職員室前廊下および階段

「思ったよりあっさり許可とれたね」

「な」

 職員室を出て、すぐの廊下。担任と文化祭実行委員、それぞれの署名入り特別教室使用許可証の紙をひらひらさせた日笠さんに、短い言葉で僕は頷く。

 放課後、四時半少し手前。陽は、徐々に傾きつつある。中途半端な、狭間の時間。

 あのあと——一年F組の文化祭出し物が謎解き脱出ゲームに決定し、なぜか、というか自分がぼんやりしているうちに引き受けていただけだが、シナリオ担当が僕になったそのあとのことだ。

 なんだかんだうちのクラスはまとまりがあって(あるほうだと思う)、かつわりと気のいいやつが多いので、シナリオ担当ひとりに企画を丸投げ、なんてことはなかった。コンセプトや場所の検討がなされ、結果、いつも使うホームルーム教室以外にも場所を拡大した大がかりなものにしよう、ということになり、じゃあどこを使用するか、ということで声が上がったのが、学校の片隅にひっそり佇む時計塔だった。

 時計塔。

 僕らの通う祥楓しょうふう高校──府立祥楓高等学校は、けっこう歴史があって、創立は戦前、はっきりとは忘れたけど一九三〇年代だ。もともとは女子校で、戦後の学制改革に伴い共学へ。といっても、いま僕らが主に使用している校舎や体育館はほぼすべて建て替えされているので、そんなに歴史があるようには見えない。

 それでも、ところどころ、部分的にではあるけれど、たとえば、煉瓦造りの塀だったり、洒落た門扉だったり、創設当時ものが残されていたりもする。改修はされてはいるものの、時計塔もそのひとつだ。

 時計塔、といって、みなさんわかるものなのだろうか。

 僕はこの高校に入学するまで、あまり馴染みのない名称だった。まあ、ようは、時計を高い位置に設置した塔みたいな形状の建造物のこと。学校だと、校舎の一部、というか上部に設置されていることが多いみたいだけど、ここ祥楓高等学校の時計塔の珍しいところというのが、時計塔が校舎とは別の独立した建物にある、というところである。

 僕らは、その建物のことを時計塔、と呼んでいるが、正式名称は、祥楓記念会館、であるらしい。講堂兼同窓会館として建設された。ただし、ホール部分はせいぜいひとクラスの人数がぎりぎり収容できる程度の広さでしかないので、全体集会などで使われることはまずない。そして、不運なことにとでもいえばいいのか、校舎移築の関係上、現在は敷地の片隅それも職員駐車場の近くに位置することになったため、祥楓記念館ないし時計塔は、あまり生徒の訪れる機会のない、なんともうら寂しいランドマークになってしまったのだった。ランドマークといっていいのかそれは?

 まあ、そんなに人気のない場所ゆえに、僕ら一年があっさり使用権を取れたのだから、いいんだけど。

「後半の部で軽音部が使うらしいし、あんまり凝った装飾とかはできなさそうだけどねー」と日笠さん。

「あれ、そうなん? 軽音部ってたしか、視聴覚室使うんちゃうかったっけ?」

「メインは視聴覚室だけど、ほら、いま軽音部大所帯じゃん。枠足りないから一部のバンドが時計塔使うんだって」

 ああ、なるほど。

 軽音部のメインステージは、例年視聴覚室で、というのも最近は使用する機会がめっきり減っている旧式の視聴覚室は、ふたクラス分くらいの人数が収容できる広さの教室であるというのと、前方のスクリーンが教室全体から見えるように、わずかではあるが階段状になっている教室なので、うまいこと工夫してステージをつくれば、いい感じの即席ライブハウスになるのだ。とはいっても、僕は一年だから、文化祭ははじめてなわけで、そうであるらしい、というのを先輩から聞いただけなのだが。

「すごいよねえ、軽音部、人数多くて。なんだっけ、卒業生でプロになったひといるんでしょ?」

「うん、らしい。あんまよう知らんけど」

 つうか軽音部が後半の部で時計塔を使う、というのは、日笠さんに聞く前から、さっき文化祭実行委員の先輩たちから聞かされたような気がしなくもない。くしゃりと、片手で前髪をかき上げる。もうそろそろ、僕の頭は限界なのかもしれない。

「あのさ」

 いつもより、少し低い調子の日笠さんの声に、僕は意識を呼び戻される。

「ん?」

「たいしたことじゃないっていうか、うん、まあ、ちょっと引っかかってる、くらいのことなんだけどさ」

 そこまで言って、日笠さんは、どう話そうかと迷うように、口をつぐんだ。

 二秒にも満たない沈黙は、僕らの背中から聞こえてきたドアの開く音で破られた。続いて響いてきたのは、怪獣みたいな独特の足音。振り向かなくても担任のよっぴーこと米谷先生だとわかる。隣で日笠さんが、あ、よっぴーじゃんと言いながら、振り返った。僕も、振り返る。一瞬、目眩がした。意識して、廊下に踏みとどまる。

「おーう緒方に日笠、おまえら、いい知らせと悪い知らせがあるけど、どっちから聞きたい?」

 どういう質問だそれ。僕が答えるよりはやく、日笠さんが「いい知らせでー」と笑顔で返す。

「いい知らせはな、ふたりとも文法テスト満点だ、おめでとう」

 お、やったね。素直にちょっと嬉しい。隣を向くと、日笠さんと視線があった。思わずハイタッチを交わす。手のひらじゃなくて、拳で。なんていうんだっけ、これ。グータッチ?

「じゃ、悪い知らせってなんですか?」

 米谷先生のほうへ向き直ってから、日笠さんが尋ねる。

「悪い知らせはなー、あー……ほら、あれだよ……あれ? なんだっけ? 忘れたわ」

 まじでなんなんだ。ま、たいしたことじゃねえよと言いながら首の後ろをかき、米谷先生は続ける。

「文化祭のこととか、ほかにも、なんか困ったことあったら言えよ」

 はーい、と僕と日笠さんはふたり声をそろえて返事をする。僕らの返事を受けたのち、米谷先生はひらひらと手を振りながら去っていった。体育館へ向かうのだろう。男子バレー部の顧問なのだ。

「そういえば、日笠さん、部活は?」

「バド部は木曜は休みなのです」

 体育館、今日はバスケ部とバレー部の日だからねー。休息日なんだよ、とどこか物足りなさそうに日笠さんは言う。

「ところでさ、それ、どうする?」

 日笠さんの右手で持て余されていた、時計塔の——祥楓記念会館の使用許可証を指差しながらそう尋ねる。

「どうしよっか、ふたりともすぐ出せるとこのがいいよね」

「ほな教室の僕のロッカー置いとこ。いちばん上に置いとくから、もし僕おらんときでも勝手に取って」

「ん、ありがと」

 なにも、この紙がないとぜったいに時計塔に出入りできないわけではない。ただ、特別教室扱いなので、いちいち教員の許可を得て鍵を借りる必要がある。そのときに、もし、僕らのクラスが文化祭で使用することを知らない教員にあたったら、許可証を見せて説明する必要があるはずだから、失くさないかつすぐに取り出せるようにはしておかないといけない。まあ、失くしたところで、すぐ再発行してくれると思うけど。

 僕も日笠さんも、鞄を教室に置きっぱなしだった。ここ、職員室があるのは1号館一階で、僕らのホームルーム教室があるのは2号館二階。ふたりで、いちばん近い階段に向かって歩き出す。

「それにしてもほんと、あっさり場所確保できてよかったよ。他クラスとかぶって駄目だったら、また場所考え直さなきゃだったもんね」

 そう言いながら、日笠さんは右手に持ったスマホを操作する。どうやら、クラスのメッセージグループに、無事場所確保ができたことを報告してくれているらしかった。

「まあ、みんなべつに時計塔にめちゃくちゃこだわりあった感じちゃうかったし、それやったらそれで、不満もなかったとは思うけどな」

「たしかに、それはそうかも」

「あ、そういや、さっき、よっぴー来る前、なんか言いかけてへんかった?」

 階段までたどり着いたところでそう訊くと、日笠さんは立ち止まった。ここの階段下は、不要な机や椅子などが一時的に置かれているスペースになっている。階段を過ぎると、来客用の事務玄関と用務員室になっており、1号館はここで終わり。用務員室まで行かず、階段の手前で右に曲がれば、2号館へ続く渡り廊下だ。

 階段の手すりにもたれると、少しの沈黙のあとで、日笠さんがぼそりと話し出す。

「……このまえの日曜日、バド部で、OG会っていうの? 卒業した先輩がいっぱい来たんだけど」

 とうとつな、脈絡のない話だった。

 なんだろう、と疑問に思いつつ、日笠さんの隣に並ぶ。

「けっこう前の卒業生まで集まってね。かわるがわるで試合したりとかして。うちのバド部、いまはそんなに本気でやってるひといないからめっちゃ弱いんだけど、ちょっと前までは、けっこうつよかったんだよ。ま、それは置いといてね、終わってから、去年の卒業生の先輩に最寄り駅同じひとがいて、一緒に帰ったのね」

 うん、と頷いてから、日笠さんの隣で階段の手すりに背中でもたれかかる。顔色をごまかすのにも便利なマスクを、少しだけずらして、息を吸う。

「もうすぐ文化祭だよねって話になって、その先輩が、自分たちのときの文化祭の話、いろいろしてくれて」

 ちいさく頷いて、話の続きを促す。そういえば、日笠さんは、高校入学と同時に大阪へ来た、と言ってたっけ。そのまえはどこにいたんだろう。

「その先輩が一年生のときの話なんだけど。三年生のクラスで、わたしたちと同じように、時計塔を使ったクラスがあったんだって。劇だったらしいんだけど。で、そのリハーサルのときに」

 かたん、と階段下、暗がりから音が聞こえたような気がした。なにかが、潜んでいるような。思わず隣を見ると、同じようにこちらを向いた、日笠さんと視線が合う。

 数秒ふたりで押し黙るが、もうなにも聞こえない。風の音か、気のせいか。

 ややあってから、日笠さんが再び口を開く。ほんとかどうかわかんないんだけどね。


「——生徒がひとり、消えたんだって」


 瞬間、周囲の温度が下がった気がした。夕暮れが迫る、校舎の隅。ここは、ひどく暗い場所だ。とうとつにそう気がついた。僕は、口を開く。彼女の言葉の意味を問う。

「……消えたって、どういうこと?」

「よく、わかんない。でもね——」

 日笠さんの言葉は、急に飛び込んできた、複数人のものらしい賑やかな足音で遮られる。続いて、数人の上級生、三年生の姿が廊下に現れた。四人。彼らはなにやら話しつつ、職員室横の進路指導室へと入ってゆく。ここは、自習室として開放されており、大学の過去問なんかも置いてある。

 彼らの足音が遠ざかると、同時に僕らは息を吐いた。ふっと、緊張がやわらぐ。

 なんとなく、さっきまでの秘密めいた雰囲気は消えていた。教室、戻ろっか。日笠さんの言葉に、頷く。ふたりで階段を上り、渡り廊下を歩いて、教室へ向かう。

「先輩も『消えた』の意味をはっきりとは知らないみたい。ただ、そういう出来事が起こった、それを噂として聞いただけ、なんだとさ」

 冗談っぽい口調で締めくくり、日笠さんはその話を終えた。かわりに、といっては変だが、教室に着く直前、メッセージアプリのアカウント名を尋ねられる。答えると、クラスのグループトークから僕のアカウントを探しているのか、スマホの画面をスクロールさせた。そういや、グループトークはするけど、お互い個人のアカウント登録はしてなかったな。別のSNSでならつながってるけど、やっぱり連絡事項系はこっちのが便利だ。

「緒方、あんま発言ないよねえ」

「……あー、うん、まあ」

「えーっと、あ、あった、これか。あきら、だよね」

 僕の下の名前で登録されているプロフィール画面を見せながら訊かれたので、僕は頷く。それで正解です。

「そうそう。日の下に光って書く晃」

「おっけー登録した。そっか、鳴海もあきらだもんね」

「うん、あっちは日がみっつのあきらだけどね」

 やっぱ猫カフェは無理よな〜とホームルーム後までぼやいてうなだれていた、鳴海の姿を思い出す。放課後になると急にしゃっきりして、剣道場へと向かっていった。剣道部なのだ。しかも、一年にして部長。

 二年生の剣道部員がいないから、というだけでなく、めちゃくちゃ実力者であるらしい。隣のクラスのやつにそう聞いた。たしかに、なにかの拍子に部活中の鳴海を見たことがあるが、教室での姿とのギャップに、一瞬、別人かと思ったくらいだった。

 ほんのわずか、ささくれ程度の痛みと違和感を、身体のどこかで感知した、気がした。でも、気のせいだ。そう思うことにする。なぜか急に、ふと、もう、半年近く会っていない、妹の顔が浮かんできた。一秒にも満たない程度の時間だけ目を閉じて、意識をいまここに引き戻す。

「シナリオ作り、手伝うってか一緒にやるし。またどっかで相談しよ」

 日笠さんは右手に持ったスマホを振って笑って言った。それから教室の扉を開ける。まだ、残っていた数人のクラスメイトに声をかけられて、彼女はそちらへ向かって歩いてゆく。

 僕も、鞄を回収しようと、教室へ入る。窓際でスマホゲームをしていた数人に声をかけられる。緒方もやらん? と声をかけられたけど、今日はいい、と首を横に振って断る。思考が、別のほうに向いていた。

 さっき階段で聞いた、日笠さんの話。

 去年の卒業生が、一年生のとき——つまりは三年前の噂。

 三年前の文化祭のとき、この学校にいた生徒は、ふつうなら、もう卒業していて在校生にはいないはず。なんらかの事情があって、留年をしたり、なんてしていない限りは。

 数少ない、この学校で親しい先輩のうちの、ひとりの姿を思い浮かべる。


 ──部長だったら、なにか、知っているんじゃないだろうか?


 通学鞄にしているリュックサックを背負い、クラスメイトに手を振って、僕は教室を出る。

 向かうさきは1号館四階、第二生物室。

 いまの僕の、ゆいいつの、とまではいわないけども、たぶん、いちばんの安息地。

 

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