傷ついたガル3
くいっとお茶を飲み干したガルがカップをテーブルに置いた。そうして再びじっと僕を見る。思わず視線を逸らしかけ、それじゃ駄目だと踏みとどまった。
ガルの顔を見るのが怖い。でも、目を逸らすわけにはいかない。僕はすべてを知ったうえで
(すべて受け止めるのも
膝に乗せた両手をギュッと握り締める。それなのに小刻みに震えるのを止めることができない。
(ガルは知っていてこの森にいたんだ)
鉄の森は人狼にとって恐怖と悪夢の地だ。鉄の森でなくなって随分経つけれど、だからといって人狼の憎悪が消えるわけじゃない。さらにこの森に施されたまじないには、そんな人狼たちの怨念ともいえる思いが使われている。
(……そのことにガルが気づかないわけないか)
それなのに僕はガルのそばにいられることに夢中になってしまった。
(待って。それじゃあ僕が
意味がわからなかった。人狼にとって
(もしかして、本当は
それならガルが森に入った理由も納得できる。ヤルンヴィッドの森は人狼を排除しないからガルなら簡単に侵入できる。エルダーの木がもっとも警戒するのは魔女で、人狼の憎悪を宿した木々はガルを傷つけることも邪魔をすることもない。もし復讐の果てに僕が殺されたとしても、僕の血肉さえあればしばらくはオークの木々も騒いだりはしない。
(それに、僕が死んだらばあちゃんが気づくだろうし)
そしてすぐに次の
「アールン」
呼ぶ声に手が震えた。
「何か勘違いしてるみたいだけど、俺はあんたのことを恨んだり憎んだりしたことはないからな?」
「……そんなの嘘だ」
「なんでそう思う」
「
「エルダーの木のことか。まぁ、なんとなくそんな気配は感じてたけど」
やっぱり気づいていたんだ。
「それだって、この森をほかの魔女から守るためだろ? そのためにあんたが森と契約してるのも知ってる。
「どうしてそのことを……」
「森の獣たちに聞いた。あいつら本当にお喋りなんだよ。しかもみんなあんたのことが大好きときてる。恋人の俺に『舐め回したいくらい好き』なんて言う山猫もいるんだからな? 兎なんて『こっちは囓りたくなるくらい好き』とか言いやがって、喧嘩売ってんのかって何度食い散らかしてやろうと思ったことか」
ガルは何を言っているんだろう。僕は森の獣たちに好かれてなんてない。その証拠に薬草を採りに行っても姿を見ることはほとんどなかった。
「……あの、意味が、よくわからないんだけど」
そうつぶやくと、ガルが「はぁ」と大きなため息をついた。
「森の連中は、みんなあんたが好きだってこと。姿を見せないのは気を遣わせたくないからだろ」
「気を遣う……?」
「あいつらからこの森を奪ったのは
「あ……」
そうだ。鉄の森にするときに森に住んでいたすべての生き物を排除した。森の動物たちにとっても
「アールンにそんな顔をさせたくない。だからあいつらは影から見守ってるんだよ」
「……」
「エルダーの木もオークの木も同じなんじゃないか? 契約上、あいつらはあんたを守ることができない。だからって嫌ってるとは限らない。その証拠にどの木も俺が近くを通るたびにうるさいくらい枝や葉を揺らす。あれはあんたが心配でしょうがないって言ってるように俺には感じられる」
「……そんなはずないよ」
「いいや、そんなことある。そもそも人狼をあれこれしてたのはあんたじゃないだろ。二度と昔のような森にしないようにって、あんたやあんたのばあちゃん、その前の魔女たちが必死に守ってきた。森だって百年以上もそんな姿を見てれば心変わりする」
「そんなこと……」
「あるんだよ。あんたより俺のほうが森のことは理解できる。獣たちのあんたが好きだって騒がしい声、あんたに聞かせてやりたいくらいだ」
ガルの手が握り締めたままの僕の手を包み込むように握る。
「それにアールンは可愛い。可愛いアールンのことがみんな大好きで、同時に心配してる」
「心配……」
「今日は顔色がよくなかっただとか、おまえが可愛がりすぎてるからだろうとか、夜のことまで言うんだからな?」
「そ、れは、ちょっと……」
「とにかく、森の中を歩くたびに誰も彼もがアールンの話ばかりする。そのたびに俺はアールンが誇らしくて仕方なかった」
ガルの顔が少しずつ滲み始めた。ガルは僕たち
「泣かしたいわけじゃないんだけど」
「……ごめん」
肩を抱き寄せられて目尻から涙がこぼれ落ちた。僕よりずっと逞しい肩に額を当てながら、もう一度「ごめん」と謝る。
「なんで謝ってんの?」
「いろいろ黙っててごめん。本当は真っ先に鉄の森のことを言わなきゃいけなかったのに、どうしても言い出せなかった。……ガルは自分が人狼だって最初に教えてくれたのに、僕は森のことも自分のことも隠し続けた」
「別に気にしてない。それに言っただろ? 最初からこの森のこと知ってたって。当然あんたが
「わかってたのに使役契約したいなんて、ガルこそガバガバじゃないか。そんなことしたら
「契約してもアールンはそんなことしない」
「そんなのわからない」
「俺にはわかる」
「いいや、わからない。僕だって魔女なんだから」
「もし何かされたとしてもアールンになら平気」
「そういう問題じゃないって言ってんの!」
気がつけばガルの肩を掴んで揺さぶっていた。自分を大事にしないような言葉に腹が立ち、同時にこんなにも信頼してくれていたのに大事なことを隠し続けてしまった自分が嫌になる。
「アールン、落ち着けって」
「だって、」
「使役契約したかったのは、あんたが俺のつがいだからだよ」
「……え? つがいって……」
「アールンからいい匂いがしてるのは俺のつがいだからだ。俺たち人狼は生涯のつがいを匂いで嗅ぎわける。言葉で説明するのは難しいけど、自分にしかわからない匂いがあるんだ。その匂いが森全体からも匂ってたから、この森に引き寄せられた」
「……ここがヤルンヴィッドの森だから、じゃなくて……?」
「ヤルンヴィッドの森だとか
一度にいろいろ言われて混乱してきた。ガルの肩を掴んでいた手から力が抜け、するりとソファに落ちる。
「アールンは俺のつがいだ。間違いない。そしてこの森からはアールンの匂いがしてる。それが魔女のまじないのせいだったとしても、俺はなんとも思わない。むしろつがいの匂いがしてるこの森は俺にとって最高の場所だ。そもそも昔のことは俺にもアールンにも関係ない。俺はアールンが好きだし、アールンの匂いがするこの森も気に入ってる」
優しく笑うエバーグリーンの眼に、涙がポロッとこぼれ落ちた。涙と一緒にあれこれ考えていたことまで流れ落ちていく。そうして最後に残ったのはガルへの揺るぎない想いだった。
「俺はアールンが好きだ」
「……僕も、僕もガルが大好きだ。ずっとそばにいたいって願うくらい好きなんだ」
「知ってる。俺もずっとそばにいたいと思って使役契約を持ちかけた。そうすれば何があってもアールンと離れずにいられるからな。魔女との使役契約は死ぬまで続く。ってことは、死ぬまで何があってもずっと一緒にいられるってことだろ?」
「そう、だったんだ」
「俺たち人狼は生涯一人だけをつがいにする。俺のつがいはアールンだけだ。使役契約しなくてもそれは変わらない」
「ガル……」
どうしよう、嬉しくて体がふわふわする。このままじゃどこかに飛んでいってしまいそうだ。
「アールンの匂いが強くなった」
「あの、ガル、」
顔を近づけたガルが首のあたりでクンクンと鼻を鳴らしている。
「俺を好きだって匂いが言ってる」
「ちょっと、」
「ってことで、心が結ばれた次は体だな」
そう言ったガルが首にチュッと吸いついてきた。慌てて身を引こうとしたけれど、そうする前に肩を抱かれてますます首に吸いつかれる。
「ひと月以上もお預けにされて、いい加減辛抱するのも飽きた」
「待って、まだ駄目だって」
「傷は完全に塞がってる。痛みもない。アールンの増血剤のおかげで血も十分足りてる。むしろ多すぎて体も股間もめちゃくちゃ元気」
「ガルっ」
あまりの言い方に強く名前を呼ぶと、「いつものアールンだ」と言いながら耳に噛みついてきた。これまで何度かされた甘噛みに「ひっ」と首をすくめる僕を、ガルが軽々と抱え上げる。
「ガル、どこに行くの」
「どこってベッドだろ?」
当然のようにそう告げられ、僕は耳まで真っ赤にしながら両手で顔を覆った。
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