「僕、を？　なんで？　僕がなんか、悪いことしたってこと？」

　いくつか聞きたいことはあったけど、とりあえず話の腰を折らない程度の質問を投げかけてみる。すると彼女は首を静かに横に振る。

『とにかく、私はあなたを救うためにこの世界に赴きました』

「……いろいろ説明が省かれてる感じがして、よく分からないんだけど……」

　でもなんとなく、彼女が求めてることは察せる。きっとこれ以上のことを話したら僕の理解が追い付かなくなるから、ひとまず僕には首を縦に振って欲しいのだろう。

　だけど僕はまだ彼女のことをよく知らない。唯一分かったのは、彼女がアイ・リードという名前であることと、彼女が僕の脳内にいることと、脳内に入ってきた過程。

　まだまだ不明点が多い。だがその全てを解消させる余裕を、彼女は持ち合わせてないのだろう。

『いきなりこんなことを言われて混乱するのは無理もありません』

「いや、ほんと……もうちょっと他に方法とか……なかったんです？」

　混乱してるせいか、思わず変な上から目線発言をしてしまった……。

『幾（いく）度（ど）も思考した結果、私はこの方法しかないと判断しました。無理やり仮想世界からあちらの現実世界に介様を連れ戻そうとすれば、今この世界にある介様の意識と現実世界の肉体が離れてしまうリスクがあると判明したので』

　その言いぶりだと、今の僕は意識だけってこと？

「外がダメなら内から……みたいな感じ？」

『そういうことです。理解が早くて助かります』

「いや、これは理解というか……」

　無理やり自分に落とし込んだだけなんですよねぇ……。

「さっきの、意識と肉体が離れるって……じゃあ今のこの体は、僕の本当の体じゃないってこと？」

『そうです』

　即答されるとまたそれはそれで……。

「じゃあ、待って。今のこの体は何？　本物じゃないなら、この体は偽物？」

『そういうことです。今の介様は、ゲームのアバターに入っているような状態です。つまりその体は借り物です』

「借り……。じゃあ……え？　この……腕とか、という体全体が借り物ってこと？」

『仰る通りで、全て借り物です。ただし五感は例外です。今の介様の頭には仮想の脳が入っていますが、その脳は現実世界の介様の脳と同期しています』

「……」

　とりあえず、彼女が何を言わんとするのかはなんとなく掴めてきた。しかしそうであると、この世界も自分の体も仮想であると完全に認めることはできない。

　こんな混乱状態のまま無暗に、自分の体は借り物なのか……なんて認めてしまったら、半端な理解のまま知らない間に話が進んでしまいそうで怖い。

『私が言っていること全てを信じ、理解することは難しいと思います』

「いや、まあ……そうだね」

　非通知電話が掛かってきてからずっと胸中にドロッとした不安感が疼（うず）いていて、それがいやに気持ち悪くて仕方ない。

　まず仮想世界って時点で納得いかない、いくわけがない。なら、今まで生きてきた僕の人生は一体なんだったんだって、そう激しく訴えたい。

『私が介様に接触した目的は、これです』

　彼女がそう切り出すと、いきなり僕の視界中央に半透明のウインドウ画面のようなものがポンっと出現する。

【被験者　０００００００３番の試験運用を終了します。よろしいですか？】

「被験者？」

『介様はこの仮想世界が正常に動くかどうかを調べるための実験対象となっていました。その記憶は今、介様にはないと思いますが』

「……うん。心当たり……ない……」

　今、自分の頭の中を覗けるなら、記憶を全て見漁ってみたい。

　僕が実験対象って……。この世界の運用？　そんな記憶が頭の片隅に転がってるのを見つけたら笑ってしまうと思う。

『下に選択肢があるのは分かりますか？』

　言われて視線を少し下げれば、確かにそこにはＹＥＳとＮＯの二つの選択ボタンがある。

　長い０の羅列といい、被験者といい、気になるところが多すぎるが……早い話、ＹＥＳを押せば全てまるっと収まるということだろう。

　というか、そもそもこれはどうやって映し出されてるんだ？　そこからもう疑問なんだけど……。

「このボタンを押したら……ややこしい話をしなくて済む、ってこと？」

『早い話、そうなります。介様から見て右手側がＹＥＳ、左手側がＮＯになっているはずです。介様がＹＥＳを押せば、今この体にある介様の意識が現実世界にある本来の体の中へ戻ります。現実世界に戻っていただければ、私の説明もすんなり受け止めていただけるはずです』

「……これ、僕が選ぶんだ。あなたは僕を、その……現実世界に連れ戻しに来たんじゃないの？」

　徐にそう訊ねると、彼女はしっかりと首を縦に振った。

『はい。もとより私の目的は、被験者である介様を守ることであって、介様を連れ戻すことではないので』

　なるほど。つまり僕を守る最も手っ取り早い方法が、連れ戻すこと……。

『介様がＹＥＳボタンを押さない、この世界から出ないというのであれば、私は別の手段をもって目的を達成することに努める所存です』

　別の手段……なんだか物騒な予感がする。ＮＯを押したらいきなり彼女が暴走しはじめそうで怖い。

　だけど求められているハードルは存外高くなかった。ただ僕がこのＹＥＳボタンを押せばいいだけのこと。

　だとしても、不安が募（つの）りすぎてまったく気が進まない。

「ちょっと、分からないんだけど……なんで僕の意志が必要なの？　もうここまで接触してるなら、無理やりにでも、その……現実世界、に連れていけばいいんじゃ……。その方が、あなたにとってもいいと思うし……」

　まず疑うべきはこれまでの彼女の話の真（しん）偽（ぎ）だけど、僕はこの世界に脳内に人が入り込むなどという技術が存在するなんて聞いたことがない。

　というか、今まで目を通してきたネット記事にそんな記載を一切見た覚えがない。まあ、僕の見聞（けんぶん）が浅いだけと言われたらそれまでだが。

　けど今、電話という手段を用いて頭の中に入ってきた彼女と、僕はこうして実際に話している。正直、彼女の話に現実味は欠片も感じない。

　でもそれを言ったら、僕と彼女のこの現状だってそうだ。傍目にはおかしいけど、確かに目の前で起こっている。

　それ故に、彼女が口にする数々の言葉には表現しがたい説得力がある。

　だから、もうこれ以上彼女の話に疑いをかけるのは……。

「それに……僕を狙ってるやつが、この世界に来てるみたいだし……」

　でも、ひとつだけはっきりと、これに関しては現実味がないと言い切れる。というか普通に考えて、僕を狙う理由が分からない。

　ましてやメリットなんてない。金持ちでもないしイケメンでもないし才能とか地位とかないし、その他秀でたものなんて一切持ってない。

　髪は飾り気のない黒い短髪。今まで親戚以外から顔で褒められたことは特になし。

　身長は今年も一七〇センチを超えられず一六八センチで、とある界隈だと人権がないらしい高校三年生の僕。体重は四八キロで体育の先生に痩せすぎだと言われた。

　高校入ってからは一人暮らしをしてる伯母（おば）の孝（たか）子（こ）さんの元でお世話になっていて、もちろん金銭の余裕なんてない。

　けれど彼女曰く、こんな僕を狙ってる奴がいるらしい。一応その事も交えて訊（たず）ねてみると、彼女は徐に口を開く。

『私がこの選択を介様に委（ゆだ）ねる理由はひとつ。この世界との別れをする覚悟があるか否か』

「……覚悟……」

『はい。ここで私が、介様の意志を無視して連れ戻すことはできます。しかし、長い目で見れば、介様が納得して現実世界に戻ることを選択する方が良いと、そう思った次第です。無理やり現実世界へ引き戻して介様といらぬ論争になり、信頼や機嫌を損（そこ）なってしまうリスクを避けるための』

「配慮……て、ことだね」

『仰る通りです』

　理由はどうあれ、この選択があるという事はいずれこの世界とお別れの時が来るのだろう。それが何を意味するのか、まだ今の段階で理解できてないのがむず痒いところだ。

「ちなみにこれってどうやって押すの？」

『指の腹を介様自身に向け、選択肢のある位置に持ってきてください。その向けた指紋を徐々に近付けていけばいずれ選択ボタンが反応します』

「あぁ、逆なんだ……」

　そんな押し方だとは……。いやこれ絶対今の時代にないと思う。

　しかし、ふと気付いたけど、このウインドウ画面も彼女同様に首を振っても視界中央から外れない。

　試しに手で振り払ってもみたが、その手はウインドウ画面と彼女の後ろを通過するだけ。

　指の指紋がある方をこちらに向けて押す。なんか考えすぎて少し歪んだ産物感が否めないが……ちょっと試しに、ＮＯの方を……

「何してんの？　お兄ちゃん」

　指をこちら側に向けた直後、聞き慣れた声が僕の鼓膜を震わせた。

　振り向けば、ウインドウ画面と彼女が被っていても……夕日に照らされている綺麗な茶髪、襟足付近で結（ゆ）われたツインテールがちらりと見えただけで、そこにいるのが楓（かえで）だと分かった。