風とともに歩くもの

雨の中の森にて

 わたしたちを乗せてきたおんぼろバスが、強さを増そうとする雨の中に消えていく。


 舗装すらなされていない地面はぬかるみ、バスがつくり出した轍は水たまりで見えない。


 今にも崩れてしまいそうなちっぽけな小屋の前には、サビまみれのバス停があった。


 それを見ていると、口からため息がこぼれてくる。今置かれている状況を直視したくない。夢であってほしかった。


「あまね!」


 あまねに掴みかかると、あまねはきゃっという声を発した。


「どうしてそう考えなしに動くのですか!?」


「あはは……」


 それだけ言って、あまねが目線をそらす。その先にあるのは、バス停に貼り付けられ、風雨に揺られた時刻表。


 そこに書かれているのが本当であれば、先ほど去っていったバスが今日最後のバスだったらしい。


 つまり、わたしたちは帰る手段がない。


 近くには町も村も宿すらなく、いわくつきの湖があるだけの辺鄙な場所に、わたしたちは取り残されたのだった。




⭐︎⭐︎⭐︎




 ことの発端は、七時間とちょっと前に放たれたあまねのこんな言葉からだった。


「そうだ、湖に行こう」


 椅子から立ち上がるなりそう言ったのはあまねだ。いつもの個室にいたわたしは、個室にいるのをいいことに、勤務時間に大学の課題を解いていた。


 あと数日で夏季休暇が終わりを迎える。終わってないのは課題だけである。……そもそも、始まってすらいなかったのだけども。


 現実から目を背けて、あまねの方を見る。その手に握られているのは、うさんくさいオカルト雑誌月刊モーである。


「また、変な話を見つけたのですか」


「変な話ってなにさ、興味の惹かれる話だよ」


 あまねが厚い雑誌を開き「見て見て」とわたしへと突きつけてくる。インクの匂いが鼻につくほどの距離だったので、逆に読みづらい。


 わたしは雑誌を受け取って、紙面に目を走らせる。


「えっと、天雲村ですか」


「そそ。この村なんと、一夜にして湖の底に沈んでしまったという村でね。未だに原因がわかってないんだってさ」


「洪水でもあったとか」


「ってことになってるが、そんなのおかしいでしょ。いくら雨が降り続くからって、一晩で何十メートルも水が溜まるだなんて、どこもかしこも湖だらけになっちゃうじゃん」


「……何か土地に問題があったのでしょう」


 興味をなくしてしまっていたわたしの意識は、プリント上の大問へと戻っていた。だけども考えても考えても、答えは思いつかない。


「水はけが悪くて、もともと温泉が湧き出てた村らしいが、それでも何か感じるわけですよ、この鼻が!」


 ちらりとあまねの方を見れば、鼻をひくひくさせている。


「病院に行った方がいいですね、たぶん。慢性鼻炎でしょうから」


 そう言ったら、ムキ―っと声を荒げたあまねに叩かれた。彼女の細腕から繰り出された一撃はそれほど痛くなかった。


「何さ、怖いの?」


「はあ? 何言っているのかわからないのですけども。怒るとか怒らないとかそういう問題ではないでしょう」


「あー怖いんだ。何か得体のしれない存在がいるんじゃないかってビビってるんだ」


 ぷぷぷとあまねが口元を押さえて嘲笑ってくる。バカにしたような顔を見ているだけで腹が立ってきた。腰が浮きそうになって――いかんいかんと自制する。


 前もこんなことがあったではないか。あの時は、光の中に飛び込む羽目になってそれで。


 苦々しくも酸っぱい液体がこみあげてきて、わたしは口元を押さえる。


「大丈夫?」


「……平気です。とにかく! 行きませんから」


「そんなあ」


 眉を伏せたあまねが、少しして、何か妙案を――あるいは悪いことを――思いついたかのように顔を輝かせた。


「あ、じゃあ、店長に言いつけちゃおっかなー」


「わかりましたついて行きます」


 わたしは即答した。この割のよい仕事を失いたくなかったのである。



⭐︎⭐︎⭐︎



 そういうわけで、わたしはあまねとともに、天雲村近くのバス停へやってきた。……その結果、雨の中、薄暗い山の中に取り残されることとなった。最悪だ。


「何か言いたいことはありますか」


「もしかして、わたしは殺される……?」


「殺しはしませんよ、殺しは」


「何その含みのある言い方は、怖いんだが!」


 肩を震わせているあまねは放っておくとして。わたしは周囲を見回す。


 あたりは草木生い茂る大自然が広がっている。ねずみ色した分厚い雲のせいで、あたりは暗いだけでなく、まとわりつくような湿気が漂っていた。バス停の先には道が続いていたけれど、じきに細くなり雑草生い茂る獣道へと変わった。


 たぶん、人の出入りが減ってからかなり経過している。となると、この辺りに人はいないってことで、ホテルはおろか民宿もない。民家すらないだろう……考えただけで頭が痛くなってくる。


「今日はここで野宿……」


「ヤダよそんなの、蚊に刺されちゃうじゃん」


「あまね?」


「な、なんでもない」


 あまねが、心なしか距離を取って、きょろきょろとする。別に殴ったりしないのに。


 そうやって、周囲に民家の一つくらいないだろうかと目を皿にしている間にも、雨脚は強くなってくる。天気予報では、雨が降るとは一言も言っていなかったと思う。


 スマホを取り出して天気予報を確認しようとしたら、なかなか更新されない。電波が入りにくい状態にあるようだ。


「スマホ繋がります?」


「いいや、私のもつながらないな。これではゲームできないや」


「……余裕あるところ悪いのですけれども、ちゃんと探してくださいね」


「わかってるって。おや?」


 あまねが森の一方を指さした。その先を見れば、茂みの中に道が続いていた。その道は、森の中へと続いているらしいけれど、それよりも。


 黄色の服を着た人が歩いていた。目の覚めるようなビビッドイエローのレインコートが木々の間に消えていく。


「待ってください!」


 わたしは傘を差し、その人が見えた場所まで駆ける。


 たどり着いた時には誰もいなかった。木々を縫うように伸びていく道だけが、そこにはあった。


「いきなり走り出してどうしたのー」あまねが悠長に歩いてくる。「あの人が危ない人だったらどうするんだい」


「でも、この辺の人かもしれないではないですか」


「そりゃあそうかもしれないけども。お、ここ登山道なのかい」


 道の脇には、今にも朽ちてしまいそうな木製の看板が転がっていた。かすれていた文字を読んでみるに、目の前の道は登山道らしかった。


 文字以外にも地図があったが、これまた劣化がひどく、かろうじて読めたのは天雲岳と神社という文字であった。


 わたしの隣に立って看板を眺めていたあまねが、あっと声をあげた。


「たぶんこの神社って、天雲村が湖に沈んだ際に唯一生き残った人がいたっていう神社だよ」


「へえ」


 道は幹の太い木を迂回するように伸びており、その先がどうなっているのかはわからない。


 だけども、じとっとした空気が、何とも気持ちが悪い。何か、わたしたちの知らないものが待ち構えていそうな妖しい雰囲気が、そこにはあった。


「追いかける?」


「……止めておきましょう。怪我しますよ」


 わたしはあまねを上から下まで見る。今日の格好もまたセーラー服だった。いたるところが破けたそのセーラー服は、虫に刺されないための長袖なのにその破れたところからは色白肌が見えた。そのほか長いストッキングとハイカットスニーカーを履いている。


 いつもよりかは動きやすそうだけど、歩きなれてないのか、その足取りは頼りない。


「バカにしてるでしょ。私だってねえ――」


 意気揚々と歩き出したあまねは、次の瞬間にはぬかるみに足をとられて、転びそうになっていた。


 わたしは頭を押さえる。これじゃあ、登山道を登るのなんて絶対ムリだ。

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