帰り道の風景

 夕暮れが好きだ。世界の輪郭がぼやける、魔法のような時間。陽は沈み、影は伸びる。長い旅路の果ての、赤や橙の光が染める景色。たそがれ、という言葉は、本で読んで覚えた。たそがれの、夕暮れ時にだけあらわれる、不思議なお店の話だった。

 ぼんやりと、そんなことを考えながら、車窓を眺める。

 日曜日、夕方の電車といえば混雑しそうなものだけど、各駅停車のこの私鉄は、さして乗客がいない。だから、わたしと緒方は、こうして並んで座っている。

 隣からは、規則正しい寝息が聞こえていた。

 緒方は、不思議な男の子だと思う。

 元運動部で現文化部だからなのか、クラスのどの男子とも、それなりに仲がいい。というか、人望がある。みんな、ちょっと、緒方と仲良くなりたい。あんまり背が高くてなくて、痩せているからか、威圧感がぜんぜんない。だから、女子も話しかけやすい。なにか男子に頼まなきゃいけないことがあるとしたら、だいたいの子が、とりあえず緒方に声をかける。

 体育祭のときのことは、よく憶えている。

 祥楓高校の体育祭は、毎年、六月にある。

 高校生活に少しずつ慣れてきたとはいえ、まだよそよそしさが抜けきらないころ。体育祭は、学年縦割りで対抗チームになって、競技以外にも応援合戦があった。応援合戦の出し物は、三年生がメインでとにかく一年は必死でそれについていく、みたいな感じだった。だから、文化祭みたいに、わたしたちがなにかまとめたり、といった仕事もなかった。

 ただ、競技の割り振り分担は、そうはいかない。クラス全員、なにかひとつは競技に参加しなきゃいけない。場合によっては複数参加。比較的穏やかで目立った諍いごともなく入学からの三ヶ月を過ごしていたわたしたちは、ここではじめて、少し空気がピリつく事態に遭遇した。

 単純な話で、一年F組は運動部があまりいなくて、積極的に競技に参加したい子が少なかったのだ。

 現役の運動部員中心に、徒競走や騎馬戦はなんとか出場者を決められたものの、最後までスウェーデンリレーのアンカーが決まらなかった。

 まあ無理もない話だった。男女混合実施の、走る距離がだんだん長くなるスウェーデンリレーは、第三走者の女子は300メートル、アンカーの第四走者男子は400メートルをほぼ全力で走らなきゃいけない。どれだけ短距離が速い子でも、400走るとなれば結果を出せるとは限らない。チームは学年縦割りだから、あまりにも派手に負けると先輩たちからの視線が痛い。かなり気まずい。むしろ、結果がふるわなかった場合、運動部の子たちこそ、入部したばかりなのに先輩たちに白い目で見られるのが辛い、というのがあったかもしれない。とにかく、誰も、やりたくないに決まっていた。

「まじでくじ引きで決めんの?」

「しゃあないやろ」

 生贄を決めるのに難航したわたしたち──というか男子は、平等に全員でくじ引きをすることになった。桐山や鳴海はじめ現役運動部員組は、嫌そうながらも、なんだかんだそこまで深刻な様子ではなかった。本気で心配になったのは、運動が苦手とはっきり公言していた白井をはじめとする数人だった。あきらかに顔が青ざめてて、頼むから彼ら以外、できれば桐山あたり、運動部の誰かが当たりくじを引いてくれ、と女子みんなで祈っていた。謎の漢気おとこぎというワードを誰かが持ち出したので、十八分の一の当たりを引いたラッキーボーイが晴れてアンカーとなる、という仕組みになっていた。

「だいじょうぶやで、白井。絶対おまえは当たり引かんから」

 この世の終わりのような顔をしていた白井に、緒方がこっそり声をかけたのを、わたしは聞いていた。男子全員がくじを引くので、くじの入ったトートバッグ持っていたのはわたしだった。いい感じにくじを入れられる箱がなかったので、柚ちゃんの持っていたトートバッグを借りたのだ。

 ちなみに、ルーズリーフを切ってつくったくじは、クラス代表で、学級委員のわたしと緒方がつくった。

 震えながらくじを引いた白井は、緒方の予告通り、無事に外れくじを引いた。

 次にくじを引いたのが緒方だ。見事に当たりくじだった。

「緒方、あれ、わざとでしょ」

 元運動部という絶妙なアンカーが決定ししばらくみんな平和に盛り上がったそのあと、わたしはこっそり緒方に訊いた。トートバッグには、持ち手の近く、内側にちいさなポケットがついていて、そこに当たりを仕込んでおけば、意図的に当たりを引くことができる。そうじゃなくても、あらかじめ持っていた当たりくじを、さもトートバッグから取り出したように見せればいいだけだ。くじをつくった人間になら、容易に実行できる策。

「やっぱ気づいた?」

「そりゃ、まあ。……お人好しすぎない?」

「いうて、日笠さんもやん。第三走者やろ」

 そう、第三走者は女子の誰かが走らなきゃ駄目で、話し合いの結果、わたしになっていた。

「ええねん。僕やったら、もし、負けても途中でバテても転んでも、みんないじりやすいし、笑いで済ませやすいやろ。現役運動部ちゃうから、しゃあないかで流せるし、いちおう元運動部やから、そんなに適当に割り振り決めたように先輩らにも思われんやろうし。ま、そこそこで走るわ」

 そう言った緒方だったけど、いざ本番、蓋を開けると驚いた。

 信じられないくらい、速かったから。

 ただ速い、ということに驚いたわけじゃない。いちばんびっくりしたのは、バトンをつないだとき。

 普段バトンパスなどしないのだから、ふつう、落とすのを怖がって、陸上部同士でもなければスピードなんか出せない。まして、女子から受け取るのならなおさらだ。実際、みんなバトンの受け渡しのとき、あきらかにスピードが落ちていた。

 わたしたち以外は。

 テイクオーバーゾーンでかまえていた緒方は、駆けてくるわたしの速度を確認するや否や、まったく躊躇いをみせずに走り出した。

 嘘でしょ、と思う。300メートル疾走してきた女子相手にそのスピード出す?

 そこで気づく。自分の口角が、わずかに上がっていることに。

 おもしろいな。

 はっきりと自覚した。わたし、いま、笑ってる。

 これ、ぜったい、死んでも落としたくないな。

 緒方の背中と、伸びる腕。

 トップスピードで、あの手にバトンを叩きこむ!

 名前を呼ぶと、緒方の手が開いた。

 腕を伸ばす。たしかに、触れる感触。

 わたしは、バトンを手から離した。受け取った緒方が、走っていく。

 遠ざかる背中を見ながら、トラックの内側に座りこんだ。お疲れ、と米谷先生が近づいてくる。

「速いなー、日笠」

 返事をしようにも、息が上がりすぎていた。こくりとなんとか頷くと、ちゃんと水分とれよ、と先生は続ける。

「緒方も日笠も、すげえ度胸な」

「……いえ」

「ふつう、あのスピード出せないだろ」

 わたしもびっくりした。米谷先生の視線を追って、レーンに目をやると、走る緒方が見える。

 はじめからセーブせず、全力で走れるところまで走り切る、という戦法なのだろう。いまだスピードは落ちてない。

 疲れてフォームの崩れていたB組の生徒を追い抜くと、そのまま引き離し、緒方はゴールテープを切った。歓声が上がる。三年生の先輩にも囲まれて、胴上げされそうになっていたのを、危ないからやめろ、と米谷先生が慌てて止めに走っていった。

「絵梨花ー、お疲れ。まじ速いやん」

 ううん、と返して、柚ちゃんからタオルを受け取る。

 なかなか、脈打つ鼓動がおさまらない。

 たぶん、すごく、嬉しかった。

 緒方が、わたしが追いつけると信用して、躊躇わずスピードをあげてくれたことが。

 あいつもようやるなあ、と大勢に囲まれている緒方のほうを見た柚ちゃんにつられて、わたしも、そっちに視線を向ける。と、急に、賑やかだった集団が、ちょっと違うざわつきかたをする。どうしたのかと訝しんでいると、緒方が米谷先生に担がれて運ばれていくところだった。炎天下でひさしぶりに後先考えずに全力疾走したため、キャパを超えたのか吐きかけていたらしい。馬鹿じゃないのか、と思うと同時に、なぜか、鼻の奥がつんと痛んだ。いま考えれば、緒方は、このころから体調を崩しがちだったんじゃないか、とも思うんだけど。



 緒方の妹の翼ちゃんは、すごく、緒方に似ていた。

 ぱっと見は、ちょっとぼんやりしてそうに見えるのに、ときどき、誰か殺せそうなくらい目線が鋭くなるとことか。

 生物室で、みんなでライブ配信を見たあと、緒方は翼ちゃんに電話をしていた。

 なんで出演することを言ってくれなかったのか、という問いに対し、翼ちゃんは、こう答えたらしい。

 ──せっかくやし、てっぺん獲ってから、言おうと思った。

 審査員がいるコンテストにも近いフェスで、優勝者には賞金も出る。翼ちゃんと翼ちゃんの先輩のバンドは、優勝こそ逃したけど、このフェス出身バンドの審査員から特別教員賞をもらっていた。

『メロディック・スパークル』の主催のラジオ番組は、学園をコンセプトとした番組なのだそうだ。パーソナリティや出演するアーティストは教員になぞらえられていて、いろんな企画があっておもしろいらしい。こよりちゃんに教えてもらった。

「翼さあ、たのしかったって。てっぺんは無理やったけど、音、かき鳴らすんが。全員ぶち抜くつもりでやった言うてたわ」

 通話を終えた緒方は、そう言っていた。すごいな、と思う。画面越しに見たステージは、とても広く見えた。あそこに立って音を鳴らす、というのは、わたしの想像だと、とても怖い。

 柚ちゃんの友だちも、暁築さんもすごい。暁築さんといえば、『薄明』はメディアに顔を出していない。そのせいもあって、みんな、暁築さんイコール『薄明』にすぐに結びつかなかった。こよりちゃんがシルエットで気づいたのは、以前、ライブに行ったことがあるからなのだそうだった。ライブのときは、照明なんかで顔がはっきり見えないように工夫されているらしい。

 電車が減速して、駅に着く。扉が開いて、閉じる。そして、再び走り出す。隣の緒方は、まだ、起きる気配はない。

 今日はたのしかったな、と、あらためて思う。

 すごく、ひさしぶりに、ボールを蹴った。はじめは、気まぐれで蹴っただけだった。でも、懐かしい感触とじゃれているいるうちに、がついた。本気で、これで、誰かと遊びたい。

 勝負しようって持ちかけたら、緒方は乗ってくれた。想像したとおり、まったく手を抜く様子はなく、向かってきてくれた。

 それが、わたしにとって、どれだけ救いともなることだったのか。

 きっと、緒方にはわからない。でも、わかってくれなくていい。

 バドミントンはたのしいし、けっして、いまが不満なわけじゃない。だけど、それと、過去のことはまたべつの話。

 小学校の卒業が近づいたころ、お父さんも、お母さんも、わたしに訊きもしなかった。サッカーを続けたいかって。やめるのが当然と、疑ってもない様子だった。女子で続けられる環境は少ないし、わたしだって、中学に入るまでだって、割り切ってはいた。でも、ほんとはたぶん、続けられるんなら、続けたかったし、やめたくなんかなかった。ちゃんと、それを、吐き出させてほしかった。たとえば、これで、推薦なんかとれるわけがない、将来なんの役に立たないだろうことだけど、本気だったから。ちゃんとやってたってこと、認めてほしかったし、侮らないでほしかった。わたしの気持ちを、低く見積らないでほしかった。──違う、ちゃんと、そう言えばよかった。

 いつのまにか、じんわりと、視界がぼやけていることに気づく。

 膝の上に抱えたリュックサックに、顔をうずめる。うわ、鼻水出たら最悪。できるだけ控えめに、はなをすする。

「……日笠さん?」

 なんでいま起きるんだ、と理不尽に怒りたくなる。さっきまで寝てたのに! 顔をあげて横目で緒方を見ると、わかりやすく狼狽えていて、なんだか、笑いそうになってしまった。涙がひっこんでいく。

「どうしたん?」

 それでも、ちゃんと真面目な顔をして、緒方は、わたしにそう訊いた。わたしは首を横に振る。なんでもないよ。もう、だいじょうぶ、なんでもなくなった。

「……体育祭の、スウェーデンリレー憶えてる?」

 わたしがそう言うと、緒方は、とつぜんの話題に困惑した様子ながらも頷いた。

「うん。僕が吐きかけたやつな」

 つうかよっぴーに運ばれたあとまじで吐いてんけどな。え、そうだったの?

「緒方さあ、あのとき、笑えるくらい速かった」

「あー……、べつに、適当に流してもええかなって思っててんけど。でも、レーン並んだときに、B組のやつが、あきらかに僕のこと舐めてんのわかったから、ちょっと、むかつくなー思うて、それに」

 緒方は、続けて、なんでもないように言った。

「日笠さん、めっちゃ速かったから。あ、これ、勝ちにいきたいなって」

 わたしは笑った。笑った瞬間、残っていた涙が、ひとすじだけこぼれた。それを指で拭って、わたしはまた笑う。

 そうだ、わたしはけっこう、負けず嫌いだ。負けてやるかよ、と思う。なににだって! 姿勢をただして、顔をあげる。窓の向こうを見る。

「あ、ねえ、見て、空の色すごい」

 ふと気づくと、橙色を帯びていた空が、濃い青色に包まれていた。昼間の明るい青とは違う、深い青。

 すご、と緒方も隣でつぶやく。

「ブルーモーメントいうんやっけ、これ」

「うん、たぶん、そうだと思う」

 日没後の、夜に沈むまでの、わずかな時間の青の幻想。

 わたしと緒方は、並んでそれを眺める。

 ただ、うつくしい、帰り道の風景。日常の、ありふれた日々の、ありふれた奇跡。そのなかに、いま、わたしたちはいる。





 

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佇む咆哮 折り鶴 @mizuuminoue

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