リーガルリリー『リッケンバッカー』――3
弱っている時ほど、人は簡単に、すがれるものにすがってしまう。
梅雨なのに妙に肌寒い日。バイトと生理が重なった。生理はただでさえいつもより数段重く、常に下腹部が鋭く痛かった。血の量もいつもより多くて、ろくに食べられていないから、貧血でふらふらになった。その上寒暖差で体調を崩した。頭痛と吐き気がすごくて、ゼリー飲料で鎮痛剤を流し込んで、昼間は何もできず眠っていた。進めなきゃいけない卒論も、全然進められずにいた。
それでも、バイトには行かなくちゃいけない。休んだ分だけ給料が減る。足元がおぼつかない中、壁伝いに歩いて、どうにか軽い化粧をし、家を出た。立ちっぱなしの仕事はきつかった。途中でめまいがして、レジの中で座り込んでしまい、後半はずっとバックヤードで横になっていた。
ケンさんがえらく心配してくれた。「送っていく」という言葉に、今回ばかりはやせ我慢が通用しなかった。荷物を持ってもらって、徒歩五分の道をよろよろ歩いた。曲を聞いていればあっという間につくはずの道が、永遠みたいに長く感じた。
家にケンさんが上がってくるのも、留められなかった。「晩飯、食った?」と訊かれて、黙って首を横に振ると、「簡単なもんでよければ作ったるで」と、ケンさんが申し出てくれた。断るような元気もなかった。冷蔵庫が空っぽだったから、ケンさんはわざわざ買い物に出て、ポカリスエットと、替えのナプキンと、冷凍のうどんを買ってきた。
しばらく眠っていたら、ケンさんが起こしてくれた。テーブルにほかほかのうどんが置いてあった。食欲はなかったけれど、「無理にでも食べた方がええで」と言われ、素うどんを一本ずつすすった。あったかいつゆが沁みるようにおいしかった。久々に食べた、人の作ってくれたごはんが、ひどくあたたかかった。気づくと涙がこぼれて止まらなかった。
「ふみちゃん、最近無理しすぎやで。就活、きついんやろ」
就活の愚痴は、ケンさんにだけ話していた。有紗にも、のんちゃんにも、ましてや花岡にも、弱音は吐けなかった。
みんな、頑張っている。そんな中で、私だけが落ちこぼれているなんて、嫌だった。みんなと対等でいたい。
「無理してるのはみんな同じだから。私はみんなみたいに親にも頼れないし。もっと頑張らなきゃ」
「それで病んだら元も子もないやん。知っとるか? 就活って、七人に一人が病むんやて」
七人に一人。六人は何事も無いのかと思うと、ぞっとした。私はなんて弱いんだろう。みんなが当たり前にできることを、どうしてできないのだろう。マイナスな言葉ばかりが思考を蝕んだ。
「フリーターでだって生きてかれるやん。苦手なことを、無理してやる必要なんかなんもないで。違うか?」
「でも……正社員にならなきゃ、私、」
「正社員じゃなきゃ死ぬわけやない。けどふみちゃん、このままだと死んでまいそうや」
突然、ケンさんのたくましい腕が、背中にのびてきた。意外なほど優しい力で、ケンさんは私を抱きしめ、そっと頭を撫でた。泣きたくなんかないのに、涙はひとりでに溢れて止まらなかった。
「苦しそうなふみちゃん見てると、俺も苦しい。――なあ、もうええやん。ふみは十分頑張ったやろ」
なんでこんな時に限って、一番ほしい言葉を、この人は吐くのだろう。
その日は今まで溜めこんでいたぶん全部を吐き出すように、泣いて、泣いて、泣いた。ケンさんは明け方近くまで、私をひたすら慰めてくれた。途中まで食べたうどんはすっかりのびきってしまった。ケンさんは温かくて甘い牛乳を作って、私に飲ませてくれた。ほっとする、優しい味だった。
そのまま、「少しでも横になり。明日ゼミなんやろ」と、ケンさんは私を寝かせた。暗闇がずどんと落ちてきて、久しぶりに魘されずにぐっすり眠れた。
朝になったら、少しだけ身体が楽だった。ケンさんはあのまま帰らなかったらしく、ベッドの下で雑魚寝をしているのが見えた。私がトイレから戻ると、ケンさんは「おはよう」と身を起こし、「体調、大丈夫か?」とやけに気遣い、無理やり体温まで測らせた。
結果。三十七度二分。微熱と言うのも憚られるような熱だったけれど、ケンさんは「無理はあかん」と私を休ませた。
「こんなご時世やで。無理して行った方が逆に迷惑になる。休んだって、だれも文句なんか言わんよ」
授業はほとんどオンラインだけれど、ゼミだけは対面だ。大学までは自転車で十分くらい。ぎりぎりまで迷って、結局私は教授に休みの連絡をした。
授業のない平日は穏やかだった。熱を出して学校を休んだ日、母がやけに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのを思い出した。
私に軽く朝ごはんを食べさせると、ケンさんはベランダで煙草を吸っていた。それを眺めながら、気づくと私は再び眠りに落ちていた。
もう一度目を開けた時、ケンさんの顔が目の前にあった。びっくりして布団の中で飛び退く。ケンさんは「ごめん」と慌てて、照れくさそうに下を向いた。
「ふみは、すっぴんもかわいいんやなって思って」
時間が止まったかと思った。
黒髪にしてから、ケンさんの反応が目に見えてよくなったのは、記憶に新しい。昨日は化粧も落とさず寝てしまったけれど、たくさん泣いたから、目元はほとんど化粧が落ちてしまったのだろう。ケンさんは、化粧が薄めで黒髪の、いわゆる清楚系の子が好きなのかもしれない。
他人事のように思いながら、次に言われる言葉は、なんとなく察しがついた。
「なあ、ふみ。俺たち、そろそろつき合わへん? 俺、ずいぶん前に彼女とは別れとるんや。ふみも彼氏と別れて一年くらい経つやろ。俺、ずっと、ふみのこと好きやった」
きちんと告白をするケンさんの誠実さだけは、少し意外だった。
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