第2話

 メラル砂漠を耽美な薔薇色に染めながら太陽が昇る。アイシャはベッドから起きだして大桶を担ぎ、白い漆喰の家が濃い影を落とす曲がりくねった階段を駆け降りてゆく。この時期はすっかり干上がっているナズール河を渡る途中、羊の群れを連れた羊飼いの少年に手を振る。


 オアシスの井戸は町の共有資産で、住人は一日三回まで水を汲み上げることができる。井戸の傍に立て札があり、水を汲む人の絵と「3」という数字が書かれていた。


 井戸にはすでに女たちが並んでいた。アイシャの順番がやってきて水を汲み上げる。オアシスの水は泥水でとても飲めるものではない。それを石と砂を使って濾過すれば透明に澄んだ飲み水になる。

 桶一杯に水を汲み、町へ戻ろうとしたとき門の脇に男が倒れていることに気がついた。襤褸を纏う男は衰弱しきっていた。アイシャは恐る恐る男に近寄る。


「大丈夫ですか」

 しゃがみこみ、フードを被った男の顔を覗き込む。思ったよりもまだ若い。おそらく自分より二、三歳年上だ。ズタ袋ひとつ担いだ旅路の最中、ここで力尽きたようだ。

「やめときな、アイシャ。そんな浮浪者に関わってもろくなことないよ」

 肩に桶を二つ担ぎ家に戻る途中のカイラが背中から声をかける。彼女は子供を六人養う豪気な母親だ。


 メラル砂漠を放浪し、オアシスに辿りついた旅人が行き倒れになることがある。井戸は朝以外は重い石の蓋で閉じられ、三人の力が無ければ開けることができない。野党や浮浪者が井戸の水を勝手に飲めないようにする対策だった。

「でも、この人まだ生きています」

「勝手にしな、面倒を持ち込むんじゃないよ」

 困惑するアイシャを尻目に、関心の無いカイラは門を抜けて去って行く。


「水、水をもらえませんか」

 男が身じろぎする。アイシャは桶の水を掬い、男の口元へ当ててやる。かさかさに乾燥した唇に冷えた水が触れた途端、男はアイシャの手首を掴み、一気に飲み干した。アイシャはもうひと掬い水を与える。男は砂糖水でも飲むように美味そうに喉を鳴らして飲み込んだ。


「ありがとう。生き返ったよ」

 男は麻布のフードを脱いで顔を見せる。メラルツグミの羽根のような艶やかな黒髪、輝きを取り戻した黒曜石の瞳、朗らかな笑みを浮かべる唇。介抱のために顔を近づけていたアイシャは慌てて身を離した。意図せず胸がどくんと高鳴る。

「ぼくはカルロ。旅の途中でラクダに逃げられて砂漠を三日間放浪してここに辿り着いたんだ」

 カルロの声は砂漠地帯の乾燥にやられて幾分掠れている。


「私はアイシャ。無事で良かった」

 頬をほのかに紅潮させ、アイシャは立ち上がる。咄嗟に助けたものの、余所者の彼にこれ以上施しを与えることはできない。

「あ、待って」

 カルロは石壁を頼りに立ち上がる。アイシャより頭ひとつ分背が高い。襤褸を纏っているが、その服装は街に住む裕福な商人にひけを取らないものだった。気後れするアイシャを前に、カルロは腰につけた皮袋を探っている。


「これをお礼に」

 カルロが差し出したのは金色に光る薄い板だ。長方形で唐草文様の透かしがデザインされている。朝陽を反射して光る美しい金板の緻密な細工にアイシャは心を奪われる。

「まあ、素敵。でも、こんな高価なものをもらえない」

「君は命の恩人だから。旅の途中でこんなものしかないけど、君にあげる」

 カルロは白い歯を見せて笑う。


 カルロに押し切られて受け取った金板をアイシャは大切にポケットにしまった。二度目に桶に水を汲みにきたときにはカルロの姿はもう無かった。水を与えたおかげで歩く気力が戻ったのだろう。もう一度会いたいと密かに思ったが、これで良かった。彼はこの町の人間ではない。関わり合わない方が良いのだ。


***


 サルマは十四歳のアイシャがこの先一人でも生きていけるよう、機織りの技術を仕込んでくれている。アイシャはサルマの母も使っていた年代ものの機織り機の前に座り、色鮮やかな絹の縦糸と横糸を紡いでいく。アイシャにはまだ複雑な文様を織ることができない。いつかサルマのように頭に思い浮かべた図柄を布の上に表現することが夢だった。


 ベッドの二つ並んだ寝室にはサルマが織り上げた広いタペストリーが掛けられていた。月の輝くメラル砂漠の丘陵を行く商隊を描いたものだ。ラクダに乗る商人たちの隊列が月明かりに照らされ、砂上に影を落とす。複数の青い糸を緻密に組み合わせ、月夜の空の蒼を変化する色調で表現した芸術品だった。貴族の屋敷へ納品される予定の品だったが、完成度を見て気が変わったサルマは売り渡すのを止めたのだった。


 完成した織物を持ってアイシャは都市の中心部にあるバザールへ向かう。いつも織物を買い上げてくれる叔父の店がある。バザールは狭い通りの両脇にいくつもの店が軒を連ね、毎日活気に溢れた賑わいを見せる。入り組んだ通りを歩き終える頃には必要な日用品はすべて揃う。

 叔父の店で扱うのは鍋や皿などの金物だが、サルマの織物も店頭に並べてくれる。丁寧で質の良い織物はよく売れると叔父も喜んでくれていた。

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