望むのだろう?」という『中心感性』に基づく「妄想」の果てに謎の立場で『感情規範』を押し付けて来る。結局その他人を『卑劣な弱者』と認定する。そして相手に耐え難い暴力と苦痛と災害を与える。


 そのくせその『中心感性』『感情規範』に愚かにも生真面目に合わせつつキチンと胡麻ごまって一定の人間関係を築こうとすれば「気持ちが悪い者達に自分が求められているぞ、嫌だ、本当に気持ちが悪い、不快だ」等とこれ又『中心感性』に基づく「妄想」の果ての謎の立場で又々他人の事を『卑劣な弱者』扱いして言う。また相手に暴力と苦痛と災害を与える。

 この様な不可解な事は何なのであるのか、というと彼らは「自分は所謂いわゆる本能性欲"直結思考"の人間だ!」という事を自分達で言っているのである。プリミティヴな性質の『中心感性』が脳の思考/認知に直結するからその通りに行動せざるには得られない人間だと自ら懲りもせずに示しているのである。勿論その事は種々の不当かつ暴虐な行為の因である、という事は以前の長くてまどろっこしい文章で示した。「彼ら」のその様子といったら、世に広く謂われる"直結脳"と殆ど鏡写しにある生き別れの双生児が如きと言って全く差し支え無い。一般的な「性欲の意味」に隠されて見えなくなって居るが、実は「彼ら」は尋常ならざる性欲"直結思考"なのである、という事は「彼ら」に就ての重要な性質なので良く良く理解せねばならない。そして「彼ら」のそんな在り方の結果として、『彼ら』によって世の中に押し付けられた『感情規範』によって不当に軽く扱われて蔑まれ、見下され、或いは不可視化すらされている、『卑劣な弱者』の苛酷な苦境の現実が確かにある。


「彼ら」はそんな、「彼ら」の殆ど改めたり他の論理に合わせたりする気の無い固定的で融通性皆無な、「自分の正しい感性」や「正しい常識」によって正当性が与えられる主観的モノサシ『価値観』や、それと相互作用を起こすも然し「現実に起こった事実や『価値観』すら含む全ての物事」の中で優先されるべき、彼らの個々の世界認知の中で絶対に正しい『中心感性』のふたつを主に重要な物として全ての思考の絶対的骨組みとした上で、彼らは絶対的に正しいとして疑わぬ、その(『感情規範』を内に含む)『価値観』と『中心感性』、を当然の様に優先されるべきものとして何が有っても少しも曲げずに周囲の人間全てに押し付ける悪虐な存在だ、という事である。しかもその悪虐さは多くの場合世の人々の押し付ける義理『感情規範』によって露骨に「彼ら」に対する「『彼らは倫理的肯定存在だ』効果」「『彼ら』を非難/批判するのは殆ど不当な論いだ」という印象にって覆い隠されて居るのであるから大っぴらに非難する事が難しい。これで、「彼ら」の心性とその押し付け的現れであるじんの『感情規範』は、簡単に言葉で言い尽くす事の出来無い悪辣さを帯びているのである。


 結果として彼らは、その場その場の『中心感性』に合わせて、つまり只々沸き起こる感情にどんな現実も関係無く即させる様な形にて認知/思考/判断をするから、これにより彼らは遠慮的では無く短慮的な利益的性質ばかりをごのんで求める様になる為、(多くは『中心感性』に適合しない様な、感覚的に)損をして得を取るという事を含む、より広くより深くより高いより長期的視点での利益の視点に殆ど立てない上、『価値観』や『感情規範』を共有しない、つまり『中心感性(感覚)』にそぐわない「『他』の厚生」の為に自分の価値観を妥当な形に曲げて配慮したり勘定かんじょうに入れたりする事も殆ど出来ず、只々「不情理感」を露わにして。こうして「彼ら」は自身の「モノサシ」に沿わない利益や人間のやる事、物事はどんなに重大で有っても省みる事は出来無い所か「感覚的事実」に基づいて積極的に反発する。『卑劣な弱者』を認知する感覚、この無理解的嫌悪がもたらす害の甚だしさと言ったらまこと表現しにくい。「彼ら」によって形成される言うに言われん人々の苦しみがある。いまや性向として殆ど我を実地妥当に控えられず、自分の感覚しかず、それにより他者に害を与えて省みぬ者達。そして世の中に「自分達は倫理的に肯定的な存在である」と臆もせず印象を押し付ける事により、例えそれが正当な論であったとしても、暴力性を伴う「義理」『(感情)規範』を以てその対抗者の口を塞ぐ事を「彼ら」は意識的無意識的にせよ行っている。しかもどんな場合であっても、誰も一切その『規範』を改めようとしない。それが「彼ら」なのである。


『卑劣な弱者』——「弱い」=「劣っていて根本的に醜い」「(「彼ら」から見た時の)人の優劣さは社会に於いてを左右する」とプリミティヴで未熟でサルっぽく幼稚で順位制的な『中心感覚』に思考を頼るが故に「彼ら」は感覚的矛盾無くこの概念を無邪気に確信する。その認知から『卑劣な弱者』を虐し、またその人らが苦境に陥っても放置し、然も自己責任であると見下す様な「彼ら」は、この様な事を為して尚自身達の事を邪悪で酷薄、人道にもとる行為を行って居るとはチットも思わず、ただただ「彼ら」の『中心感性』に従う為正当の感や不快の感ばかりを得る。これ以外の、例えば居た堪れ無さや罪悪感といった人間として持って当たり前の性質等は何も覚えずに見下し蔑み又た暴力を振るうので有る。

 全ての人間が真に人並みに扱われる事に「彼ら」は「感覚的に」えられずに反発し、そしてその反発心と不快心は「悪いと思う」『卑劣な弱者』の様な自分より善悪美醜感性からして「順位」の明らかに下位だと感じる人間達へ向き、「悉皆平等」という現代に於いて敷くべきとされる理性の建前的現実と、それから掛け離れた「彼ら」の「正当な」感性との隔たりを埋める為、まるでやって当然の復仇行為かの如く虐遇する事を行う。

 そしてその様な暴力、加害事を「彼ら」は自身でやっておきながら、〈「彼ら」は倫理的に肯定的な性質を有している〉、故に〈「彼ら」に対する論いは全て不当である〉という印象を常識として世人に強固に拡げて持たせ、声を上げる事すら「不当だ!」と封じる事実上の制度を「彼ら」仲間内のみならず社会ほぼ全てに迄拡げて相応の高強度に行き渡らせて居る。


【その結果のひとつが、不当な暴力行為への無思慮な肯定、見て見ぬ振り、放置、理不尽かつ不合理な非難、有害で無根拠な虚言等が罷り通ってなお殆ど誰も反省されぬなのである!】

 


 まとめ終わったので希望的な事を言うと、この人間の持つ悪い性質のうち、特有の起源を持つ一定のものはある種の認知訓練によって解いて幾分か緩和する事は可能で有る様だが、然しそんな一種の再教育ぢみた事を行うのは当然多くの反発を生む上、人を尊重する妥当なやり方で無く、その教育を受ける事になる人数からするとあまり現実的で無い訳だから、未だ現実として不可能的な情況である。

 それでも不合理を取り除く為風潮による教育によってこれを結果的にでも成した場合、つまり「彼ら」の之々これこれは事実としておかしい物である、と一定的多数の人間が毅然とその非難するに足る範囲の悪事不善の事実を指摘し続け、一定の皆ながその指摘を容れて賛同し、どんな人間であっても、どんな場面に於いても断固として許容をしないという事を着実に行った場合、それが見せ掛けでただ「彼ら」の持つ性質を少し控えさせただけであったとしても、彼らが悪を成してなお悠々闊歩かっぽするこの「現代の日常」よりは絶対に良くなるであろう。これが謂う所の「反義逆理」である。



 話はかなり長くなったが、「世の中」と世の中の「彼ら」は浅ましくも最早その様であるから、腐り切ったこの「義理」に於いて糺弾攻撃される事が特に正当とされる立場『』に当て嵌まる属性をひとつでも持つ者ならば、理不尽な「彼ら」から「認定」され、そして制裁を受けないように、常にビクビク一挙手一投足を気にしなければならない(若しくはさきの様に『武器』を手に執り反義逆理の道に戦うか)。この世は、そうでなければ則生命をうしなわせてしまう様な、まことにおぞましい戦場となっているのである。絶対に、そうして生き延びねばならない……


 こうして長々と自説を押し付けて来たが、これが具体的に何の話であるかと言うと、主としてはとその取り巻きシンパについての話である。「彼ら」は彼らの義理を破る等少しでも気に障る物事をした『卑劣な弱者』、つまり多くの場合「弱者男性」——「いちおう男性属性全体はっすらとな潜在的に『卑劣な弱者』だ」と現在の彼らの無意識的『中心感性』の認知ではっている様であるが——が目の前に現れでもして少しでもそうした存在が意識された場合には、女性とそのシンパたちは、「そうした人間には、己の『為に見下して叩くべきだ」、「徹底非難されるべきだ」「痛めつけるべきだ」「淘汰されるべきだ」、「そうでなければならない」と、心の底に染み付きたる有害な『感情規範』文化によって思い込んでいる。その様な集合的な「彼ら」の意識があるから、結果的に、こうした悲惨で浅ましいことがまかり通ってしまう状況が実現してしまっている。

 もう此処まで来るとマトモな生活を送りたいのなら、彼等に関わらないか、或いは対峙して徹底的に戦うしか選択の余地は無い。

 だから、かような「常在戦場」のこの令和の御代みよに於いては、僕を含めた「能力の欠した」「気持ちが悪いとされる」『卑劣な弱者』弱者男性、つまり全ての「自分」たちは、彼等が本能的にやる、一瞬で変わり得る印象をもととして「直結脳」的に理不尽に虐遇するのを避ける為、ともかく基本的には女性に対して無駄に関わって話しかけたり、「彼ら」の視界の中に入ったりする事等は絶対にしてはならないのだ——

してはならないのだ——しかし、僕のその行動原理は気付かない内に、他ならぬわれの手によって今にも崩壊しかかっていた。



——————————

*余計な付記:☆削除済

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