第31話
「王一郎さんの運転技術はへたっぴだ。父さんならば追い付けるよ」
「……ん。分かった」
文明は力強くエンジンを踏み込んだ。瓜子と共に後部座席に乗り込んだ桃太は、緊張を伴いながら、移動する夜の景色を見詰めていた。
ここから海までの道はほぼ一本しかない。昼間海に行った時も王一郎はこのルートを使っていたから、文明がぶっ飛ばせば追い付くことはどうにかなるはずだった。桃太は来る決戦に備えて心臓を高鳴らせていた。
「桃太」
その時、瓜子の普段通りのフラットな、捉えようによってはお気楽な声が響いた。
「なあに瓜子?」
「さっき、わたしのこと好きって言ってなかった?」
桃太は思わず吹き出しそうになった。そして今日一番の戦慄を覚えながら瓜子の方を見ると、瓜子はニコニコと幸せそうな表情で桃太を見詰めていた。
「いやあ。でも良かったよ。ちゃんと言ってもらえて。それをいつ言ってくれるのか、そもそも言ってくれるのか、わたしずっとひやひやしてたもんね」
「そ……そう」
桃太はつい赤面をして俯いた。
「わたしも桃太が好き。桃太が都会に帰っちゃった後もずーっと。大人になるまで二度と会えないのだとしても、それでもずっとずっと好きでいる。また一緒に会えるまで、必ずね」
そう言われると桃太はますますの赤面を禁じ得ない。最強の師であり無敵の討魔師である王一郎との決戦を間近に控えているというのに、今はただ瓜子の言葉に胸を高鳴らせ、その一挙一動に魂を揺さぶられ続けるしかなかった。それは類まれなる幸福な体験でもあった。
「……おまえ達。それは今する話じゃないだろう?」
文明が呆れたように言った。
「こういうのにはムードやシチュエーションというものがある。俺が母さんにプロポーズをした時なんかはな、一から十まですべて綿密に計画してからだな」
「だからっ。今する話じゃないでしょそれ」
桃太は顔を覆いながら父に抗議した。
「別にいつでも良いでしょそんなの。今したいってわたしが思ったらそれはその時なの。ねっ、桃太もずっとわたしが好き?」
「好きだよ」
桃太は答えた。それは都会に帰った後何があったとしても変わらないに違いなかった。自信があるとかないとかではない。それは客観的で普遍的な確信だった。
その答えを聞いて満足したように、瓜子は笑顔を浮かべて正面を向いた。これで気持ちは完全に通じ合う形となった。桃太は想いの成就に安堵と幸福を感じると共に、瓜子の為に何をしてでも人魚を手にしたいという思いを新たにした。
やがて王一郎の車の背後が見えた。
複雑な田舎道を王一郎はのろのろとした運転で進んでいた。彼は慎重とは程遠い性格だったが、こと車の運転と言うのは思い切りだけで素早くできるものではない。ベテランのドライバーである文明に追い掛けられれば、その背中を捕捉できるのは当然のことでもあった。
「ここからどうするの?」
瓜子は言った。
「ふんっ。まあ見ていろ」
文明は言い、全速力で王一郎の車を追い越した。困惑した表情の王一郎を桃太が窓から見送った後、自動車は急旋回して王一郎の自動車の方へと真っすぐ突っ込んで行った。
「わっ。わぁあああっ」
桃太は絶叫した。しかしそれ以上に恐怖したのは、突如として真正面からの体当たりを仕掛けられた王一郎だろう。王一郎の度胸は相当なものだったが、車に乗っているという状況下での冷静さでは、文明と比べて大きく落ちた。
ブレーキが間に合わないと判断した王一郎は、とにかくハンドルを横に切ることで危険を回避することを試みたようだった。だがそれにより、完全に道路をそれた王一郎は山肌に衝突する羽目になる。
激しい音がした。真正面から山肌へと減り込んだ車体は大きくへこみ、煙を上げながら停車していた。
「狙い通りだ」
文明は鼻を鳴らしてそう言った。
「桃太のお父さん、すごーいっ!」
瓜子は両手をあげてきゃっきゃと喜んだ。
「流石桃太のお父さんだねーっ。勇気あるー」
「……こういうのは、勇気というか、無茶じゃないのかな……?」
桃太には疑問でならなかった。運転中想定外のことが起きた初心者ドライバーの王一郎が急ハンドルを切る癖があることは、確かに事前に伝えていたことだった。しかしそれを織り込んだとしても、この作戦は無茶にも程があり狂気と紙一重の蛮行だった。
「因程の男を出し抜くのに、無茶の一つや二つせずにどうする」
文明は鼻を鳴らした。
「これでも戦争をくぐり抜けているからな。味方が全員負傷した時は、軍医自ら軍用車の運転席に乗り込んで敵地からの脱出を図ったこともある。あの極限のチェイスと比べれば、免許取りたての王一郎など端から相手にならんな」
言いながら、文明は得意げに車両から降りる。桃太と瓜子がそれに続いた。
煙を上げ続ける車両の中で、王一郎はどうやら気絶しているらしかった。ハンドルに顔を俯せて微動だにせず、沈黙するその様子は、眠れる獅子を見るような恐怖感があった。
「大丈夫。確実に失神している。医者としてそう診断する」
「……お父さん、大丈夫かな?」
瓜子が父を見て言った。
「心配するな。殺しても死ぬような男じゃない。この事故の状況からしても、こいつは脳震盪で気絶しているだけだ」
言いながら、文明は桃太にあごをしゃくった。
「王一郎の刀を持って来い。念の為、タイヤをパンクさせておこう」
「破裂させるのは危険じゃないの?」
「下手なやり方をすればな。やり方は教える。おまえでも出来る」
桃太は『首狩泡影』を持ち出して、父に教わったコツを元にして、王一郎の車のタイヤを一つ一つパンクさせていく。
「あったよっ! 人魚だ」
そうしている内に瓜子が後部座席から人魚の入った寝袋を発見する。それを引っ張り出し、持ち上げた文明が感触を確かめて言った。
「確かに人魚が入っているな。尾鰭の感触があるから間違いない」
文明はトランクの中に人魚を詰め込んだ。
「これからどうするの?」
と瓜子。
「因はその内復活する以上、人魚を浚ったことが村に知れるのは免れんな。ここは一度自宅へ帰って母さんを連れ、人魚と共にこの田舎の外へ逃げてしまうしかあるまい」
「だったらわたしのお母さんも一緒に連れてってもらえる?」
文明に向けて、瓜子は両手を合わせてしなを作った。
「もうすぐ海神と約束した夜明けの時間なんだ。それまでに人魚が戻らなかったら強硬策に出るって海神は言ってた。村が嵐に飲まれるかもしれない。お母さんをそこに巻き込みたくないの」
そう言われ、桃太ははっとした。確かに今はもう午前の五時近い時刻になっている。そして完全に夜が明けた後、人魚が連れ去られたと知った海神がどれほどの荒れ狂うかは想像したくもない。
「……そうだね。ぼく達はこれから海神を裏切るんだ。村人達からのリンチを掻い潜るよりも、そっちの方を警戒した方が良いかもしれないね」
桃太は頷いた。自分達がどれほど大それたことをしているのかを改めて実感する想いだった。
桃太達の蛮行によって危険に晒されるのは、何も桃太達自身の生命だけではない。この村の村人すべての命、ひいてはこの村そのものだったのだ。
だがそれを理解しながら桃太は人魚を連れ去ることを止める気にはならなかった。人魚がなければ瓜子が鬼になってしまう。村を救う為に娘である瓜子を見捨て、殺害した王一郎の逆を行くのならば、それしきのことは覚悟していなくてはならなかった。
桃太は明確に瓜子一人の為に村を捨て村を滅ぼす。それだけのことをしていると知りながら、引き返すという選択は自分たちにないのだ。
「……俺達がこの村を去った後、この村は海神によって滅ぼされるという訳か」
そう言って文明はニヒルに笑った。
「だがまあ、生きるというのはそういうことだ。戦場で生き残る為には、自分一人の為に、敵はもちろん、味方の命をも損なわせ続けなける必要がある。俺は俺の人生の為に人魚を手にする。その後村が滅びようと知ったことではない」
心底から文明はそう言っているようだった。だがそれは桃太の知る強欲なエゴイストの父の姿と何ら相違しなかった。息子の願いの為、そして医者としての自分の将来の為、村を見捨てる覚悟を文明はとっくに決めているようだった。
そうだとも。桃太は思う。自分達はそもそもが善意の集団ではない。あくまでも自分や自分の愛する者の為に必死の戦いに臨んでいるに過ぎない。だがそれは究極的には村の誰しもに言えることであって、誰しもが自分や自分の愛する者の為に他者を犠牲にしながら生きているのだ。河童の裁判を乗り越える為に満作を犠牲にした桃太達や、綾香を敵に回さない為にかつての親友をも騙していた千雪や、恋した鬼の為に村を騙し村を利用した輝彦のように。
この村に正義の味方と呼ぶべき者がいるとしたら、それは村を守る為に我が娘を手に掛けることを躊躇しなかった、王一郎一人くらいのものだろう。
その王一郎を放置したまま、それぞれのエゴイズムを乗せた自動車を、文明は静かに発進させた。
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