夢の続き
夢を見ていた。
夢のなかで、僕は、何歳なのかわからないけど、でも、いまより、ずっと幼い子どもだった。だけど、なぜか、高校の敷地内にいて、ひとりぼっちで歩いていた。夢のなかだから、とくに不思議には思わなかった。
気がつくと、時計塔の前にいた。
幼い僕は、迷うことなく扉を開ける。内開きのドアって、逃げられへんよな。隣で誰かに、ささやかれた。べつにいいよ、逃げないから。拗ねるように、そう思う。
玄関ホールを抜けて、大階段へ向かう。背が低いから、一段一段が、高く感じる。それが、妙にリアルだった。二階までのぼると、息が上がった。
振り返って、一階を見下ろす。
そこにはやっぱり、誰もいない。
ちょっとだけ、さびしい、と思う。でも、気にしないことにして歩き出す。
吹き抜け部分をまわるように、ぐるりと歩く。
時計の機械室がある、塔屋部分の入り口に行き当たった。
こんこん、と扉を叩く。無音。返事はなにもない。
思いきって、ドアノブを握り、まわす。すると、扉はあっけなく開いた。
なかに入り込んで、扉を閉める。扉を背にして、膝を抱えるようにして座る。
見上げると、ずっと、上まで階段が続いていた。
機械室は最上部にあるのだろう。ここからじゃ、見えない。規則的な音が、聴こえるだけ。
澄んだ、ひやりとつめたい空気。
ここだったら、よく眠れそうだな、と思いつく。
このまま眠ってしまったら、どうなるだろう。
誰か、気づいてくれるかな。
「……あれ」
夢を見ていた気がするけれど、内容はすぐに逃げていった。
以前によく見た、首が落ちる夢じゃないことだけは、確かだった。
嫌な夢、ではなく、どちらかといえば心地よい夢だった気がする。けど、同時に、怖い夢だった気もしていた。
それでここは、どこだっけ。
家じゃない。でも、馴染みの深い場所。
「お、おはよう、起きた?」
その声が聞こえているんだから起きている、起きているはずだ、と思う。
答えないでぼんやりしていると、声の主が近づいて来た。
「晃、ほんまに大丈夫か? なんか顔色めっちゃ悪いで」
焦ったような声に、急速に意識を引き戻される。春川先輩だ。続いてあたりを見回すと、いつもの部室、第二生物室の準備室だった。
周囲の人間が焦れば焦るほど、なぜか自分は冷静になっていくのって、どういうメカニズムなんだろう。
ポケットからスマホを取り出して、時刻を確認する。
九月十五日、金曜日、午後一時五十八分。五限目のまっただなかなので、本来は教室にいなきゃいけない。
「春川先輩、めずらしいですね。授業サボってるの」
僕がそう言うと、あー言われてみればひさしぶりかも、と先輩はつぶやいた。
「いま体育やねんけどさあ、もうどうしてもやる気出んくて。お暇させてもらいました」
ときどき授業をサボって昼寝をしたり本を読んだりしているのは、主に段下部長と僕で、春川先輩は、授業中にここへ顔を出すことは、ほとんどない。だけど、さっきの言い方からすると、それは僕が入部してからの話で、以前は、授業をサボって部室で過ごす頻度が高かったのかもしれなかった。
教室でドローンを飛ばして、よっぴーからこっぴどく怒られてから一週間。
あれからとくに、『差出人』の件や、三年前の文化祭の件についての進捗はない。
柚木さんに、手紙を置かれた日のことをもういちど訊こうかと思っていたのだけど、あらためて確認する、となると、いまいち切り出し方に悩み、聞けずじまいであった。同じクラスなので、もちろん話す機会はあるんだけど。
三年前の文化祭の件については、情報の追加がなくどうしようもない。
「部長は?」
「太一さんは、体育得意やからな。たのしんではるわ」
そういえば、そういうひとだった。かなり運動ができるひとだし、そもそも、もともとは、身体を動かすことが好きなひとなのだ。
このあいだの、アイスをみんなで食べた日に聞いたのだけど、段下部長が空手をやめたきっかけは、肺気胸だったらしい。もう治療は終わっているそうで、ドクターストップがかかっている、とかいうわけでもないそうだ。
ただ、入院して、退院して、そのあと、しばらくしてから退部した。
──怖くなったから。
なにが、とまで具体的には部長は語らなかったけど、でも、僕も、あえて尋ねはしなかった。
「文化祭の準備、進んでる?」
「あー、はい。みんなわりと真面目にやるし、なんとかなりそうです」
「そりゃよかった。クラスの温度感違ったら地獄やからなー」
そう言ってから、春川先輩はちいさなあくびをした。それから、手元の本に視線を落とす。カバーがかかっているのでタイトルは見えなかった。
「春川先輩って、受験するんですよね」
「ん? するで。推薦はぜったい無理やから、ふつうに一般狙い」
まあ、なんだかんだそこそこ授業のサボり頻度高いからな。そうなるだろう。
「どこ受験するんですか?」
「んー、たぶん千葉」
ということは、とうぜん下宿になるんだろうな。
「たまには帰ってくるし、遊んだるから安心してええで」
「べつになんも言うてませんよ、僕」
ちょっと見透かされたみたいで、気まずかった。
春川先輩は、中学までは、中高一貫の私立校に通っていたらしい。かなり有名な男子校の進学校。どうして高校から祥楓高校に転入することになったのかは、知らない。そのあたりは、あんまり話そうとしないので、僕も訊かない。反対に、春川先輩たちも、僕が、うまく眠れなかったりすることは知っているけれど、突っ込んだ事情を尋ねてはこない。ただ、話せば、きっと真剣に聞いてくれるんだろうな、という感じはする。
ソファに寝転がっていた状態から、起き上がる。少しだけ、目が眩んだ。
立ち上がって、のびをする。
「六限は、教室戻んの?」
春川先輩の答えに、僕は頷く。
「ほんまは古典やったんですけど、先生休みやから自習なんですよ。で、文化祭準備の時間にあてていいって担任が」
「それで、学級委員やから戻る、と」
「いちおう、ですけどね」
外していたマスクを引っ掴むと、再び装着する。あんまりこれみよがしに教室であくびをするのは気が引けるけど、その点、マスクをしていると誤魔化しやすい。
ふとキャビネットのほうを見ると、かき氷機と電子レンジと、二枚のCDが目についた。
ただ、もう一枚が見つからない。
CDは三枚あったはずだ。
「春川先輩、CD持って帰ったんですか?」
「え? あの苑が配ってたってやつ? ……持って帰ってないけど。ないん?」
「二枚はあるんですけど、一枚ないんですよ。たしか、三枚ありましたよね」
「そうやな、苑、ここの部員の人数分くれたっぽいから。太一さんが持って帰ったんちゃう?」
そんな話をしていると、扉の軋む音がした。続いて、準備室の扉が開く。
「お、俺の話でもしてた?」
「べつに、太一さんメインの話してたわけちゃいますけどね。あの、CD、知りません? 苑にもらったやつ。一枚ないんですよ」
「倉田さんにあげた。卒業生の歌聴きたいって言いはったから」
準備室に体操服で現れた部長は、あっつと言いながら首元をぱたぱたと扇ぐ。
「あーなるほど。てか、もう体育終わったんですか? じゃあ教室戻ろうかな」
「ちょい待ってや、一緒に戻ろうや」
部長がそう言いながら上着を脱ぐ。
「いいですけど、なんでここで着替えるんですか」
「制服ここに置いてんねんから、しゃあないやん。昼休み、だらけとったら更衣室行く時間なくなったから、ここで着替えて体育直行やってん」
べつにひとの着替えをじろじろ見るつもりはなかったのだが、体操着のズボンの名前刺繍が、二文字ではなく三文字だったように見えたのが気になった。部長の名字は『段下』だから、二文字。もしかしたら、ズボンだけ忘れて誰かに借りたのかもしれない。朝比奈先輩とか。祥楓高校は、校内で履くスリッパは学年別に色が分かれているものの、他のものは基本的に学年共通なので、他学年に体操服やジャージを借りても、目立たない。僕も、一度春川先輩に体操服を借りたことがある。全然サイズが合わなかったが。春川先輩は身長が高い。
……あれ、でも、そういや朝比奈先輩と部長たちって、同じクラスじゃなかったか。そうだとしたら、借りられないよな、本人が着るんだから。じゃあ、違うクラスなのか。いや、そうじゃなくて、べつに三文字の名字のひとなんて、朝比奈先輩以外にもいるだろう。多少めずらしいというだけで。
「あ、春川、そのへんに時計置いてない?」
「ありますよ」
春川先輩が、机の上に置かれていた部長の時計を手渡す。体育のときは外していたのだろう。スマートウォッチ──ウェアラブル端末っていうんだっけ、スマホと連動してるやつ。通知の確認や、音楽の再生なんかもできて便利だけど、情報端末になるからテスト時には外さなきゃいけないのがネック。
そうこうしているうちに、五限を終えるチャイムが響いた。
立ち上がり、部長と春川先輩に続いて部室を出る。
ホームルームは、問題なく終わった。
文化祭までは、あと一週間と少し。
日曜日開催で、金曜日の午後の時間は準備にあてられる。土曜日は、いちおう自由登校だけど、おそらくほとんどみんな学校に集まる。今日のホームルームは、みんなで小道具や飾りづくりを進めた。
桐山からメッセージが届いたのは、帰宅後、だらだらとスマホで動画を見ていたときのこと。
『あしたひま?』とだけあった。暇なので、暇、と即レスすると、飯かカラオケか行こや、と返ってきた。
『ジュリエット先輩、誰かわかったから』
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