Milestone
少しずつ、でも確実に、陽は傾きだしていた。まだ暑さは厳しいけれど、もうやっぱり、夏とは違う。夜が近づく気配が、圧倒的にはやい。
「なんかさ、二時くらいまでは昼って感じなのに、三時過ぎると急に夕方っぽくなってくるよね」
「あーわかる」
日笠さんの言葉に頷いて、ふと立ち止まり、窓の向こうへ視線を向ける。
時計塔での軽音部のライブが終わって、高揚した気分を引きずったまま校舎へと戻った。みんななんとなく教室へ戻る気になれなかったところで、
「ほな、生物室くる? 適当に遊んでていいし、よかったら、今年の『メロディック・スパークル』のライブ配信でも見ようや。ちょうど、今日やってんねやろ」
段下部長からありがたい提案があったので、ぞろぞろと部室兼生物室へ向かった。いつもの現象部員である部長、春川先輩、僕に、一年F組メンバーの日笠さん、桐山に鳴海、高町さんと織部さんも加わったレア編成である。
かつてなく賑わう第二生物室で、春川先輩がどこからか持ち出してきたBluetooth対応のスピーカー(わりといいやつ)をタブレットに繋ぎ、いざライブ視聴が開始された。が、特別教室使用許可証の返却や領収証の提出など、諸々の雑事が残っていた学級委員組──僕と日笠さんは、いったん退出となったのだった。
細々した用事を無事に終えて、いま、ようやっと晴れて自由の身となったところである。
「あー、なんかめっちゃ喉乾いた。わたし自販機よってくから、緒方、さきに戻ってていいよ」
「いや、僕も飲み物欲しいから一緒に行くわ」
昇降口を抜けて、食堂横に設置されている自動販売機へと向かう。このあたりは屋外だけれども、いつもなら、校内用のスリッパでそのまま出てきてしまうことが多い。ただ、今日は、日笠さんがスリッパからスニーカーに履きかえたので、僕もそれにならうことにした。
それぞれパック飲料(缶やペットボトルより安い)をすすりながら、なんともなしに、あたりを見まわす。外で行われていた模擬店も撤収されていき、外部の一般客は校門へと向かう。
お祭りは、もう、終わりなのだ。
いま、僕も日笠さんも、おそろいのクラスTシャツを着ている。高町さんデザインの、クラス全員の名前が背面にプリントされたTシャツの裾を引っ張りながら、思う。今日を過ぎたら、これを着る機会は、あるのだろうか。
「あ、ボール残ってる」
「え?」
飲み終えたパック容器をゴミ箱に放りこんだ直後に、日笠さんが小グラウンドを指してそう言った。メインのグラウンドではなく、屋外用のバスケットコートがあるその名のとおりちいさなサブグラウンドは、この場所からよく見える。
そちらを見やると、サッカーボールが転がっていた。たしか、小グラウンドで、キックターゲットやストラックアウトをやっていたクラスがあったはず。そのクラスの忘れ物だろうか。
おそらくサッカー部の誰かが部のものを借りているんだろう。あとで桐山に伝えとくか、と思ったところで、日笠さんがそちらに向かって駆け出した。
「え、なにしてんの」
「んー、ひさびさにボール蹴りたいなって」
そう言うやいなや、日笠さんは器用に右足でボールをすくい上げた。ぽん、と空中に蹴り上げ、そのままリフティングを続ける。なんというか、
「めっちゃうまいな」
「うん。わたし、中学上がるまでクラブチーム入ってたもん」
「え、そうんなん?」
「そうだよ。男子に混じってやってた」
僕と話しながらも、日笠さんはリフティングを止めない。レッグオーバーまで披露してくれた。つうか、まじでめちゃくちゃうまい。
制服に着替えてないでよかったー、と、日笠さんはいちどボールを止めて笑った。
「日笠さんは」
「ん?」
「なんで、サッカーやめたん?」
再び、日笠さんはボールを蹴り上げた。空中に、ボールが跳ねる。なんなくそれを膝で受け止め、リズムよく上げ続ける。
「わたし、転校多かったんだよね」
「うん」
「女子のサッカー部って、あるとこ少ないし。とくに、公立だったらさ。最近、男子でも、人数減ってて廃部になってるとことかあるらしいしね。小学生までだったら、練習なら男子に混ざれるけど、中学の部活じゃなかなかそうもいかないでしょ」
相槌はうたない。というか、うてなかった。僕にかまわず、日笠さんは続ける。
「もっと、本気だったら、クラブチーム入るとか、私立の女子部あるとこ行くとかできるけどさ。……でも、緒方、経験者だったらわかるでしょ。わたし、そこまでうまくはないんだよ」
日笠さんの脚からボールがこぼれ、バウンドしてこちらに転がってくる。
僕はそれを、受け止める。
「もしかしたら、続けてたらうまくなったかもって、考えなかったわけじゃないけど。それでも、続けたいって、親に言えるほどじゃなかった。そもそも、父親が転勤先選べないのに、わたしが転校先選べるわけないし。……でも、中学入って、すぐ、学校は休校になって、入部したバドミントン部もぜんぜん活動できなくて、そのとき、これでよかったのかもって思った。親に無理言って続けてたって、どうせできなくなってたんだって」
それきり、日笠さんの言葉は続かなかった。
僕は、ボールをすくい上げてから、日笠さんに向かって蹴る。
それから、口を開いた。
「軽音部のライブさ、たのしかったけど、なんか、ずっと、もやもやしてて」
なんて言おうか、どう言おうか、考えながら、続ける。
「なんでやろって考えてて……いま、やっと、わかったかも。たぶん、羨ましかったんやと思う。なんかに本気になってんの。はじまる前のさ、ドラム鳴ったときの空気が、試合の直前みたいで、懐かしくて、でも、懐かしいって思うくらい遠かったんが、悔しかった」
途切れ途切れの、筋道立ってるとはいえない僕の言葉を、日笠さんは黙って聞いていた。
日笠さんに、わかるよ、とは言えない。それは言えないけど、自分で納得したと思っていたはずのことに対する後悔とか、そういうことだったら、僕にも、少しわかるかもしれなかった。きっと、日笠さんのそれとは比べものにならないんだろうけど。だって、環境的には、僕のほうが、ずっと恵まれてた。
「ねえ」
しばらくしてから、日笠さんは、きっぱりとした明るい声で言った。
「勝負しよう」
「勝負?」
「うん、一対一。昔、練習でやらなかった? キーパーなし、ゴールの代わりにあそこのラインの向こうに蹴りこめれば勝ち」
僕の返事を待たず、日笠さんは、指差して示す。バスケットコートのエンドラインの一部を、ゴール代わりに設定する。それから、ボールをセンターラインに置く。ボールを挟んで、僕たちは向き合う。
すると、不思議なくらい、迷いがなくなった。
ひさしぶりだな、と思った。
懐かしい、じゃなくて、ひさしぶりの、馴染みのある高揚感。
単純な筋肉量なら僕のほうがあるだろうけど、こちらは慢性的な睡眠不足に運動不足、おまけに食事も適当なので体重もない。高校に入ってからもずっと運動を続けてる日笠さんのほうが、よっぽど体力があるだろう。そもそも、サッカーにフィジカルが大事なのは間違いないけど、でもそれだけで勝負が決まるわけでもない。
日笠さんが動いたのを捉えた瞬間、僕も地面を蹴る。
たぶん、僕はいまちょっと、笑ってる。
そうだ、べつに、役に立たないことでも、意味のないことでも、本気で戦うのって、ボールを蹴ることって、たのしいんだった。ずっと忘れていた感覚。ひさしぶりに、それを思い出す。
「つ、疲れた……」
「わたしも……」
何度か攻守を変えてボールを奪い合ったところ、余裕で汗だくになったし、ズボンの裾は砂まみれになった。せっかくのクラスTシャツも。
「なんでやろ、飲み物買いにきたはずやのに……」
「なんかこう、テンションというか、闘志がぶち上がってたんだよね……軽音部につられて」
「それはわかる」
体力の限界とともにお互い冷静になったところで、飲み物を買い直した。これ、はじめからペットボトル買ってたほうが安くついたんじゃないか。まあいいや。
「けっこう時間経ってもうたな」
「うん、そろそろ教室戻んないと……これ、ボールどうしよっか」
「はしっこ置いといて、あとで桐山に伝えとこ。たぶんもとはサッカー部のやろ」
そのとき、校舎から僕の名前を叫ぶ声が聞こえた。ちょうど話題の、桐山の声。
出どころを探ると、1号館の四階──第二生物室あたりの廊下の窓から、桐山が顔を出しているのが見えた。桐山だけじゃない。鳴海も、段下部長も春川先輩も、そろって顔を出し、僕らを呼んでいた。さらに後ろには、高町さんと織部さんもいる。
「なにー? どうしたんー?」
せいいっぱい声を張り上げて怒鳴り返すと、すぐに大声が飛んでくる。
「ええから、はよこっち戻ってこい!」
急いで生物室に向かいつつ、スマホを確認すると、大量の通知がきていた。日笠さんも同じらしい。叫ぶ、という原始的な方法をとるよりまず文明の利器を使ってくれていたのに、僕らがまったく気づいていなかったのである。
……なんだろ、なんかやらかしたっけ?
首を傾げつつ生物室の悲鳴の上がる扉を開ける。階段を駆け上がったから、完全に息が切れていた。
「な、なに……?」
「こっちこっち!」
いつもより人口密度の高い生物室内に迎え入れられるやいなや、引っ張るようにして座らされた。
目の前のタブレットには、ライブ中継の様子が映っている。いうまでもない、暁築さんこと『薄明』を排出した十代限定ロックフェス『メロディック・スパークル』の配信だ。
「……は?」
僕は、タブレットの映像を見て、思わず固まった。
スピーカーからは、力強いドラムに歪んだギターの音が鳴っている。
その音に、桐山の声がかぶさり尋ねられる。
「なあ、いま演奏してんの、おまえの妹やない?」
「……うん、妹やわ」
そこには、ギターをかき鳴らす翼がいた。
やっぱそうやん、と高町さんたちが歓声をあげる。
「いや、出てきたときから、この子めっちゃ緒方に似てない? ってみんなで言ってて、途中でメンバー紹介あってんけど、鈴鹿って名乗ってたからもしかしたらって。訊こうと思ってスマホ鳴らしても全然出えへんし、探しに行こうとしたら、窓から見えたから」
桐山の説明のあいだも、メロディはスピーカーから絶えず鳴り響いていた。
「すげえな、ギターとドラムだけでこんな音出るんや」「なあ」春川先輩はしきりに感心している様子だった。部長も、隣で、おもしろそうに目を細めている。「ギターとドラムだけのバンドって、なんかありますっけ」「んー、『The White Stripes』とか? あ、『ストレイテナー』とか、結成したときそうやったはず」
暮れつつある秋空に吠える妹は、正直、だいぶ、かっこよかった。俯きがちだった顔をあげた妹と、画面越しに、視線が合った気がした。
演奏が終わると、一瞬の静寂ののちに、生物室内が拍手の音で満たされる。
「……なあ、さっきから気になっててんけど、おふたりはなんでそんな砂まみれなん?」
長く続いた拍手の雨が止んだころ、桐山に訝しげに尋ねられた。僕と日笠さんは、横目で視線をかわす。
「……文脈的には河原で殴り合い、みたいな?」「せやな……もしくは夕陽に向かって走るてきな」「あ、そっちかも」「は?」
困惑する桐山がおもしろくて、日笠さんと、声を上げて笑った。ふっと、だいじょうぶな気がする、と思った。なんの根拠もないけど。たぶん、僕は、だいじょうぶだし、妹もだいじょうぶ。だいじょうぶになるし、なってみせる。心地よい疲労が身体を満たしていた。今夜は、きっと、夢も見ず眠る。
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