第18話 憤怒


 冨嶽武は拳を振り上げる。殴る為ではない。病室の扉を叩き、入室の許しを得る為だ。しかし、冨嶽は動かない。人差し指の関節を僅かに抜き出したまま、立ち尽くす。


「六徳……」


 軽快なノックの音を鳴らすことは簡単だ。どうぞと言われるがまま部屋に入ることも難しくない。人を癒やす美しい日本語は星の数より存在する。だが、それは彼の為になるのか?母親を守れなかった罪悪感を押し付けようとしているだけではないのか?


「……すまない」

 

 守れなかった。すれ違った息子を誇らしげに語る母親はもういない。再会すれば一瞬で消えたであろうつかえを残して親子は永遠に別れた。冨嶽は熱くなる目頭を指で抑えた。どの傷よりも胸の奥が深く痛む。死に目にすら会えなかった六徳はこの比ではない。静かに踵を返した時、一人の女性が目に入った。


「冨嶽警部補、どうかされましたか?」


 事務的な声を放つのは葛城加蓮。相変わらずの無表情は北欧ゆかりの美貌で絵画のように見える。冨嶽は思わず目を逸らした。初な若者のように見惚れたわけではない。彼女には昨日、銃を向けられた上に警棒で殴られている。非は自分にあるので怒りはないが、気まずさを覚えた。一方の葛城は歩みを止めず、こちらへ悠然と近づいてくる。


「こちらこそ聞きたい。何しに来た」

 

「六徳巡査の様子を見に来ました。先約でなければ扉の前から動いてください」


 冨嶽まであと一歩のところまで迫り、葛城はようやく動きを止めた。静寂が廊下を包み込む。しばらくすれば、葛城は冨嶽を蹴り飛ばしてでも中に入るだろう。息を深く吸い込み、吐き出すように冨嶽は口を開いた。


「一人にしてやろうとは思わないのか」


「それは現時点で判断できません」


 絞り出すような言葉に葛城は間髪を入れず返した。


「人であろうと、ゴーストであろうと、立徳巡査が持つ思考のフレームワークはおおよそ私達と変わらないでしょう。コミュニケーションの手法は対人間と等しく考えるべきです。貴方の言う通り一人にしてほしいと思うかもしれないし、逆に寄り添ってほしいかもしれない。本人にしか分からない思考を考えることは時間の無駄です。彼の為にできるアクションを考えるには、まず顔を見たほうがいいと思います」


 流暢な長話に冨嶽は何も言わず横に退いた。気圧されたわけではない。口調こそ機械的が、葛城の言葉は思いやりに溢れている。ただ、かつての自分を思い出さずにはいられなかった。弟の話を一切聞かず、冷たく突き放した自分を。彼女のように顔をよく見ていれば、手遅れにならなかったかもしれない。願って届かない過去。しかし、未来は切り開くことができる。ノックをし、返事を待たず扉へ手をかけた葛城の後ろに続く。


「冨嶽警部補。同行は構いませんが、可能な限り笑顔を心がけてください。ハーフ美女の私と違って貴方には威圧感があります」


 結構な物言いに冨嶽は思わず苦笑する。どうやら思いやりの宛先は限られているらしい。扉を開き、病室に入る。見えたのは物言わぬ六徳花子。その頬を冷たい風が撫でている。大きく開けられた窓からカーテンのなびく音が誰もいない病室にひっそりと響く。


「あの、馬鹿野郎!」


 冨嶽は慌てて病室を飛び出す。こつ然と消えた六徳優。彼がどこにいるかはわかりきっていた。


 

 ――――――

 

 鳴寺華糸は息を呑む。勤続2年目の交番警察官、そのプロファイルは六徳の脅威を測るにあたって何の意味も持たなかった。彼の目で燃え上がるような憎悪の炎。瞬き一つせずにこちらを見つめる視線は兵器の照準に見えた。引き金が絞られる寸前の銃、学校で教師に叱られた後の一人っ子達、仕事から帰ってきた後の母。奴らは自分を狙っている。こちらに向けて足が歩を進める度に鳴寺は心臓の鼓動が一段高くなった。今この瞬間にも銃弾が放たれる。真冬の川に落とされる。罵詈雑言で存在を否定される。鳴寺は大きく震え上がった。かつての痛みが脳を焼く。心臓に泥がついたような焦燥感に囚われ、声なき悲鳴が喉までせり上がった。鳴寺は知っている。対処法はただ一つしか無い。


「殺す!」


 轟音が鳴り響く。爆発するかのような震脚は大理石を踏み砕いた。力の濁流に身を乗せ、鳴寺は六徳との間合いを詰める。攻撃の隙は与えない。落雷のような斬撃で胸を裂く。抉れた肉から血飛沫が吹き上がり、無数の生暖かい粒が顔に張り付いた。かつて母の口を永遠に塞いだ一撃。その直後、鳴寺は震脚をもう一度叩きつける。生命の息吹がまだ途絶えていない。


 八極、落肘。


 裂傷を曲げた肘で打ち下ろす。生暖かい感触と共に千切れた肉が崩れ落ちた。かつて共産党の御曹司が泣きわめいて両手を上げた技。恐怖を確実に断つには、あの時と同じことをすればいい。


 八極、鉄山靠。


 振り終わりの体制、背中全面を使った渾身の一撃。六徳は血と肉を零しながら空を舞い、地に転げ落ちる。鳴寺はそれまで息を止めていたかのように息を吐き出した。他人は生きている限り自分を殺そうとする。殺さなければ生き残れない。だからこそ、六徳優がゆらりと立ち上がった時は心臓が凍りつくかと思った。


「殺す、殺す」


 鳴寺は銃を抜き、素早く放つ。胸に二発、銃創で体が強張ったところで頭に一発。かつて自分に銃を向けてきた殺し屋の大半は同じ目にあった。頭から血が流れば人間は立ち上がれない。つまり、倒れずに歩き続ける六徳は人間ではないようだ。


「死ね! 頼むから死んでくれ!」


 鳴寺は半狂乱になりながら乱射する。全ての銃弾は六徳の上半身を貫いたが、彼の歩みは止められない。銃弾が尽きた時、彼は白兵戦の間合いにいた。リロードは間に合わない。拳銃を捨てて、掌をまっすぐに伸ばす。

 

 八極、開拳。


 掌底による発剄。傷口に押し込んで追い撃ちをかける。その一手は血まみれの手に掴まえられた。鳴寺は咄嗟に振り払おうとする。死に損ないの抵抗、簡単に解けると思っていた。しかし、血に濡れた握り拳の力は強く引き剥がせない。肉が圧され、骨が軋みの悲鳴を上げる。痛みに喘いだ時、六徳の体が勢いよく背後に倒れた。


 柔道、一本投げ。


 自らが放った技の威力に比例して投げ出された鳴寺は地面を転がる。訳もわからず動転する世界。満点の星空に照らされながら、コンクリートの凹凸が体中に突き刺さる。衝撃で痙攣する体。何が起きた? まだ反撃する力があるのか? 何度ももんどり打ってようやく起き上がると目の前に六徳が立っていた。


「教えてくれ」


 月明かりに照らされた男はゆっくりと足を振り上げる。おびただしい出血が頬に垂れ、不快な粘り気に襲われた。


「何で母さんを殺した?」


 男は伸ばした足を勢いよく振り下ろす。鳴り響く甲高い音。殺意のこもった一撃を横に躱すと同時に鳴寺は起き上がる。間髪をいれずナイフで膝を斬る。ぱっくりと皿が割れて男は片膝を地につける。刹那、鳴寺は燕返しで首を斬った。狙いは大動脈。最適な角度をつけられた刃は太い血管を両断する。


「ははっ、これでやっと死――」

 

 瞬間、鈍い衝撃と共に目の前に星が広がった。顎に食らったスカイアッパーは威力以上の衝撃を鳴寺に与えた。何故、反撃を受ける? 鳴寺は混乱した。真冬の山に裸で放り出されたような寒気が胸から手足の先まで広がる。全身の震えは足から始まった。小刻みに激しくなる呼吸。腹から喉元まで迫り上がる吐き気。そのどちらも必死に抑えつける。


「何で……、何で……」


 何で死なない? 人は死ぬはずだ。恐怖と共に葬れるはずだ。同級生を山に埋めたように、家族を海に捨てたように。数多の標的を銃で撃ち、ナイフで斬ったように。男から放たれる正拳突き。鳴寺は横に身を引いて躱すと同時に彼の腕にナイフを添えて一直線に裂いた。指先から肩の付け根まで真っ赤に染まり、男の体が強ばる。直後、鋭い刺突がその胸へと放つ。鋭い先端は皮膚を破り、肉を掻き分け、骨を避けて、心臓を貫いた。柄に伝わる生々しい鼓動。死んだ。確実に死んだ。ありったけの温水を張った湯船に浸かるような安心感が湧き上がる。思わず笑みをこぼす鳴寺。


「いいから教えろ」

 

 その顔面に固く握りしめられた拳が突き刺さる。直撃を受けた殺し屋は血を噴き出しながら、後ろへと崩れる。その胸ぐらを捕まれ、再度地面へと叩きつけられる。必死に受け身をとった鳴寺が見えたのは六徳の胸に刺さっていたはずのナイフ。無造作に放り投げられたそれは血の粒と共に床を跳ねた。ぽっかりと空いた胸から血の涙を流しながら、男はこちらを睨みつける。まるで鎌を持った死神のように。


「なんで母さんを殺した! 俺の家族が、お前たちに何をしたと言うんだ!」


 怒鳴られた鳴寺は涙をボロボロと流す。男は死なない。脳を銃で撃とうが、心臓を刃で貫こうが。歩みを止めることはしない。逃げる方法はただ一つ。手榴弾を取り出し、ピンを抜くと同時に安全レバーから手を離す。男は死なないだろうが、鳴寺は死ねる。全てを諦めたように息をついた瞬間、六徳は裏拳で手榴弾を弾き飛ばした。不死にもかかわらずなぜ防ぐのか。それは分からないが、とにかく胸ぐらの拘束は解かれた。


「来るな! 来るな!」


 獣のような絶叫と共に体の向きを変え、芋虫のように這ってビルへと駆け込む。まだ自分には天道がいる。彼の隣にいれば傷つくことはない。その背中を六徳優は再び追いかけ始めた。


 ――――――


「それでは皆様、しばしご歓談を」


 演説という名の脅迫を終えた加害者は深々と頭を下げる。被害者はそれを見て拍手喝采を巻き起こした。彼らの多くはもう戻れない。子どものころは褒められただけで笑顔になれただろう。今では見知らぬ人々の感謝など眼中にない。若い異性に入れあげたり、必要な生活スペースより遥かに大きい家を買ったり、広告代理店に洗脳されて高級ブランド品を買い漁る方が幸せだ。恋愛主義、ロマン主義、消費主義。誰かが作った限りない欲望に熱中して走り続ける。冷静になってはいけない。立ち止まってはいけない。ともすれば、人を殺した自分と向き合わなければならないから。それが出来ないから彼らはここにいる。


「相変わらず話が上手だね、天道君」


 媚びた笑みを浮かべる中年男性、黒崎もその内の一人だ。元々は仕事一筋の真面目な警察官。元々は病気の妻を治療するために悪魔へ魂を売った。罪悪感の涙を浮かべながら、必死に頭を下げる姿は今でも覚えている。今では喜んで尻尾を振り、得た金で女を買い漁る色狂いの犬だ。


「いえいえ、まだ勉強中の身です」


 これは真実だった。心理学の論文を絶えず読み、演説は校正と練習を重ねて、聴衆の反応は必ず録画して効果を検証する。インプット、アウトプット、フィードバック。人から天才と呼ばれたければ、ひたすらそれらを繰り返せばいい。演説であれ、経営であれ、戦争であれ、成功に必要なToDoリストの本質は全て同じだ。


「君が謙遜をすると嫌味にしか聞こえないよ、全く」


 凡人はすぐに言い訳をする。つまらない人生を送っているのは自分のせいではないと常に叫んでいる。それで幸せになれるのなら、いつまでも犬のように吠えていればいい。弱い心は操る側にとっては好都合だ。天道はにっこりと笑って、黒崎のグラスにワインを注ぎ込む。


「ああ、ありがとう。気が利くね。うちの若いものに見習わせたいよ」


 自分が部下の立場なら絶対に気は使わない。天道はロートルの長話が始まる前に立ち去ろうとする。しかし、一度火がついた中年男性は行く先を片手で塞いで若者を逃さない。


「そうだ。今、病院に公安の奴らが来ているだろう? 彼らの対処は私に任せてくれ」


 天道は足を止め、微笑みを絶やさぬまま黒崎に向き直る。奥歯を噛み締めながら。


「対処、といいますと?」


「機動隊を要請した。テロリストに病院が占拠されているといってね」


 天道はため息を口の中で抑えつける。悪手だ。余計なことをしやがって。


「彼らは私を殴りつけるほど正義感が強い。機動隊に手出しは出来ないだろう」


 誇らしげに語る黒崎は何もわかっていない。雲霧優と工藤正親の一派が違法捜査を行えるのは強力な権力の後ろ盾があるからだ。下手に無関係の警察を動かそうものなら、堂々と権力を使う理由を与えるようなものだ。機動隊は恐らく警視総監の一声に止められる。命令に逆らうような厄介者が機動隊の管理職にいれば話は別だが、夢は寝て見るものだ。起きているときに見るものではない。


「万が一、失敗したときのケアも万全だ」


 一が一、だがな。


「正面から機動隊が突入するのと同時にメサイアの兵隊を裏口から侵入させる。挟撃で奴らは一網打尽だ」


 メサイア。表向きは新興宗教団体、実態は半グレ組織だ。規模は大きく、山童をはじめとした多数の殺し屋を擁している。戦闘能力は高いが、相手は公的機関の特殊部隊だ。ポレヴィークに出来なかったことを達成できるとは思えない。


「それは……、それは……」


「どうだ。こういう作戦は俺に任せるべきだろう?」


 何もしなければ、雲霧はいつか来るかもしれない敵に備えるしかなかった。しかし、襲撃が始まれば雲霧は病院防衛に必要な戦力を計算できるだろう。余剰の人員が向かう先はただ一つ、この場所だ。襲撃の根を断つ為、雲霧は必ずやってくる。


「そうですね。ありがとうございます」


 天道は黒崎が乾杯しやすいようにゆっくりとグラスを掲げた。全てが順調に進んでもつまらない。自分は優秀すぎる。馬鹿に振り回されるぐらいのハンディキャップがなければ敵が可哀想だ。

 それに雲霧優と会える。それだけで黒崎の作戦には価値がある。


 ――――――


 悲鳴に似た音と共に窓を突き破って鳴寺は室内へと倒れ込む。全身がガラス片に切り刻まれ、血まみれで崩れ落ちる。しかし、鳴寺は気にしない。真っ赤な手でガラス片をかき分け、ひたすら這う。荒い息をひたすらに吐いていると、異常事態を聞きつけた黒服の護衛が集まってきた。


「鳴寺秘書? なぜ……」


 敵対組織が乗り込んできたと思っていたのだろう。殺気立って現れた集団はたちまち困惑で立ち往生した。だが、それも束の間。ガラスが消えた窓を見て一斉に身構える。恐怖の色が浮かんだ視線の先には一人の男。振り向けば、照準のような瞳を光らせる六徳が立っていた。

 普通なら致命に至る己の傷に顔色一つ変えない。ぐちゅりと耳を塞ぎたくなるような湿った音を立てて一歩、また一歩と進み続ける。


「止まれ!」


 揺るぎない殺気を護衛達は宣戦布告と受け取った。一人が六徳へと肉薄し、右拳を突き出した。だが、当たらない。六徳は左斜めに身を屈め既で躱すと右肘を首の付け根へと叩き込む。崩れ落ちる黒服。後続の一人がアッパーを構える。直後、黒服に六徳の右拳が深々と突き刺さって宙へと放り飛ばされた。

 振り切った隙をついて、三人目の黒服が回し蹴りを打つ。六徳は避けない。避けずに胸ぐらを掴んで、軸足を蹴る。バランスが崩れると同時に手を放つ。バランスを失った体は大理石に衝突して、鼻の骨と歯の何本かが折れた。血まみれの顔を抑えてもんどり打つ黒服。苦痛の訴えに一切背を向けず、六徳は何事もないかのように歩調を緩めない。


「泣くなよ」


 鳴寺は慌てて立ち上がろうとしたが、すぐに手が床をつく。腰が抜けて足で歩くことが出来ない。這ったままエレベータホールへと向かう。その後ろでナイフを引き抜く音が聞こえた。


「母さんは泣かなかったよ」

 

 黒服の一人が刺突を放つ。狙いは喉。だが、届くより先に男のフックが手首を捉えた。ぱきりと骨が割れる音。黒服はナイフを手放しながら、悲鳴を上げて顔を苦悶に歪める。そこへ襲いかかる燕返しの裏拳。こめかみを打ち抜かれ、ふらふらとよろめく黒服。その後ろから4人の黒服がナイフを持って迫る。

 六徳は先頭の胸ぐらを掴み、勢いよく引き寄せて即座に突き放す。後続の三人は仲間の体を躱したが連携はそこで崩された。一人は右側から首に、一人は左側から脇腹に斬撃を放ったがタイミングが僅かにずれる。斬撃をかわし、振り終わりの手首を掴む。六徳はそれを2回繰り返し、掴んだ手首を交差するように重ね合わせる。そして上から押し込むと同時に下から膝を叩き込む。まんべんなく伝わった衝撃に黒服達は手首を開き、武器を落として怯む。

 六徳はすかさず二人の頭に手を添えてシンバルのようにぶつけ合わせた。骨が鳴り、二つの意識が同時に消える。瞬間、真正面から一人の黒服が刺突を放つ。攻撃直後の隙。避けられない一撃。肉をかき分ける生々しい音が綺羅びやかなビルに響いた。


「助けて……、助けて……」


 エレベータホールに辿り着いた鳴寺は壁を伝って昇降ボタンを叩きつける。聞き心地のよい機械音。それをかき消すように人が床に叩きつけられる音とうめき声が交響する。肩を震わせて振り返る。そこには六徳が立っていた。左手をナイフに貫かれながら男は照準のような瞳を鳴寺から外さない。


「来るな……、来るな……」


 男の背後から数人が拳銃を構える。同じ標的に狙いを定めた銃口が次々と火を吹いた。放たれる銃弾の雨は男の後頭部と背中へと降り注ぎ、血と肉を壁や床に撒き散らしていく。だが、六徳は倒れない。ボロボロの足で立ったまま首だけを振り返らせる。


「雑魚に用はない」


 静寂。武闘派の極道はたった一睨みで動きを封じられた。弾切れになった銃を握りしめたまま足を震わせる。理を超えた化け物は存在そのものが脅威だ。怖い。怖い。近づかれただけで全てを奪われかねない。

 瞬間、エレベータの分厚い扉が開いた。這いつくばりながら飛び込み、最上階と閉のボタンを必死に叩きつける。呑気な女性のアナウンスと共にのろのろと閉まる扉。その隙間を縫うように血まみれの男が飛び込んできた。


「あ……、あ……」


 逃げる場所はない。胸ぐらを掴まれて、立ち上がらせられる。目線が合わせると、照準がよく見えた。怖い。怖い。時計の針が巻き戻る。指を指して追いかけてくる同級生から逃げていた子供の頃に。母の恨み言を涙を浮かべながら耐えていた。兄の蔑みに憎しみを覚えていた。父の隣に助けを求めていた。思い出しくもない、忘れていたい、それでいて脳裏にこびりついて離れることのない記憶が鮮明に浮かぶ。


「やめて……」


 懇願に返されたのは本気の拳。頬が潰され、骨が歪み。歯は割れた。口と鼻に鉄の味が広がる。短い呼吸と同時に血が捻られた蛇口のように吹き出る。それでも、男は再び拳を振り上げた。二度、三度。何度も暴行は繰り返された。胸ぐらを掴まれて倒れることも出来ずに何度も。


 ――――――

 

「色並署の黒崎が機動隊を要請しました。私達をテロリストに仕立て、攻撃させるつもりです」


 藤宮からの報告に雲霧は顔色を変えない。しかし、口ではこう言った。


「愚かなことを」


 雲霧は一条の手に触れた。その手には新しい止血帯。胸から上の傷は処置されておらず、出血は続いている。一条はしばらく手を止めていたが、やがて止血帯を医療キットに戻した。今にも泣きそうな瞳からは非難の声が聞こえてきそうだが黙殺する。血が出ていた方が後の展開に好都合だ。一条の髪をさらりと撫でて、雲霧はゆっくりと立ち上がる。

 

「管理官には連絡済です。今ごろ警視総監から撤退命令が出ているかと」


「よくやった、ありがとう」


 天道なら藤宮の対処は予測できただろう。無関係の警察を巻き込んで不利になるのは中世期グループだ。彼はそれが分からぬほど愚かでない。裏の狙いがあるのか、それとも黒崎誠の暴走か。どちらにせよ次に取るべき行動は決まっている。


「拳銃を構えてください。ただし、引き金には手をかけないよう」


 藤宮と一条は怪訝そうな顔を一瞬見せたが、周囲の部下と共に命令に従った。直後、床を踏み鳴らす戦闘用ブーツが地を鳴らす。完全武装の機動隊員が次々と病院のエントランスになだれ込む音だ。安全装置の外れたサブマシンガンを一斉に雲霧たちへ向けられる。引き金には指がかけられ、銃口はかすかに揺れていた。防弾装備ごしでも分かるほど汗を大量に流している。暴発の可能性は低くない。雲霧は静かに部下たちの前へ一歩踏み出した。


 ――――――


 蜂須恵健人は見慣れたオフィスの廊下を走っていた。若々しい動きに老体が悲鳴を上げるが、意に介さない。無線からは悲鳴が混じった防衛ライン突破の報告、そして曲がり角の奥からは絶叫が混じった銃声と怒号。急がなければ。だが、蜂須恵は急に動きを止めた。曲がり角の奥から血まみれの青年が現れたからだ。


「天道はその先だな」


 六徳優。写真で見た彼は真面目な好青年に見えた。今ではその面影もない。全身に負った深い傷からは絶えず血が溢れ、今にも倒れそうだ。しかし、何事も無かったかのように一歩一歩を進み続ける。その目に怨嗟の炎を宿して。


「先には行かせん。災厄は断つ」


 先手必勝。蜂須恵は刀を抜くと同時に突進した。数メートルの距離を一息でゼロにする。六徳はまるで反応できていない。痛みに耐性があろうと、体を両断すれば人は死ぬ。数多の命を奪ってきた袈裟斬りが六徳の肩に振り下ろされる。廊下に反響する金属音、刃は六徳の体を傷つけられなかった。一振りの日本刀に阻まれた刃は屈辱に震える。眼の前に現れたスーツベストの青年を見て、蜂須恵の顔が歪んだ。


「また、お前か!」


 刀の向きを変え、青年の顔に斬りかかる。しかし、青年は六徳の体を押すと同時に自らも引き下がった。斬撃は虚空を裂き、二人の標的は離れていく。

 

「こいつはボスが目をかけている新人なんだ、殺させはしない」


 刀を構えて腰を落とす青年。後ろから足音が聞こえるが、気にかけている余裕はない。背を向けるどころか、意識を逸らした瞬間に自分は死ぬ。無数の修羅場をくぐり抜けた体がそう叫んでいた。


「長かった人生も今日で最期だ、悔いのないように踊れ」


 戦わなければならない。取るべき行動はただ一つ、速やかに青年を斬り捨て、六徳に追いつく。蜂須恵は震える手で刀を構えた。



 ――――――

 

 警視庁第11機動隊長、霜月隼人は左手を掲げる。前方でライフルを構える者達に向けてではない。後方の部下にサブマシンガンを下げさせる為だ。降伏したわけではない。そもそも警戒する必要は無かった。彼らは皆、銃口を自分の顎に突きつけている。


「何の真似だ」


 霜月は恐怖を隠すように低く唸った。人を死地に送り込む立場のせいか、彼らの意識が手に取るように分かる。彼らは誰も機動隊員を恐れておらず、注意の大半を一人の男に向けていた。自害の命令を一言一句聞き逃さない為に。


「はじめまして、雲霧優と申します」


 雲霧優。誰よりも有望された将来を自らの暴力行為によって潰した男はゆっくりと歩いてくる。見るからに重傷、しとどに流れる血が痛々しい。しかし、当の本人は涼しそうな顔をしている。

 

「私は凡人です。彼らには申し訳ないが、血を流さずにあなた達を止める方法はこれしか思いつきませんでした」


 凡人。それが嘘であることは見れば分かる。立ち姿、振る舞い。同じ生物にもかかわらず、格の差が悲しいほど広がっている。敵意を向ければ、少なくとも自分は死ぬに違いない。それでも黙っていられないほど彼の行動が許せなかった。


「部下の命を何だと思っている」


 職務として人の上に立つことは、命を消費する権利を得ることではない。自分の命令で実行した全ての結果に対して責任を持つことだ。忠実な部下を使い捨てるような男に人を率いる資格はない。


「誰でも思いつき、誰もが納得し、誰も危険に晒さない手段。そういったもので人が救えるのであれば、私達は銃を持っていないでしょう」


 真正面からの批判に雲霧は一切の揺らぎを見せない。黒い闇の中で輝く一粒の光。雲霧の目は今まで見た誰よりも澄んでいる。


「道理は人が生み出した儚い幻想に過ぎない。それを現実を変える為、手段は選びません。どれだけのリスクがあろうと、生存確率が最も高い選択をします」


 睨み合いはしばらく続き、霜月は一歩退く。雲霧に気圧されたからではない。彼の部下が霜月の誤りを証明したからだ。彼らは相変わらず恐怖を抱いておらず、雲霧の指示を待っている。能力と人格によほどの信頼がなければ、この連帯感はありえない。彼らは皆、捨て石にされる不安がないから指示を躊躇なく実行する。


「貴方になら理解できるのでは?」


 ――人を死地に送る立場。


「……禅問答をする気はない。こちらが銃を下ろしたのだから君たちも下げろ」

 

 雲霧が左手を上げると、黒尽くめの武装集団は一斉に銃を下ろす。それを見て霜月はほっと一息ついた。霜月は口にこそ出さないが、本心では雲霧への非難を撤回していた。自分の命令で部下が死ぬ可能性は常にある。失った命が戻ることはない。責任を取るとそれらしい顔で語ることは簡単でも実行は不可能だ。だから、常に最善を考え尽くす。死んだ者に申し訳が立つよう、死ぬ気で考える。心が砕けそうな重圧から生まれた言葉は短くとも心に伝わった。


「色並署からは出動要請。警視総監からは撤退命令。おかげで機動隊は大混乱だ。まあ前者が嘘つきみたいだが」


 心証を度外視しても、結論は同じだ。雲霧の傷は医療従事者からの反撃で負う傷ではない。彼らが来る前に、それほどの脅威が存在した証。色並署長はその情報を省いた。彼は信用に値しない。


「ここに来たのは良心に従った結果だ。市民を救う病院に銃を持った人間がいる。状況を自分の目で確かめずにはいられなかった」


 まさか雲霧がいるとは夢にも思わなかった。風の噂で辞職していたと聞いていたが、おおよそ公安の秘密部隊で活動を始めたのだろう。素行はともかく、市民に危害を加える心配はなさそうだ。


「手間をかけさせて申し訳ございません」


「こっちのセリフだ。来たからには仕事をさせてもらう」


 霜月は振り返り、目の前の部下と無線機に向けて大声を張り上げた。


「第11機動隊は病院患者と同僚を保護する。速やかに防御を固め、侵入者を防げ!」


 ――――――


 ようやく黒崎をあしらった天道は会場内を見渡す。信念のない人間と話すのは苦痛だ。しかし、支配を維持する為には一人ひとりの顔を見なければならない。何であれ目的を本気で達成としたいと思うのなら、いかなる苦痛も受け入れるしかない。表情を観察し、コミュニケーションの優先度をつける。一番に話すべき人間はすぐに見つかった。

 

「中世期グループ会長、天道世正」


 会場の空気を引き裂く一発の銃声。悲鳴のハーモニーが華やかな会場に響き渡る。モーセのように人混みが割れ、目的の人物への一本道が出来上がった。20代前半の青年。かつて命がけを自分を救ってくれた交番警察官、六徳優。彼のシャツは血で深紅に染まっている。返り血だけではない。所々に深い傷がある。素人目に見ても立っているのが不思議に見えた。


「教えてくれ」


 悲鳴を絶やさず会場から逃げ始める人々。それには目もくれず、六徳は一歩ずつ近づいてくる。手に持っている拳銃から硝煙を上げながら。その銃口をこちらに向けながら。


「君を殺してはいけない理由が俺にはあるか?」


 六徳が立ち止まる時には銃口が眼前まで迫っていた。普通の人間であれば恐怖を感じるかもしれない。恐怖は理解できる。子どものころは家を出た時に感じたものだ。通学路で何度吐いたか分からない。だが、今は違う。胸の踊る緊張感が心地よい。屈辱の歴史を同級生の命ごと抹消したように。女教師に暴虐の限りを尽くしたように。自らの一挙手一投足で他人の生死を決めたように。


「無い。だから殺せ」


 銃口を掴み、自らの額に突きつける。冷たい鉄の感触はなかなか悪くない。意識せずとも笑みを浮かべられる。刹那、撃鉄が倒されてシリンダーが一つ分回った。六徳は狼狽えることなく、静かに呟いた。


「そうか」

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