またとないチャンス
「あー、どうしよ、わたしこういうの苦手なんだよー」
そう言いながら、日笠さんが、シャープペンシルのノックするほうの部分をこめかみに押し付けていた。
九月八日、金曜日。放課後、四時半の一年F組。教室に残っているのは、僕と日笠さんだけだった。
ふたりで机を挟んで向かい合ったような配置。僕も、日笠さんの視線が示すところを追う。そこにあるのは一枚の紙。
文化祭のパンフレットに掲載する、クラス出し物案内ページの原稿提出期限が今日だったのを、すっかり忘れていたのだ。僕も、日笠さんも。
ノートの片面三分の一くらいのサイズ、短冊状の原稿を埋めるのに、日笠さんも僕も頭を悩ませていた。
ただ文章を連ねるだけなら、なんとかかたちにはなるのだが、だいたい、こういったものは、挿絵を入れたり、フォントを凝ったりして、見目華やかにするものである。
そしてその方面の才能が、一年F組の学級委員ふたりには絶望的に欠けている、という話だった。
もちろん、クラスには、イラストや絵が得意なひとがいる。そのひとたちに頼めばよかったのだけど、原稿提出期限が今日の午後五時半であることに気がついたのがついさっきなので、しかたがない。
昨日のホームルームで、文化祭におけるおおよその役割分担が決まった。受付、配置、当日のタイムスケジュールその他もろもろ。文化祭当日は、二週間後の日曜日。
劇など凝ったものをするクラスは、夏休み中から準備しているクラスなどもあるらしい。主に二年生と、三年生の一部クラスだ。クラスの出し物は、原則、夏休み明けの一週目のホームルームで案を出し、実行委員の承認を得て決定、という流れになっているけれど、上級生クラスは、夏休み前に実質決まっていることがほとんどだったりする。僕らみたいな一年クラスは、上級生クラスと被らないものを夏休み明けになんとか絞り出す、というのが暗黙の了解になっている。学校というのは、明文化されていないルールの多い場所なのだ。世界的に流行った感染症予防のため、いっとき文化祭は縮小傾向だったけど、そのあたりは変わらず引き継がれている。
そういうわけで、例年、文化祭の出し物に熱が入るのは、ほとんどが二年生クラスだ。三年生の一部クラスでも凝ったものをやるところもあるけれど、全クラスではない。受験勉強に専念したい、というひとたちが多いクラスだと、出し物だけとりあえず決めておいて、いざ準備は一週間くらいでやっつけ仕事、みたいな感じになるそうだ。
で、いまの僕たちのクラスの現状はというと、昨日でひとまずおおよその役割決めや分担が決まり、今日は文化祭準備からはいったん離れて、部活やらバイトやらみんなそれぞれの放課後を満喫している様子、というわけだった。僕ら学級委員を除いては。
「日笠さん、部活あるやろ? 僕なんとか完成させとくで」
ここは俺にまかせて先に行け、という台詞を実際に使用できそうなまたとないシチュエーションであったが、残念ながらそこまでつよい言葉を使えるほど僕は自分の美術センスに自信を持っていない。
「ううん、今日は、自由参加の自主練だけだから大丈夫。ほとんどみんな出ないし。……それより、緒方って、芸術選択なんだっけ」
「音楽やな」
「つかぬことをお伺いしますが、中学のとき、美術の評定なんだった?」
「……二」
「あ、そう……ところで、さっきから描いてる、それはなに?」
「え? 決まってるやん、チェシャ猫」
「……人面ミミズかと思った」
「人面ミミズ!?」
日笠さん、意外と毒舌なのかもしれない。
まだ書道選択のわたしのほうがましかな、と唸る日笠さん。やっぱり、出し物決めホームルームのとき、司会をやってくれたのは、気遣いだったんだろうな、と思う。まあ、字がうまいひとでも、黒板に字を書くのが苦手ってひとはけっこういるからなんともいえないけど。なんでも、自分に関連づけて考えすぎる、自意識過剰はよくない。
僕だって、音楽選択のわりには、とくになにか楽器ができるわけでも、歌がうまいわけでもない。
母は昔からピアノをやっていたのだが、残念ながら、僕にその方面の才能は受け継がれなかった。そちらに秀でているのは妹で、気がつくと勝手にピアノを弾くようになっていた。小学五年生くらいのころからはギターに凝りだして、きちんと巧拙を評価できるわけではないけれど、それでもうまいんだろうな、というのはわかる。
僕も、音楽、聴くのは好きなんだけどな。
日笠さんは、ルーズリーフに下書きでデザイン案を描いていたが、「やっぱ無理……」と机に突っ伏した。
見てみると、達筆で『時計塔のアリス 一年F組脱出ゲーム』とあった。間違いなくきれいな字だけど、なんというか、ワンダーランド感はなく、出し物のイメージには、残念ながら合わないかも。なにか挿絵を描こうと試みた形跡もあったけど、諦めたのか黒く塗りつぶされていた。
「緒方の人面ミミズのが、いいかもしれない……」
「いやチェシャ猫やから。アリスにそんな要素ないから」
芋虫だったらいるけどな。
「あー、ひかりんに緒方やん、なにしてんのー?」
達筆の宣伝文句の隣に人面ミミズ、という違う世界観になりかけた下絵を前にふたりしてうなだれていたそのとき、教室の扉が開いて、なごやかな間伸びした声が届いた。顔を上げると、クラスメイトの高町さんが教室に入ってくるところだった。隣には、織部さんもいる。
ひかりんこと日笠さんも、顔を上げる。そして目を輝かせた。
「高町ちゃん、お願いがあるんだけど……!」
「お? どした?」
「これ、書くの手伝ってくれないかな」
そう言って、日笠さんは白紙の原稿用紙を高町さんに手渡した。ほう、と顎に片手をあてて紙を一瞥し、にっこり笑う高町さん。
「まかせとけ!」
かっこいいな、おい。
「説明文はだいたい考えてあるんやんな?」
「うん、そのへんは緒方が下書きつくってくれてる」
「見せて見せてー」
数Iのプリント裏に書いていた、下書きを見せる。これに描いてもええ? と訊かれたので頷くと、高町さんは、鞄からペンを取り出し、さらさらとラフスケッチというのか、絵や装飾された文字の案を迷う素振りもなく描いていく。すごい。
僕と日笠さん、そしてずっと黙っている織部さんと三人して、思わずその様子に見とれてしまった。
すっかり感心しきっていると、再び、扉の開く音が聞こえてくる。
「あ、よかった、絵梨花に緒方、やっぱ教室やったか」
どうやら日笠さんと僕をさがしていたらしい。扉のほうへと視線を向けると、柚木さんだった。柚木さんには、あの手紙が置かれた日のことをあらためて聞こうと思いつつ、なんやかんやタイミングをつかめず聞けずじまいだ。ギターケースを背負ったまま、こちらへと歩いてくる。
「おお、やっぱ高町ってほんま絵うまいなあ……あ、そうやなくて、ちょっと絵梨花と緒方にお願いというか、謝らなあかんことあるねんけど……いま時間いける?」
僕と日笠さんは、一瞬顔を見合わせてから頷いた。なんだろう?
本来は僕らの仕事であった案内原稿を、急に任せてしまった高町さんに申し訳ないな、と思ったけど、会話が聞こえていたのか、高町さんはシャープペンシルを握った右手と反対の左手親指を立て、気にするな! の意を示してくれた。やっぱりかっこいい。
「こうやって、文化祭の準備進めてるとこ、ほんまに申し訳ないんやけど……わたし、当日休もうと思ってるねん。ほんまにごめん!」
柚木さんはそう言うと、両手を合わせて頭を下げた。
「や、残念だけど、むしろ事前に話してくれて助かったよ」さらりとそう言った日笠さんの隣で、僕も頷く。「なんかあるの? 小道具係だったと思うけど、そっちも外そうか?」
「いや、休みたいのは当日だけやから、そっちはぜんぜん大丈夫。むしろ当日手伝えない分、準備は頑張るからなんでも言うて」
もともと、文化部のひとたちは、できるだけ部活を優先できるよう担当を振り分けている。むしろ、軽音部のほうが影響ないのだろうか。ステージに立たないにしても、一年は準備やら後片付けに追われるイメージだった。
「急に、ほんまにごめんな。実は、自分の用事というか、友だちの応援やねん」
そう言って、柚木さんはポケットから取り出したスマホの画面を見せてくれる。ものすごい速度で手を動かす高町さんを除いた、僕、日笠さん、それに織部さんで、画面をのぞきこんだ。
「……『メロディック・スパークル』?」
それまでずっと黙っていた織部さんが、画面に映った文字を読み上げる。
「そう、知ってる?」
僕と日笠さんは首を横に振ったけど、織部さんだけが頷いた。どことなく、テンションが上がっているように見える。
「友だち、出場するん?」
「そうやねん、引っ越しした中学の友だちやねんけど、昨日連絡きてさあ。そっち行くことなった言うから、旅行か思うたらびっくりやで」
首をかたむけている僕らに向けて、柚木さんが説明してくれる。
「ごめん、つい盛り上がってもうた……これ、関西のラジオ局が主催の十代限定で出場できるフェスやねんけど、中学の友だちが出演決まってん。それで、文化祭と日にち被ってんねんけど、でも、応援行きたくて」
「えー、すごいやん。それ、あれやろ、軽音の先輩も何年か前グランプリ獲ったんちゃうかった?」
高町さんが、顔を上げて反応する。続けて、できたでーと笑って原稿用紙を両手で掲げて見せてくれた。『時計塔のアリス 一年F組脱出ゲーム』という文字が洒落たフォントで踊っており、周囲にシンプルだが可愛らしい、ウサギや時計塔の絵が描かれている。
おおー、とみんなで盛大な拍手。それから、僕と日笠さんは合掌し頭を下げる。感謝!
「そうそう、高町の言うとおり、それきっかけでメジャーデビューしたんよ」
「な、
バンド名、か、アーティスト名、を高町さんがあげて問うと、うん、と柚木さんが顔をほころばせた。
「おりりん、めっちゃ好きよな」
高町さんの言葉に、こくりと織部さんが頷く。インディーズゲームの主題歌を担当していたそうで、それをきっかけによく聴くようになったらしい。
CDも最近出たんよ、と柚木さんは言いつつ、ギターケースを下ろし、トートバッグからCDを取り出す。
よく見ると、いやよく見なくても、それは第二生物室準備室にあったものと同じだった。
「そのCD、部室にあるわ。朝比奈先輩にもらった」
思わず僕が言うと、「苑さん、いろんなひとに配りまくってるからなー」と柚木さんは笑った。うん、三枚あった、と言うとさらに柚木さんは笑った。
「文化祭までにできるだけ広めようとしてはるからな」
「そうなん?」
カバーバンドをやるんだろうか。たしかに、観客側が曲を知ってるほうが盛り上がる気がする。
「うん、てか織部、『薄明』好きやったらぜったい文化祭の軽音ライブ来てほしい……あ、ちゃうわ、いまその話やなくて」
少し落ち着いたトーンになって、柚木さんは続けて言う。
「このフェス出演したからって確実にデビューできるとか、そういうわけやないけど……でも、中学のころから友だち頑張ってたん知ってるし、晴れ舞台やし、やっぱ観に行きたいなって。ごめんな、みんなこうやって文化祭に向けてやってんのに、自分が出演するわけでもないのに抜けてもうて」
「ええやん、こっちはぜんぜん人手足りてるし、そんな気にせんで大丈夫やで」
うんうん、と日笠さんも僕の前で頷く。ありがとう、と言ってほっとしたように柚木さんは笑った。ほんとに、そんなに気にしなくてもいいのに。
「日笠さん、自主練行ってきたら? 提出は僕がしとくし」
続けて音楽談義がかわされ盛り上がるなかで、日笠さんに耳打ちすると、日笠さんはぱっと目を輝かせた。
「いいの? ごめんね、まかせちゃって」
「ううん、ぜんぜん。むしろこっちこそごめん、もうちょいはよ気づいて取りかかっといたらよかったな」
いやいやそれはわたしもだから、でもありがと、と手刀をきる日笠さんを見送り、僕はあらためて高町さんにお礼を言う。
「高町さん、ありがとうな。まじで助かった、僕らだけやと違う世界観の詐欺案内になるとこやった」
「ぜーんぜん! もっと頼ってくれてええんやで」
帰宅部やし暇やからな! と高町さんは笑った。ごめんな手止めて、と手を合わせる柚木さんと、ポーカーフェイスの織部さんに手をふって、僕は提出先の社会科準備室へと向かう。文化祭担当の教師が社会科なので、準備室が実行委員の集まる部屋として臨時で割り振られているのだ。
小走りで廊下と階段を急ぐと、少し、息が上がりそうになる。まじで体力落ちたな、自分。
「すみません、提出ぎりぎりになって」
「まったく問題なし、やっぱ一年生は偉いなあ」
実行委員の二年生に謝りつつ原稿用紙を手渡すと、満面の笑みで受け取ってもらえた。
どういうことだろうか、と疑問に思ったのが表情に出ていたのか、先輩は苦笑した。
「ぶっちゃけ、文化祭一週間前とかでも刷るのは余裕で間に合うねん。ただ、ぜったい期限守らんクラスあるから、代々の教えではやめに設定してんのよ」
先輩方の読み通り、二年、三年のクラス分は半分程度しか集まっていないそうだった。
走ってきてくれたのに悪いな、ちょっと待ってて、と先輩は準備室内に引っ込んだかと思うと、すぐにお菓子をかかえて戻ってきた。
「はい、期限守ったご褒美。甘いのとしょっぱいのをあげよう」
「え、いいっすよ、べつに」
遠慮したが、いいからいいから、と手渡される。高町さんにお礼として渡せばいいか、と思い直し、ありがたく受け取ることにした。
「ありがとうございます」
「学級委員、負担大きくて大変やろけど、頑張ってな」
よい文化祭をー、と年の瀬の挨拶のように述べた先輩にお礼を言って、教室に戻る。
もうみんな帰っただろう、と思っていたら、高町さんと織部さんが残っているのが廊下の窓から見えた。
ちょうどいい、さっきもらったお菓子を渡そう、と教室に足を踏み入れたところで、僕は思わず固まってしまう。
「……え? なにそれ?」
「あ、緒方おかえりー」
教室内には、にこやかに手を振る高町さんと、なにかゲームのコントローラーのようなものを手にした織部さん。それと、謎の物体が、天井付近に浮遊していた。
これは、もしかして、というかもしかしなくても、
「ドローン?」
「正解ー! おりりん作、空撮ドローンやでー」
「は? これ、つくったん?」
科学部の活動でつくったものらしかった。
なにをしているのかというと、実験飛行プラス撮影機能で遊んでいるらしい。
「すごない? こんな感じで撮れんねん」
「すごい」
まじですごい。リアルタイムで映像を飛ばせるらしく、俯瞰の構図でピースサインを決める高町さんが、スマホに映し出されていた。
無言でコントローラーを握っている織部さんに、ふと思いついたことがあったので尋ねる。
「なあ、織部さん、ちょっと訊いてもいい?」
「……うん」
「ドローンってさ、小型のやつでも、軽いものくらいやったら運べたりするやんな?」
きょとん、と首を傾げた織部さんに、どう説明しようかと考える。
たとえば、紙一枚を──もっと具体的にはあの生物室に置かれていた手紙を、換気口や点検口かなにかから、運びいれることはできないだろうか?
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