推理の射程

名探偵の役割

 薄明という言葉は、日がのぼる前と日没後の、薄ぼんやりと空が明るい時間帯のことを指すらしい。太陽が地平線下にありながら、光が届くわずかな時間。散乱しやすい青の光は、もうわずかにしか見られない。青は、長くは残れない。茜や橙に染まる空を見ながら、俺はそんなことを考える。

 両耳からイヤホンを引き抜くと、風の唸り声が飛びこんでくる。もう、ほとんどの生徒が帰っていて、ひとけのない古びた校舎はもの寂しい。

 視線を落として、暗い中庭を見下ろす。

 普段なら、この四階の渡り廊下は施錠されている。今日は、文化祭のために特別開放されていた。ひとの流れが活発になるので、動線をスムーズにするための配慮だ。

 最上階のここは、屋根のない吹きさらしだ。九月も下旬になると、夕空を切り裂く風はつめたい。

 晃とはじめて会った日のことを思い返す。あの日、財布を盗られかけた一年を見つけた俺は、二階の廊下から飛び降りた。怪我をする可能性が、ないわけじゃなかったけど、結果として無傷だった。その程度の高さ。じゃあ、もし、三階からだったら、たとえば、ここからなら? 死ぬかもしれないし、案外、骨折程度ですむかもしれない。すぐに見つけてもらえるか、地面の状況、コンディション。なにが致命傷になるかなんて、わからない。

 ぐ、と身を乗り出してみたところで、

「太一さん」

 名前を呼ばれて、振り返る。

「なにしてんの、春ちゃん、こんな時間まで」

「その台詞、そっくりそのまま返しますよ」

 渡り廊下の端、1号館を出たすぐあたりのところに、春川は立っていた。

「俺はね、あなたのことをさがしてました」

「……へえ、なんのために?」

「解決編のやり直しです」

 一歩、春川がこちらへと足を踏み出す。ちいさな紙をかかげて、俺に告げる。

「あの日、生物室に手紙を置いたのは──『差出人』は、苑やなくて、太一さんですよね」

 



「苑が時計塔ライブの宣伝のために置いたしては、不自然なところが多すぎるんですよ」

 俺と一定の距離を保ったままで、春川は話し出す。

「まず、なんで、手紙を置いたのが俺ら現象部の部室である第二生物室だけなのか。ひとを集めたいんやったら、各部室、各教室に置くでしょう。俺の知る限り、他に手紙が置かれてたって話は聞きません」

「春ちゃんが知らんだけで、置いてあったんかもしれんやろ。俺らがあんまり関わりのない、二年の教室とか、運動部の部室とか」

「晃は手紙のこと、運動部で二年の先輩とも仲の良い、日笠さんや桐山くんにも話してたんですよ。もし、二年の教室や運動部の部室に手紙が置かれてたなら、晃にはその情報が伝わったと思います。……まあ、それだけやと弱いですけど、他にもおかしいところはあります」

 春川は、手紙──切り取られた歌詞カードの縁を指でなぞる。

「これ、宣伝文句にしては、不親切すぎるでしょう。これが『薄明』の楽曲の歌詞やってわかるひとには、なんらかの印象を与えられるかもしれませんけど、そうじゃなければなんのことかわからない。仮に歌詞やってわかったひとが、察しよく軽音部と結びつけても、文化祭のライブ──とくに時計塔へ誘導するんは、この『あの日いなくなった私をさがして』一文だけの情報しかない紙片からは不可能でしょう。軽音部の大半は、視聴覚室でライブしてたんですから」

 まだあります、と春川はそこで、顔をしかめた。なにか、苦いものを飲みこんだように。

「もし、五千歩譲って、情報としては不足しすぎなこの一文だけを、生物室に残そうとしたと考えましょう。でも、なんで、わざわざ、歌詞カードを切り抜いたりしたんでしょう? べつに、メモ用紙でも便箋でも裏紙でもノートの切れ端でも、紙なんかいくらでもあるやないですか。──というより、苑にはできないと思うんです。大事な、好きなアーティストが出した商品の一部を切り取って傷つけるなんて、あいつにはできない」

 ふっと、春川が息を吐く。俺は、反論はしない。

 そのとおりだと思うから。いまや配信限定のリリースだってめずらしくないなか、貴重なCDを構成する要素である歌詞カードを、朝比奈が切れるわけがない。

「手紙が生物室に置かれた日、太一さん、晃のクラスの文化祭の出し物をあてるふり、したでしょう?」

「うん。見事にあっきーが騙されかけたやつな」

 ほんとに、素直な後輩だと思う。俺に全幅の信頼を置いてくれているのはありがたいけれど、残念ながら、俺はそんなに信頼されるに値する人間じゃない。

「あのとき、俺が言ったこと、憶えてますか?」

「憶えてるよ」

 俺は迷うことなくこたえる。

「『他の可能性除外できへん段階で断定されたら、なにかしらタネがあるはず』やろ?」

 春川が口を開く前に、俺は続けて言う。

「心理的な抵抗を考えなければ、ただ、状況的に可能やったか否かでいえば、朝比奈は生物室に歌詞カードを切り取った手紙を置くことができる。でも、それは朝比奈だけじゃない。階段にいた宮本さんにも、柚木さんにも。なんでそんなことをするのかっていう動機をフル無視で考えれば、廊下で清掃していた倉田さんにだってできた。──でも、その可能性を除外できない段階で断定した俺に、なにかタネがあるって思ったんや?」

「そのとおりです」

 はあ、とため息をついて、呆れたように春川は言う。

「みなまで言わんといてくださいよ、それは俺が言う流れやったでしょ」

「ごめんごめん。でも、まだ、かんじんの謎が残ってるやん」

 春川は、どこまでわかっているんだろう。おそらく、、そこまではわかっているに違いない。

 じゃあ、そのさきは?

 どこまで、おまえは、わかってる?

「手紙が置かれたとき──生物室の扉が開け閉めされる音が聞こえたとき、俺は、春ちゃんと晃と一緒に、準備室内にいたやろ? どうやって俺は手紙を置いたん?」

「手紙が置かれたのは、それよりも前です。あの音が聞こえたときに、すでに手紙は生物室内に置かれていた。太一さんが手紙を置いたのは、俺が閉め損ねた扉を閉めにいったときです」

 電子レンジ運ばされてたせいで開けっぱなしでしたからね、と春川はしっかり付け足した。ただ、本気で苦言を呈している口調ではない。俺はべつに、電子レンジを春川に運ばせることで扉を閉めさせないようにしたわけじゃない。結果として、開けっぱなしになっていた扉を利用しただけだ。

「生物室の扉が開いたままになってることに気がついたあと、太一さんが閉めにいってくれましたよね。そのとき、キャビネットにあったCDの一枚を持っていったんでしょう。俺も晃も凝視してたわけやないですし、準備室の入り口付近のキャビネットからすぐ生物室に移動されれば気づかない。生物室に移動した太一さんは、戸棚から鋏を取り出して、歌詞カードを切り取ると、ビーカーを置き石がわりにして切り抜いたカードを机に置いた。それから、生物室の扉を閉めた」

「確かにそれやったら、俺が手紙を置くことはできるな。そんなに時間がかかる作業でもないし。……でも、まだ、不充分ちゃう? 俺らが三人で生物室内で聞いた、扉の開閉音はなんやったん?」

 俺はかき氷、春川と晃はアイスクリームを食べながら、『差出人』について検討した日のことを思い返す。

 あのとき、晃は正解を口にしていた。

 ──つまり、扉の開閉音が聞こえたよりも前に、すでにあの手紙は置かれていたんですよ。

 そのあと春川が言った台詞で、晃は自説を取り下げた。

 ──わざわざ時間経ってから扉の開閉音鳴らすフェイクを入れる意味が『差出人』にはないしな。

 ただし、これに該当しない場合がある。

 開閉音が鳴った時点で準備室内にいれば、『差出人』の容疑から外れることができる。

 ふっと、思い出す。あの日、春川と相談して、晃もアイスとかかき氷なら食べるんじゃないかと、牛乳や砂糖、生クリームを買いにいった。保管は家庭科室の冷蔵庫を借りて、氷は頼んでわけてもらった。めずらしく自ら積極的に食べ物を口に運ぶ晃を見て、ちょっと安心した。あの後輩は、自分が弱っていることを口に出すことを是としないから。

「扉の開閉音は、録音ですよね」

 春川はスマホを取り出すと、レコーダーアプリを表示させた。

「方法はいくつかあると思います。歌詞カードを切り取って置いたあと、太一さんは生物室の扉を閉めました。その、閉めた音を録音してたんですよね。それからタイミングを見計らって、録音を再生した。扉が軋む音は、開けたときも閉めたときも似たような音で判別つきませんから、二回再生すればいい。再生は、スピーカー代わりのスマホを生物室内に置きっぱなしにして、スマートウォッチを操作して再生したか、もしくはCDと一緒にスピーカーを持ち出していたか。後者の場合は、言うまでもなくスピーカーを生物室内に置いといて、スマホかスマートウォッチを操作した。スマホにしろスピーカーにしろ、机とか椅子の下とか、ぱっと見て目立たんとこに置いといたらいいわけですし、回収なんかすぐですからね。べつに、急いであのとき回収しなくても、部員である太一さんならいつでも生物室へ入れるわけですし」

 手首に巻かれたスマートウォッチを眺めおろす。

 俺はほんとは、こういうデバイスはあんまり好きじゃない。ただ、肺気胸になったあと、心拍数や酸素飽和度を測れるからと、心配した祖母にもらったものなので使っている。

「CDについても、いったん戸棚にでもしまっておいて、あとからゆっくり回収すればよかった。なにか物が失くなったんやったらともかく、手紙が置かれていただけ──むしろ物が増えたあの状況下で、べつに必死になって生物室内の戸棚や引き出しを開けたりはしない」

「確かに、俺には、その方法で手紙を置くことができる。でも、まだ謎は残ってるよな。──動機は?」

 一定の距離を保っていた春川が、ゆっくりと近づいてくる。

「お姉さんのためですよね。──



 姉は、やさしいひとだった。

 姉はよく、俺の空手の試合の応援にきてくれた。まだちいさな手ではじめてトロフィーを抱えた日、姉は、俺より嬉しそうに笑っていた。ずっと、そういうひとだった。

 俺は、姉や姉に近い感覚を持ったひとを、こういう枠組みにカテゴライズして表現することが死ぬほど嫌いなのだけど、あえていうなら、感受性の高い、共感能力の高いひとだったのだと思う。だから、よく笑っていたし、よく泣いていた。悲惨なニュースの報道が続いた日なんかは、わかりやすく体調を崩していた。姉の不幸は、自分のそういった性質を恥じていたことだと思う。あのひとは、ほんとは『やさしいひと』じゃなくて『つよいひと』になりたかったんじゃないか。そんなふうに考えたりもする。

 ふたつ歳上の姉は、ここ、府立祥楓高校に、入学した。俺はその二年後に入学した。同程度の学力を有しており家からそこそこ近い高校に通いたい、という希望を持った姉弟だったので、ごく自然とそうなった。ふつうならば、俺が一年のときに姉は三年になっているはずだったのだけど、そうはならなかった。姉は、入学から一年と少し、二年の夏休みを迎える前に退学したからだ。

 姉は学校に行けなくなった。正確にいうならば、外に出ることを極端に怖がるようになった結果、通学が困難になった。学校自体は好き、というより、友人と他愛もないことではしゃいだりすることが好きだったのだと思う。姉はある日、ひき逃げの場面に遭遇した。見知らぬ幼い子どもをはね飛ばしたSUVは、いったんは止まったものの、そのまま走り去り姉の視界から消えた。夕暮れの路地には、姉と、弱々しい息をする子どもだけが残った。あとから警察のひとに感心されたくらいには、姉はその場で適切な対応をした。通報をし、救急車を呼び、近隣のひとに助けを求めた。ただ、はねられた子どもは、病院に運ばれたものの翌日に息を引き取った。

 そのことが姉の心理にどういった影響を及ぼしたのか。想像はできる。でも、姉が、なにをどう考え、なににどれくらい苦しんだのか、ほんとのところはわからない。姉は最後まで、俺になにも語ろうとはしなかったから。姉は『姉』なので『弟』に弱音を吐くべきではない、と、考えていた。だから俺も、姉のまえでは無邪気な『弟』であり続けた。その対応がただしかったのか、間違っていたのか。どれだけ考えても、たぶん、一生結論は出ない。人生は一度きりだし、結局のところすべて結果論にしかなりえない。

 家に閉じこもるようになった姉は、それでも、どうにか踏み止まろうと必死だった。

 いっときは、うまくいっているようにも思っていた。とくに、俺が高校に入学する直前くらいまでは。少しずつ、食事をもどすことも減って、テレビを見たり、音楽を聴いたりすることもできるようになっていた。病院以外にも、近所のコンビニや図書館くらいまでなら、外出もしていた。

 彼女のバランスが再び大きく揺らいだのは、二〇二〇年の春ごろからだ。休校措置が取られ、入学したばかりの高校に行かない俺は、家で姉と過ごしていたから、よく知っている。インフラ整備系の仕事でリモートワークができない父と、数々の対応に追われ続けた医療従事者の母に「いってらっしゃい」を言っていた姉が、なにを考えていたのか。わかりはしないけど、なにも考えていないわけがない、ということだけは嫌すぎるほどわかった。

 おそらく姉は、優先順位のつけ方が、わからなくなったのではないかと思う。

 毎日部活に明け暮れていた俺がずっと家にいること、働き続ける両親、嘘のようにひとのいない都会の大通りを映し出すテレビ、閉まる飲食店、お気に入りのバンドのライブの中止の知らせ、家でただ過ごすだけの自分、この世界においてぜったいに必要とされるものと、そうでないと判断されるもの。

 きっと、そういうことを考え続けてた姉は、ある秋の日曜日の夕暮れ、住んでいたマンションの非常階段から飛び降りた。

 わたし、生きてるだけだね。

 その日の朝、文化祭のために家を出ようとしていた俺は、姉が、そうつぶやいたのを聞いた。

 そのときの俺の返答が、姉にどんな影響を与えたのか。それを考え続けた俺は、姉と同じように徐々に体調を崩すようになり、二年次は留年することになった。空手はやめた。ただ、その程度で済んだのだ、ともいえる。姉の決断に耐えられなかったのは母で、その母を支えるのに自分が限界を超えたのが父だ。父はある日から家に戻ってこなくなり、母は両親の、つまり俺の祖父母のもとで暮らすようになった。ひとり残された俺は、子どものいない親戚夫婦に引き取られ、奈津原太一から段下太一になって、そして、いま、渡り廊下に佇んでいる。



「三年前の文化祭の日にいなくなった生徒。太一さんにとって、それは、奈津原静乃さん以外にありえない」

 あの日の答え合わせを、ただしい解決編を、春川は淀みなく続けていく。

「晃が、三年前の文化祭の日に消えた生徒がいたって口にしたとき、太一さんは、お姉さんのことを思い浮かべた。でも、すぐに、晃の言う『消えた生徒』がお姉さんではないことに気がついた」

 ちょっと考えれば、あの日あのタイミングで晃が俺の姉の話を持ち出すわけがないことくらい、すぐにわかる。そもそも、姉は三年前の文化祭の日の時点ではもうすでに『生徒』ですらない。でも、三年前、文化祭、消えた、そのキーワードがそろえば、俺は姉のことを連想せざるをえない。

「時計塔での消失事件の話──ジュリエット先輩の話をしながら、あなたは、内心思っていたんじゃないですか。──どうでもいいなって」

 俺は思わず、笑いかける。まったく、そのとおりだったから。

 暁築さんの事情については知らなかったけど、そう、どうでもいいと思っていた。多少の揉め事はあったかもしれないけど、でも、学校を去ったわけでもないし、死んだわけでもない。

 それは紛れもない本音で、そして、そんなふうに思考を進めてしまう自分が嫌だった。誰かが、たいしたことのない、とるにたらない、と評価することでも、それが致命傷になるひとだっている。傷や、悩みや不幸に、序列はない。それに、晃は──ジュリエット先輩の話を聞いた幼い後輩は、『言いたいことを言えずに飲みこんだひと』のことを考えて気に病んでいた。

「でも、あなたはやさしいひとだから、話を深刻に受け止める晃をまえにそんな態度はおくびにも出さなかった。でも、引っかかってはいた。というより、傷口を抉られたような気持ちだったんじゃないですか。ジュリエット先輩──暁築さんみたいに、思い出してもらえるひとがいる一方で、学校から去った、生徒ではなくなった女の子が、忘れられて、『消えて』『いなくなる』ことに」

 春川は、いちどポケットにしまった紙片を──手紙を、取り出した。そして、そこに書かれた一文を読み上げる。あの日いなくなった私をさがして。

「苑からもらったCDを開けて、何気なく歌詞カードに目を通した太一さんは、その一文を見つけた。それから、歌詞カードを切り抜いて、『俺たちに向けた手紙』にすることを思いついた。『差出人』はわからないようにして。だって、それは、ぎりぎりの叫びだったから。苦しいってこと、太一さん、なかなか吐き出せないひとでしょう? 晃も、そういうとこありますけど。気づいてほしい、と、触れてほしくない、の狭間で取り残された静かな悲鳴が、あの差出人不在の手紙の正体です」

 俺は笑った。

 両目の奥、頭蓋のあたりが熱を持ち、視界がにじみかけるのを瞬きでやり過ごす。笑った拍子に身体がぐらついた。手すりが、背中に触れる。手すりの向こうは暗く沈む中庭で、ここは四階。なにを勘違いしたのか、春川が、焦ったようにこちらに手を伸ばす。

 手を掴まれるよりもはやく、俺は自分で体勢を立て直した。

「……アホやな、春ちゃん」

 その場に座りこんで、手すりに背中を預ける。

「おまえ、俺より体重軽いやろ。身長は高いけど。懸垂もできへんくせに、手掴んだら一緒に落ちるで」

「俺は落ちないですよ。落ちない方法を考えます」

 隣にしゃがみこんで、同じように背をもたれさせた春川が、妙に自信ありげにそう言った。理屈的にはおかしい。できないはずだ。でも、もしかしたら、できるのかもしれない。

 だって春川は、ぜんぶ、ちゃんと、見抜いてくれたから。

 春川は、知らないはずだったのに。俺が春川と出会ったときには、俺は、もう、段下太一だったから。

 ほんとは、もう、とっくに大丈夫だった。晃が、奈津原静乃の、姉の名前を見つけてくれた日には、すっかり大丈夫になっていた。桐山くんのファインプレーともいえる。あれで、じゅうぶんすぎるくらいに、救われていた。というか、その以前から、とっさの思いつきでやってしまった行動を後悔していたくらいだった。

 じゅうぶんだったのに、こいつは、考えて、そのさきまで手を伸ばしてくれた。

 俺は、春川と視線を合わせて言う。

「すごいやん、春川。名探偵みたい」

「じゃあ俺のワトソンになってください」

 間髪いれずにそう切り返されて、俺は、思わず絶句した。

 ……なにを言い出すんだ、こいつは?

「俺はね、考え続けられる人間になりたいんですよ。べつに、かっこよく血生臭い事件を解決できる人間になりたいわけやないんです。でも、ほら、ミステリの名探偵のなかには、謎を解くことによって、被害者や、ときには犯人の、誰にも言えなかった叫びに耳を傾けたりするでしょう。ああいうのは、いいなって思います。語られなかったことを、なかったことにはしたくないし、誰かの、声になるまえに消えた言葉に俺は耳を傾けたい。そうする努力を、諦めたくない。もし、俺がそうありたいと思うことを、あなたが肯定してくれるんなら、俺は、すごく嬉しい」

 俺は、春川の言葉の意味を考える。

 それから、ゆっくりと口を開いた。

「……やっぱさあ、ダブルホームズにせえへん?」

「あー、『ノッキンオン・ロックドドア』みたいな」

 俺が思い浮かべたミステリのタイトルを、春川はあげてから続ける。

「いいっすね、俺、受験終わったら即バイトはじめて車の免許取ります。それでいつか空色のパオ買いますね」

「あれ生産終了してんねちゃうかったけ、よう知らんけど」

「俺も知らないです」

 まあなんでもいいです、とあっさり春川は引き下がる。

「いろんなとこ行きましょうよ。べつに車やなくてもいいですし。晃も誘って、いっぱい、遊びにいきましょう。あ、あと俺あれやりたいです、弾丸で蟹食いにいくやつ」

「ほな俺は海のある奈良に行きたい」

 決まりっすね、と笑うと、ふっと真面目な顔をして春川は俺の顔を覗きこんだ。

「一緒に卒業するんですよ」

 不意打ちのように放たれたその言葉が、胸をつく。急速に視界がにじんできて、俺は顔を伏せて膝を抱えた。なにか言おうと思ったけど、くぐもった嗚咽しか出てこない。

 相槌も打たない俺にかまわず、春川は隣で話し続ける。

 卒業したあとの話を。

 ここを出た、そのさきの──未来の話を。

 不確かで、ぐちゃぐちゃで、理不尽で、ままならない、そんな、俺たちが生きる世界の未来の話。夜へ向かって吹く風は、容赦なく鋭くつめたい。だけど、俺はいま、寒いとは感じてない。だって、すぐそばにいる春川の声が、このうえなくあたたかくて、どこまでもやさしいから。静乃ちゃん、と、幼いころの呼び方で、姉のことを呼んでみる。

 そのとき時計塔から、鐘の音が響いてきた。下校の時刻を告げる鐘。俺はもうすぐ、立ち上がるだろう。そして、この場所を出て行く。短い秋が終われば、冬がくる。そして、やがて春が訪れる。卒業の日はきっと、そう遠くない。



 


 

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