第28話

 水槽の外に出すまでが苦労したが、それを乗り越えれば人魚は存外に大人しかった。

 喋ることは出来なかったがこちらの言葉は理解しているようだった。どこまでも大人しく人間に対し従順で、それでいて瓜子の傷を治してくれたような優しさも兼ね備えていた。そのような性質から、いざ人間に見付かれば捕らえられ良いようにされてしまうのも無理はなかった。「軍医殿はどのようにして人魚を捕らえられたのだろうな?」

 王一郎は帰りの車中でそう口にした。

「あんなに大人しいんだから、簡単に捕まえられるんじゃない?」

「どのようにして見付け出したのかが問題なのだ。それに、大人しいと言ってもそれは陸上での話。水中での人魚はどんな魚よりも素早く泳ぎまわる。捕らえることは熟練の漁師でも並大抵のことではない。余程大人数でなければ捕獲はできないはずなのだが……」

「このまま海神様のいる海の祠まで向かうんですか?」

 桃太は尋ねた。それであらゆる問題が一度に解決するはずだった。父文明は海神の怒りを免れ村は向こう十年間の生贄を必要としなくなる。王一郎は村を救った英雄となり、それに加わり父を手助けしたということで瓜子の名誉も幾ばくか回復することだろう。

「いいや。その前に一度我が家の地下室に運ぶ」

 王一郎は言った。

「どうしてそんなことを?」

「天野輝彦殿を自宅に呼んである。もし人魚を見付けたら自分達で祠に返したりはせず、一度村民会を通せというのがお達しでな。まあ同じ海神に人魚を返還するにしろ、きっちりと村長なりその代理となるものの手を通すのが作法というか、海神に約束を守らせる上でも大切なことなのだ」

 それはおそらく、大人の世界では良くある手続きの問題なのだろう。桃太は納得した。

「良かったね瓜子」

 桃太は助手席に座る瓜子に声を掛けた。

「……うん」

 しかし瓜子の表情は浮かないままだった。桃太は先程からの瓜子のこの表情が気がかりだった。あれほど悲願としていた眼球の復活を果たしたのならもっと手放しで喜んでも良いはずだった。いったい何が瓜子を落胆させているのか、桃太の推理は及ばなかった。

 やがて王一郎の自宅へと帰りつくと、三人で地下室へ移動し人魚を寝袋から出した。

 見れば見る程美しい人魚だった。桃太は思わず目を見張る。流れるような金色の長髪は絹のようで良く通った鼻筋や微かに朱の刺した白い頬は、西洋人または混血児のそれだった。大きなサファイア色の瞳は海のように深く美しかった。

「これが……あの大きな青龍になるんですね。しかも双頭の」

 桃太は言った。髪と目の色はびゅうびゅうと同じだから、将来はやはりあのような姿に成長するのかもしれない。しかしどうしてびゅうびゅうとしとしとが、二つの頭を持つ一匹の青龍であるのかは不思議だった。

「……龍族には首を複数持つ個体もいる。伝説には、八つの頭を持つ龍が、豪傑英雄により討伐されたというものもある」

 王一郎は言った。

「……そうなんですか」

「ああ。もっとも伝説はあくまでも伝説だがな」

「どうしてアタマが複数に?」

「青龍の一族は肉体がいくら損壊しても瞬く間に再生可能であるという特徴を持つ。そこで問題だ。頭部のみに縦に真っ二つに切り込みを入れられた青龍は、果たしてどうなると思う?」

「……え? それはえっと……切り込みを入れられたことで二つに分かれたアタマが個別に再生して……あっ」

「そういうことだ」

 王一郎は腕を組んで何度も頷いた。

「だがその際魂までは二つに分裂しなかったのだろう。元々あった魂はびゅうびゅうの方に宿り、もう片方のアタマには新たにしとしとという魂が宿った。両者は対等に尊重しあう関係ではあるが、時にしとしとの方がびゅうびゅうに遠慮するところがあるのには、そうした序列関係あってのものかもしれない」

「なるほど……」

 そんな話をしていると、やがて地下室の扉が開かれ輝彦が降りて来た。

「……討魔師殿」

「おおっ。来たか輝彦殿!」

 王一郎は待ち焦がれたとばかりの表情で顔を上げた。

「見るが良い! この通り人魚を確保したのだ! これを海神に返還すれば向こう十年、村は生贄問題から解放される! その十年の間に必ずや我が鬼の頭領を仕留めて見せよう! そうなれば村は妖魔の恐怖から解き放たれ人口の低下にも必ず歯止めが……」

 輝彦は懐から複数の札束を取り出して、王一郎に差し出した。

 桃太は目を疑った。それは希少な一万円札の束だった。金持ちの子である桃太でさえたった一枚でも手を触れられることは稀であるのに、それが三束も王一郎の前に差し出されている。それは異様な光景だった。

「……輝彦殿?」

 王一郎は胡乱そうな視線を輝彦に向けた。

「これはどういう意味だ? 何の冗談だ?」

「冗談ではありません」

 輝彦は深刻な表情で王一郎を見詰めた。

「……海神への釈明はこちらで考えます。あなた方に危険が及ぶようなことがないよう上手く交渉します。私がすべての責任を負いますので……どうか人魚をこちらに引き渡してくれませんか? そしてすべてを黙っていて欲しいのです」

「何故だ!」

 王一郎は拳を握りしめて言った。

「この人魚を返還せねば十名の母親が我が子を失い、十人の赤子が食われるのだぞ!」

「分かっています」

「貴様それでも時期村長か! 我は賄賂になど屈さぬ!」

「これでは不足というのなら、もう三束までなら用意できますが」

「くどい!」

 王一郎は怒り狂った口調で叫ぶ。

「何故だ! 貴様何故人魚を欲する? 村民たちを生贄の恐怖から解放し、村の未来を守るという大義を見失う程、貴様は何のために人魚を求めているのだ? 言って見ろ!」

「……愛する者の為」

「は?」

「交渉は決裂した。……鈴鹿、降りて来てくれ」

 そう言うと、王一郎達のいる地下室の扉が再び開かれ、二つの人影と三つの異形が姿を現した。

 二つの人影の内の一つは桃太の父文明だった。怒りを堪えるような表情でじっと桃太の方を睨んでいる。桃太はついすくみ上りそうになりつつも、どうにかその顔を見返した。

「桃太。貴様何をしている」

「そっちこそ。どうしてここにいるんだ、父さん?」

 もう一つの影はいつか病院で見た、輝彦と連れ立って歩いていた背の高い女性だった。その身の丈は二メートルを上回り頭には何かを隠すように帽子被り、鼻先より上にはやはり何かを隠すように包帯を巻いていた。口元だけしか見えないがその顔が美しい女性であることは疑いようもない。

 そしてその二人を守るようにして取り囲むのは……三匹のオスの鬼達だった。

 何故輝彦が鬼を従え、そしてその輪の中に父文明が混ざっているのか、桃太の混乱は止まらなかった。鬼達の身の丈は三メートルを上回り、地下室の天井にアタマを擦り着けないぎりぎりだった。肌の色は皆青白く眼球の数はそれぞれ一つ、三つ、そして数えきれない程無数と言った具合だった。彼らは従者のように女性の背後に回り、王一郎の方に鋭い、油断のない視線を送っていた。

「坊や」

 女性は言った。

「久しぶりですね。約束は守っていてくれたようで、そのことは感謝します。でもね、その人魚はあなた達には渡せないの」

「鈴鹿。そこの討魔師は腕利きだ。その三人で勝てるかな?」

 輝彦は心配そうに背の高い女性に尋ねた。

「何とかやってみましょう。いいですね、おまえ達」

「はっ。鈴鹿殿」

 鬼達は声を揃えて言った。桃太は『鈴鹿』という名前に聞き覚えがあった。それが何なのか記憶から引っ張り出す前に、地下室の最奥の牢から「鈴鹿殿!」という声が発せられた。

「十兵衛」

 鈴鹿と呼ばれた女性は小首を傾げた。

「鈴鹿殿! ああ! お会いしとうございました! 鈴鹿殿」

「こんなところに囚われていたのですね、十兵衛」

「ええ。山の麓を歩いていたところ討魔師相手にしくじりました。それにしても、鈴鹿殿。どうしてそう小さくなっておいでで? それではまるで『人間病』ではないですか?」

「まさにその人間病にかかったのです。十兵衛」

 鈴鹿は無念がるような口調で言った。

「鬼が人間に戻ってしまう、鬼にとって最も忌むべき病……。それを治す為、万病を治癒する力を持つ人魚の涙が私には……我々鬼社会には必要なのです。そちらの鬼久保先生に人魚を預けて置けば、必ずや人間病に効く薬を開発してくれるに違いありません」

「愚かな!」

 王一郎は叫び、輝彦を、そして桃太の父・文明を睨み付けた。

「鬼に魂を売ったな! この人間のクズ共め!」

「なんとでも言うが良い」

 輝彦は鋭い目をして言った。

「しかし討魔師殿。あなたなら分かるのではないか? 人間も鬼も妖怪も、すべて同じ心を持ち、血の通った尊い魂であるのだと。そのことを互いに理解し相互に尊重することこそが、この妖怪と人の交わる山奥の田舎町で生きる一番の術であるのだと」

「人を食う鬼と分かり合うことなどできるものか!」

 王一郎は叫んだ。

「なるほど鬼共が人を食うのはあくまでも生きる為だろう! それは我々が家畜にしていることと同じだ。しかし我々は我々の村の人間を誰一人として鬼に食わせたりはせん! そこで利害が対立している。ならば自分の都合を押し通せるのはどちらかだけ。両者の意思は永遠に交じり合うことはない!」

「しかし私は鈴鹿に惚れたのだ!」

 輝彦は強い意思を持った声で言い放った。

「知るか! 貴様村民を庇護する立場にある村長の息子であろうが! それが鬼の娘に肩入れするが為に、海神の子を浚うなど言語道断!」

「誰が好き好んで村長の息子になど生まれたかったか! だが私は愛に殉じ愛の為に戦う! その為に有利なら喜んで村長の地位を引き継ごう! 不都合ならば討魔師殿、貴様のことも抹殺するのみだ!」

 輝彦は王一郎に指先を突き付けた。

「殺せ!」

 その声を合図に、鬼達は一斉に王一郎に飛び掛かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る