差出人不在の手紙

「ん、誰か来た?」

 春川先輩が、準備室の出入り口、教室側へ続くドアへ視線を向ける。

 我らが現象部の部員は、いま準備室内にいるこの三人のみ。活動内容が謎のこの部室に、ふだん客など来ないのだ。まさか、この時期に入部希望者でもないだろうし。

「どちら様ですー?」

 冗談めかして春川先輩が声を張り上げるも、返答はない。なんなら一切の音はなく、足音すらも響いてこない。

 しん、と静まった空気を破るように数秒後、再び悲鳴じみた音が聞こえた。どうやら、扉が閉められたらしい。

「は? まじで誰?」

 春川先輩が立ち上がるとほぼ同時に、部長も立ち上がる。教室へと向かうふたりに、僕も、一歩遅れてついていく。

 教室には、誰もいなかった。

 扉は、きっちりと閉まっている。

 そして、さっきと、来たときとなにも変わりないように見える光景。だけど次の瞬間、ある違和感を、僕の目は捉える。

 生物室の、黒くて大きな机。そのうちのひとつに、さっきまではなかったはずのものが置かれていた。

 ぽつん、と寂しげにひとつだけ置かれたビーカー。ビーカーは、ここ生物室にあっても、とくにおかしなものじゃない。ただし、戸棚にしまわれているはずのものを、いったい誰が持ち出したのか。

 さらに不思議だったのは、ビーカーの下に挟まれた一枚のちいさな紙。

 学生証よりひとまわりちいさいくらいの大きさの紙片だ。メモのような、メッセージカードのような──手紙のような。

「なんや、これ?」

 そう言いながら、春川先輩は左手を伸ばし、ビーカーの下に置かれた紙を抜き取る。

「なんか書いてあるんですか?」

 僕が尋ねると、先輩はこくりと頷き、文面が見えるように僕の方へと紙を向けてくれた。そこには、


 あの日いなくなった私をさがして

 

 その一文だけが、きれいな、整った字で書かれていた。



「……え、なんですか、これ?」

「さあ、俺もわからん」

 春川先輩は手の角度を変えて、部長にもその紙を見せる。部長は先輩の左手からそれを抜き取ると、ちいさな声で、書かれた文章を読み上げた。

「── あの日いなくなった私をさがして、か」

 いちおう確認やけど、と念を押してから部長は僕らに尋ねる。

「あっきー、最初にここ来たとき、こんな紙あった?」

「いや、なかったですね」

「春ちゃんはどう?」

「俺が来たときもなかったですね。いくら電子レンジ運ぶのに必死やったとはいえ、ふだん何もおいてない机の上にビーカーあったら気がつきます」

「やんなあ。俺がかき氷機運んで来たときも、なかったと思う」

 と、いうことは。

「さっき訪れた誰かが、これを置いて立ち去った」

 じゃあ。

「誰が、なんのために?」

 僕らの疑問を代表するように、春川先輩がそう投げかける。だけれど、誰も、答えを持っていない。

 しん、と静寂が部室に満ちる。だけれど、その静寂は、すぐによくとおる明るい声が飛びこんできたために破られた。

「失礼しまーす」

 ノックの音に続き、再び扉の軋む音が響く。

「どーもー……あれ、みなさんどうしたん、そんな幽霊でも見たみたいな顔して」

 静まり返った僕らの様子を怪しんだのか、おそるおそる、ヘッドフォンを首にかけた男子生徒が入ってくる。なんとなく顔に見覚えがある。たぶん先輩、三年生。ちらりと足元を見て確認すると、やっぱりそうだった。スリッパの色が、三年生を示す濃い青色。ちなみに、二年生は深緑で、僕ら一年は臙脂色。

「お、朝ちゃんやん、どしたん」

 段下部長が、僕にさきほどの紙を差し出しながら訊き返す。べつに隠すものでもないと思ったが、僕はそれをひとまず、ズボンのポケットにしまう。

 そういや、朝ちゃんって、聞き覚えがある呼び名だな。あ、あれか、さっき部長が話してた、先輩がメジャーデビューしたからってCD布教してた軽音部のひと。軽音楽部の部室は視聴覚室で、ここ生物室から階段と渡り廊下を挟んで隣にある。

「自分ら、先生から聞いてない? 今日廊下の定期清掃、消毒とワックスがけやから五時までに教室出ろって。僕も忘れとっていま出たとこやねんけど、もし、段下くんらも知らんと残ってんねやったら、声かけとこかなあ思ってん」

 ほら、倉田さん待ってくれてるし、と廊下を示す朝ちゃん先輩。

 部長、春川先輩、僕と三人で生物室から顔を出し、廊下を覗き見る。ポリッシャーと呼ばれる電動の清掃機械を持ち、穏やかな顔で微笑む用務員の倉田さんと視線が合った。

「すいませんー、すぐ帰りますー」

 部長の大声に、ゆっくりでいいよーと倉田さんが返す。いいひとすぎる。僕らは帰宅準備をはじめようと、準備室へ鞄を取りに行く。春川先輩が振り返って、朝ちゃん先輩に声をかける。

「ありがとな、その

「いーえ、どういたしまして」

 彼が手にしている体育館シューズの袋には、律儀に『朝比奈苑』とマジックでフルネームが書かれていた。朝ちゃん先輩は、朝比奈あさひな先輩というらしい。

 それぞれ荷物を手にし、クーラーと電気を消して廊下へ出る。

「あ、鍵ある?」

「僕持ってます」

 施錠を終えたところで、廊下を振り向く。朝比奈先輩は、片手で鍵をもてあそびつつ壁にもたれていた。一緒に昇降口へ向かうつもりなのだろう。

「そういやさ、朝ちゃんって、視聴覚室出てすぐ俺らに声かけてくれた?」

「ん? せやな、戸締りしてすぐ生物室来たけど、なんで?」

「いや、ちょっと気になることあって。誰か、廊下で見かけへんかった? それか、生物室から誰か出て行くとことか見てない?」

 部長の質問に、朝比奈先輩は不思議そうに首を傾げる。

「段下くんら以外にってことやんな……? 見てへんけど。でも、言うたみたいに、ほんまにさっきまで視聴覚室おったからな。ヘッドフォンして作業しとったから廊下の音とかもぜんぜん聞こえてへんかったし。自分らが残ってるんちゃうかって思ったたんも、戸締りして廊下出てから春川の声聞こえた気がしたからで……、あ、でも、ちょっと待って」

 朝比奈先輩は、すぐ隣の階段に向かって声を張り上げる。

「なあ、宮本みやもとと柚木、さっき視聴覚室出てから、ずっと、そこおったよな? 誰か通った?」

「えー? 誰も来てませんよ」

 朝比奈先輩の隣から階段を覗きこむ。踊り場にいたのは、軽音部の二年生らしきひと(宮本さんというらしい)と、同じクラスの柚木さんだった。柚木さんも、軽音部所属だ。ベース担当、と聞いたことがある。

 お、緒方やん、と柚木さんに手を振られたので、僕も振り返す。

「柚木さん、いつからそこおったん?」

「んー? 十分くらいかな? 苑さんがパソコン落とすん時間かかっとったから、さき出て待ってたんよ」

 僕が尋ねると、柚木さんからはそう返ってきた。

 なにかヘッドフォンをつけてパソコン作業をしていた朝比奈先輩を、柚木さんと宮本先輩は踊り場で待っていた、ということらしい。

 柚木さんたちがいるのは、四階と三階のあいだの踊り場だ。

「倉田さんは、ここ、いつから掃除してはったんですか?」

 僕が柚木さんに質問を終えたタイミングで、今度は春川先輩が倉田さんに質問を投げる。

「うーん、十五分前くらいかな。ただ、これ──ポリッシャー使ってるときは、足音とか話し声なんかしたとしても、ぜんぜん聞こえてなかっただろうけどね。それでも、隣を誰か通ったら、さすがに気がつくかな。僕が来てからは、廊下を通ったひとはいないよ」

 ふむ。

 だとすると、おかしな話になってしまう。

 謎の手紙——あれを手紙といっていいのかは微妙だがとりあえず手紙とする——を生物室へ置いた人物は、どこへ消えてしまったのか?

 軽音部の部室である視聴覚室は1号館の突き当たりにあり、渡り廊下と階段を挟んで隣に、僕らの部室である第二生物室がある。

 朝比奈先輩は、僕ら部員以外が第二生物室へ出入りするのを見ていない。

 視聴覚室と反対側には廊下が続いているが、こちらは倉田さんがおり、十五分ほど前から誰も通ったひとはいない、とのこと。そもそもワックスがけをしている廊下を歩けば足跡やら汚れがつくはずだが、そんな形跡も見当たらない。

 であれば、手紙を置いた『誰か』は、階段で他の階へ移動したのか?

 ところが、三階と四階のあいだの踊り場には、柚木さんたちがおり、こちらも誰も通っていないとの証言。校舎は四階建てで、この階段は屋上へ続くルートはなく、四階までで終わりだ。上へ続く道はない。

 となれば、渡り廊下で続く2号館へ向かった、と考えるのがとうぜんだと思うが、こちらは基本的に閉鎖されているのだ。三階までの渡り廊下は屋内でいつでも使用できるのだが、ここ四階の渡り廊下は、屋上のような造りになっており、危ないからということで鍵がかかっている。つまりは、ここを通って2号館へ行くこともできない。

 狐につままれたような、とは、なるほど、こういうことをいうのかもしれない。

「自分ら、ほんまさっきからどうしたん? なんか、誰かさがしてんの?」

 そう話す朝比奈先輩の声が、反響して聞こえた。


 あの日いなくなった私をさがして

 

 頭のなかに、さきほどの文面が浮かび上がる。

 ポケットに手を入れる。かさりと、ちいさな紙が指に触れる。


 誰が、なんのために、こんなものを残したのだろう?

 僕たちに、なにを伝えたいのだろう?


 ふと、いまは離れて住む妹の姿が浮かんだ。記憶のなかの彼女は、たいてい、俯いている。

 ときどき顔をあげたときの、わずかに開きかけた口を、すぐに、ぎゅっと引き結ぶ表情までを思い出した。

 ポケットのなかの紙の感触が、くしゃりと嫌な音を立てる。

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