日常と非日常
「それで、まあ、こんな調子」
できるだけセンチメンタルになりすぎないよう注意しつつ、日笠さんに、おおよその経緯を話す。言葉にしてしまえば、簡単だ。家庭不和、親の離婚、それに付随したと思われるストレスもろもろ。
「べつに、親離婚とか珍しい話ちゃうし、そこまで幼い年齢でもないんやし、自分でも、アホらしいこと引きずってんなーとは思ってんねんけど」
「そうかな。親しいひとが言い争いしてる場面にずっと居合わせなきゃいけないのってしんどいし、それに、自分で自分の生活に関わることコントロールできないのって、きついと思うよ」
横並びで正面を向いたまま、つまり、お互い視線を合わせないままで、会話を続ける。
「日笠さんって、転校多かったんやっけ」
「うん。おかげで、あらゆる土地にいったね。出身はいちおうこっち、関西ってか兵庫だけど、すぐ東京いって、それから静岡、愛知、岡山で、やっとここ大阪。お父さんの仕事の都合だったんだけど、テレワークとか普及して転勤制度なくなったらしいから、高校卒業までは、もう動かなくてよさそう」
「そうなんや」
「うん」
それは、僕なんかよりずっと、自分で自分の生活をコントロールできない環境だったんだろうな。自分の意思でなく、引っ越しを繰り返していたんだから。
「ま、慣れると移動多いのも、それはそれで楽だったよ。それより、緒方と、妹さんのほうが、時期的に大変だったんじゃない? 中三と中一の秋とかなんでしょ、引っ越したの」
「あー、うん、でも、僕は意外とそんな影響なかったから。隣の市に引っ越しただけで通える範囲やから、転校もせんかったしな。朝とか遅刻しかけたら、おとんが車で送ってくれたし」
そう、これも、僕はよかった。
バス通学になり、通学時間は多少長くなったが、もともと学区の外れで徒歩三十分以上かけて通っていたし、父親が責任を感じていたらしく遅れそうになったら必ず車で送ってくれたから、むしろ楽なくらいだった。
それに、僕としては、初夏の引退試合まで現行の中学にいられたら、あとはもうどうでもいい、と思っていたところもあった。
「やから、僕はほんまに、べつによかってんけど。妹のほうが、ちょっと」
結果としては、よかった、といえば、よかったのだけど。
「翼──あ、妹の名前、翼っていうねん。僕は公立中学いってんけど、翼はさ、中学受験してんな」
「そうだったんだ?」
「うん。母親は、僕にも受験すすめたんやけど、塾通ったらサッカークラブいけんくなるから嫌って拒否って、そのまま受験せんかった。……で、妹は、小四から塾いって、兵庫のけっこうええとこ受かって、でも、あんま馴染めんかったみたいでさ」
「……えっと、それは、」
「成績は問題なかったらしい。具体的になにがあったんかは、本人、頑なに言おうとせんかったんけど、クラスで外されてたんは、間違いないみたい」
日笠さんが返答に悩んだのがわかったので、さきに言ってしまう。
だから、あのころ翼には、どこにも居場所がなかった。
部活の仮入部期間中に、クラスの子と、先輩と、なんらかの諍いがあった、らしい。で、五月の半ばごろには孤立するようになり、六月になるころには、足が竦んで教室に入れなくなった。
それ以来、登校はするものの、ほとんどを保健室か図書室(司書さんが常駐しているそうだ)で過ごし、しかし中学とはいえ私立なので、夏前には出席日数が問題になった。
「離婚決まって、おかんと妹は、おばあちゃんの家の近くに引っ越すことにしてんな。おんなじ大阪やねんけど、けっこう南のほうで、いまの学校通うんは通学時間だけでかなり無理あるから、自然と転校になった。転入試験もとくに苦労はなかったらしくて、いまは転校先の女子校で友達もできてたのしくやってるって」
「……そっか。いまは落ち着いてるならよかったけど、その、大変だったでしょ。妹さんも、緒方も」
日笠さんの言うとおりで、ちょうど、僕ら当時の鈴鹿家は最高潮に不穏な時期だったので、翼はきつかったと思う。
「……なんというか、親がさあ」
「うん?」
「離婚決まって引っ越しの準備進めてる途中で、『翼の転校のことも考えると、まあよかったよね』みたいなこと言い出してさあ」
「うわあ……あ、いや、ごめん、その、ご両親のこと悪く言うつもりはないんだけど」
「ぜんぜんええよ、僕もそれ聞いてふつうにキレたから」
わりと、本気で怒った。
たしかに結果としてはそうかもしれんけど、あんたたちが揉めてるせいで翼がどんだけストレス溜めてたかわかってんのか? それをよかったとか言うんはちゃうくないか? みたいな。
「でもこう、あんまり、キレる緒方って想像つかないな」
「そう? 僕、けっこう短気やで。このまえも、鳴海とチェス対将棋やってボロ負けしてキレたし」
「え……? それはどういう遊び……?」
とった駒使えるなら将棋側が強すぎない? と日笠さんが困惑に陥っていたところ、急に、電車が大きく揺れて、止まった。
駅ではなく、線路の途中。すぐに、アナウンスが聞こえてくる。前方の駅で電車がお客様に接触しました、現在線路の状況を確認しております、繰り返します……。
思わず、顔を見合わせた。しばらくは、車内に閉じ込められることになりそうだ。
「とつぜんだけど、緒方さ、ミステリとかわりと読むほうなんだよね」
「有名どころとか流行ってるやつちょくちょく読む、くらいやけどな」
高校に入って、一緒に過ごすことの多い部長や春川先輩がよく読んでるので、僕も読むようになった、という程度の初心者だ。
あのふたりがいる分には、ミステリ研究会に部の名前を変更しても、なんら差し支えないように思う。
そういえば、いつだったか、段下部長に、ミステリのどこが好きなのか、と訊いたとき、こんな答えが返ってきた。
──ちゃんと、理屈が通るから。
現実と違って、と付け足された部長の声が、聞こえるか聞こえないかくらいの、ちいさな声だったのが、妙に印象に残っていた。
「ほら、日常の謎、ってあるじゃん。ひとが死なないミステリ」
放たれた日笠さんの台詞に回想から引き戻され、僕は頷く。
「あるな」
「ひとって、日常で死ぬよね」
「……ひとが死ぬか死なへんか、が日常の謎ミステリか否かの決定打、ってわけではないらしいで」
そうなんだ、と日笠さんは興味深げに頷く。
なんとなく、言いたかったことはわかる気はする。
さきほどの車掌アナウンス。動かない電車のなかで、考えてしまう。
「現象部って、普段、なにしてるの?」
しばらくの沈黙ののち、動く気配のなさそうな車内での退屈を埋めるように、日笠さんが僕に尋ねる。
「とくに、なんもしてない」
言葉通り、ほんとうに、とくになにもしていない。
そういう部活だから、入部した。
小学二年生のころからやっていたサッカーを続ける、という選択肢は、高校入学時点でほぼ消えていた。寝不足の無茶な生活がたたって、目に見えて体力がなくなっていたし、それになにより、気力のようなものが、自分のなかのどこにも見当たらなくなっていた。おとなしく帰宅部生活をして、体調が改善すれば、バイトでもしようかな、と考えていた。
夜にうまく眠ることができない日々が続いている、といっても、まったく眠っていないわけではない。ただ、うまくコントロールができない、という話で、昼間に急激な眠気におそわれることがある。困ったことに。
五月の連休明け、段下部長とはじめて出会ったあの日もそうだった。
その日、僕は、1号館と2号館の間に位置する中庭の片隅で、昼寝を決めこんでいた。
午後一時半、本来なら五限がはじまったばかり、といった時間。この日の数Ⅰの担当教師は居眠りに非常に厳しく、意識を飛ばそうものなら烈火のごとく怒られるので(とうぜん寝てる方が悪いことは承知している)、もういっそサボった方がましなのではないか、という結論に至ったゆえのことだった。
近年は春と秋がすっかり追いやられ、五月といえど殺人的な暑さになることが多いが、この日は、めずらしく、涼しい風の吹く心地よい日だった。
とはいっても、気持ちよく眠れるわけではない。短い、閃光のような眠りが、断続的に訪れるだけだ。あ、いま、意識飛んだな、みたいな。体感としては、眠った、というより、気絶していた、に近い。
とはいえ、瞬間的にだけど深い眠りについていることは間違いないし、そういう状態のときには、よっぽどの外部刺激がなければ起きることはなかったりする。
ポケットから半分飛び出していた財布をすられたくらいじゃ、気づかない。
中庭でアホのような寝顔で財布を見せびらかしていた僕は、いいカモだっただろう。おなじように授業をサボっていた二年生に、見事に、財布を盗られかけた。
そう、未遂で済んだ。
僕にとっては幸運で、その二年生の先輩にとっては不運なことに、段下部長も授業をサボっていたためである。
僕の財布が盗られようとしていたまさにその瞬間、部長は第二生物室にいた。こもっていた空気の換気をしようと、中庭に面した窓を開けたところだった。四階からといえど、中庭の様子を眺めるにはうってつけの場所。おまけに、部長はめちゃくちゃ視力がいい(らしい)。
そこからは、ほんとうに、冗談みたいな話である。
まず、第二生物室は1号館の四階に位置する。僕らのいた場所へたどり着くには、とうぜん、一階まで階段を降り、中庭に通じる地上の渡り廊下へ出る、というルートが一般的であるが、あろうことか、部長は二階までおりてくると渡り廊下からの窓から飛び降りるという暴挙に出た。たしかに、そのほうがはやいのは間違いないが。
無傷で着地したものの、それなりの音が響いて、僕はそこでようやく目を醒ました。あとから桐山や鳴海に聞いたところ、二階の教室まで音が聞こえたので気になってた、とのことだった。
ともあれ、目を醒ました僕が目にしたのは、僕の財布片手に硬直している二年生と、その二年生に寸止めの上段回し蹴りをかました段下部長の姿だった。
財布を盗ろうとした二年生も、なにも、常習犯というわけではなく、あまりにも無防備にさらされた僕の財布を見てつい魔が差した、いわば出来心から、といった調子だったので、先生や親に報告もせず、その場で財布を返してもらい示談となった。以来、その二年生とは、校内ですれ違うとなぜか会釈をしあうような間柄となった。平和なものである。
——寝るんやったら、もっとええ場所あるで。
そう言って笑った段下部長に連れられて、僕は第二生物室へと足を踏み入れ、そして春川先輩と出会い、次の日には入部届を出した。
「休憩所みたいな場所やねん、たぶん」
うまい言葉が見つからず、そう説明する。にぎやかな学校において、少し、沈んだ場所。気を張らなくてもいいところ。頑張らなくてもいいところ。
段下部長は、もともとは空手部だったけど、怪我か病気をしたあと学校を休みがちになっていて、そんなときに、僕みたいな、ちょっとしたきっかけで、現象部に入ることになったそうだった。春川先輩も似たような理由らしい。
「あ、でも、春川先輩は、わりとまともに文化部っぽい活動してるかも」
「そうなの?」
「うん。あのひと、めっちゃ絵うまいねん。それで、植物好きやから、よう中庭の植物の観察日記みたいなんつけてはる」
「へえ、見てみたいな」
頼んだら見せてもらえると思うで、と付け足す。じゃあ今度お邪魔しよっかな。ぜひぜひ。絵とか好きなん? 描くのは苦手だけどで、見るのは好きだよ。
そんな会話をしているうちに、急に、眠たくなってきた。眠りは、猫とか、波に似ている。猫、飼ったことないから、想像だけど。気まぐれだったり、近づいたり、離れたり。
あいかわらず電車は動かない。時間だけが、過ぎる。陽が沈み、空が、橙、薄紫、薄い青色のマーブル模様。
少しずつ、視界が狭くなってくる。これ、ほんとに寝そうだな。
日笠さんの声も、眠たげで、途切れがちになってきていた。隣で、うつらうつらと、船を漕ぐ気配。
僕はもう、まぶたを閉じている。
そして、いつのまにか眠っていた。
気がつくと、さきに目を醒ましていたらしい日笠さんに、肩を叩いて起こされる。あれから一時間近く経って、ようやく電車が動いたようだった。
「じゃあ、わたし、駅ここだから」
「うん」
「また明日ね」
「うん、また明日」
電車を降り、ホームに立った日笠さんと、視線が合う。ちいさく手を振る。電車が動き出し、僕らの距離は離れていく。
ひさしぶりに、部室以外の場所での、おだやかといえる眠りだった。
嫌な夢も、見なかった。
少しクリアになった頭で、さっきまでの、日笠さんとの会話を思い返す。
両親のこと、妹のこと。
僕はたぶん、傷ついたことだとか、悲しかった、と感じた気持ちが、なかったことのようにされるのが嫌なのだ。
だから、あの、三年前の、文化祭のことが気にかかる。
なにも言わずに俯いていた妹と、ひょっとすると、我慢していた僕自身と、ジュリエット先輩の姿が、重なるから。
最寄り駅に電車が滑りこんだところで、立ち上がる。一瞬、目が眩んだ。
ふと、生物室に謎の手紙が置かれたことを話したときに、日笠さんが言ったことを思い出した。
——あの日いなくなった私をさがして、って、そう書いてあってん。
手紙の内容を説明したところ、日笠さんはこう返した。
——なんか、それ、どっかで、聞いたことあるフレーズのような気がするんだよなあ。
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