第16話 選民

「中世期グループは各業界で頭角を表しているメガベンチャー企業です。中世期製薬はその中でも筆頭の稼ぎ頭。社員数197人、資本金8000万円、売上高1572億円。主な事業は新薬開発とジェネリック医薬品販売」


 淡々と話しながら、葛城は前方の車間をスピードを落とさずにすり抜ける。体は大きく揺れ、アスファルトがタイヤを斬りつける音が響いた。それでも葛城の話は一言一句聞き逃さない。


「IRを見る限り売上の大半は前者の事業となります。後者は採算度外視ですね。色並区と連携して医薬品を安価で提供する福祉活動と紹介されています」


 母が石妖香のインタビュー記事を切り抜いて飾っていた理由はそれか。六徳は胸に詰まりを覚えた。自分は何の為に頑張ってきたのだろう。誰かを助けられる強さが欲しかった。現実から目を背けていた子どもには戻りたくない。そう必死になる余り、たった一人の家族が苦しんでいる姿が見えなかった。全ては無駄だったのか? 何度も投げ出しそうになり、その度に自分を問いただして進み続けた道は間違っていたのか? 六徳は息苦しさを隠すように葛城の話を思い返す。天道も同じ事を言っていた。そして、点と点が繋がる。


 ――計42錠の薬を出したとするだろう。しかし、2週間後に見てみれば30錠残っているなんてざらだ。


「まさか……」


 信じられない。父の命日は欠かさず墓参りに行き、生前に父から貰ったカバンを今でも使い続けられるほど手入れを欠かさない母が薬を飲み忘れるなんて。薬剤師は真面目に説明したのだろうか。処方箋には回数を明記していたのだろうか。

 湧き上がる非難の嵐を六徳は深く息を吸い込んで抑える。仮に中世期製薬に落ち度があろうと、母に心無い言葉を放ったのは自分だ。悪者を探し出して楽になろうとするな。


「しかし、実態は福祉事業ではなく悪質な公金詐取のスキームです」


 続けられた言葉に思考が止まる。母の死は中世期グループの犯罪を立証できるという言葉を六徳はようやく思い出した。


「雲霧警部と工藤警部が社員を拉致して実態を聞き出しました。実際には後者の事業で莫大な利益が出ています。彼らの顧客は薬を買う生活困窮者ではありません。購入の際に補助金を拠出する自治体です。生活困窮者を助けるという目的において、そもそも安価で売る必要はありません。むしろ彼らは単価が比較的高い原材料で調合を行っています。例えば、結核の治療薬であるエタンブトール塩酸塩の組成は……」


 聞き慣れない単語を聞き流しながら、六徳は考えた。生活保護者を相手に高額な薬を処方する話は聞いたことがある。生活保護者法の違反であり、道義的な問題もあるだろう。しかし、腑に落ちなかった。


「でも、だからって母を殺そうとするなんてありえない」


 それは怒りではなく、疑問だった。公金詐取と殺人とでは罪の重さを比較するまでもない。隠すために刺客を送るとは思えない。


「高額な薬の販売による公金詐取であればそうでしょう。しかし、彼らが犯した罪はより悪質で殺人に等しい行為です」


 心臓の鼓動が早くなる。思わず耳を塞ぎたくなった。これ以上は聞いていけない。そう叫ぶ本能に抗い、六徳は大きく震えた。


「理由は不明ですが、彼らは本当に安価で薬を卸しています。ビタミン剤でかさ増しして利益を確保できるように」


 しばらくの沈黙が続く。疾走する車の立てる音が騒々しく響いた。その間、六徳は葛城の言葉を理解できなかった。なぜ? なぜ? そんな酷い事ができるのか? やがて六徳は涙を浮かべながら、口をたどたどしく開く。


「そんな……、そんなことしたら、患者は……」


「薬の摂取量が少ない為、効果は想定より薄くなります。加えてウイルスが薬剤耐性を持つ可能性が高い。そうなれば途中から薬の量を元に戻して無駄です。もう助かる可能性はありません」


 ――――――


 「嘘だろ」


 冨嶽の体から力が抜け、背が病室の壁にもたれかかる。戦いで消耗したからではない。中世期製薬の実態があまりにも受け入れがたかったからだ。


「人間のやることか?」

 

 交通機動隊に所属していた頃、悲惨な事故を目撃した経験は決して少なくなかった。一目見て助からないと思うこともある。それでも、諦めた救急隊員は一人もいない。患者の生命力を信じ、医師が処置を施すまで命を繋ごうと必ず全力を尽くしてくれた。病に倒れた時、医者や看護師が同じことをしてくれると誰もが信じているだろう。井戸に落ちそうな赤子を見れば、自分の子ではなくとも助けるように。それが人間だ。だが、彼らは突き落とした。金のために。


「ゴーストを生む奴は大体そうだ。どっちが怪物か俺には分からん」


 苦虫を潰したような顔で藤宮は続けた。天道への嫌悪感だけではない。彼は背中に三発の銃弾を受けている。刺客が立徳花子を銃撃した際、彼は彼女をその巨体で覆うようにして彼女を守りきった。防弾装備ごしとはいえ傷と痛みは免れない。哨戒は無傷の者達に任せ、冨嶽は月光を頼りに応急手当を急ぐ。


「社長と開発部長が銃撃され、公安の捜査が入ったことで奴らは焦った。幹部が暗殺されるより犯罪行為が明るみに出るほうがよほど致命的になる。だから患者の家に窃盗団を送って薬を回収した。証拠がなければ訴えられないからな。ウイルスが薬剤耐性を持つことを立証できても、奴らは患者が薬を飲み忘れただけと主張するだろう。悪魔を正当化するわけではないが、生活困窮者に管理能力の甘い人間が多いことも残念ながら事実だ」


 六徳花子を視線を送る。刺客との戦闘はさぞ騒がしかったはずだ。しかし、彼女は今に至るまで目を覚ましていない。胸を潰すような不安を覚え、冨嶽は視線を外した。


「だが、六徳花子さんの家ではうまくいかなかった。六徳君に葛城、それにお前が鉢合わせたからな。奴らの目にお前たちは脅威に写っただろう。銃を持った元警察官が3人もその場に居合わせたんだ。経歴を抹消した秘密部隊が彼女を生き証人に中世期製薬を破滅させる。そう捉えられても不思議ではない」


 喉の乾きを感じて冨嶽は息苦しくなる。想像できなかった。六徳優の尾行に家への突入。自分の起こした行動が引き金となって六徳花子を追い詰めることになるとは。自分が憎悪を律していれば、彼女は命の危機に晒されなかったかもしれない。今ごろは再会して、話せていただろう。育て上げた子供、この世に遺す唯一の肉親へ言いたいことが絶対にあるはずだ。


「気に病むな。悪いのはくだらない欲望の為に人様の宝に手を伸ばすカス共だ。それに悪いことばかりではない。探さずとも向こうから来てくれるんだ。片っ端から殺してやる」


 藤宮がそう言うや否や廊下から複数の足音が響き、無線機から到着の点呼が流れる。対ゴーストとして結成された急襲部隊。ヤクザの武闘派などものの数ではないだろう。


「二人一組で配置につけ。患者と職員の警護を最優先。射撃の可否は個々で判断……」


 不意に言葉を詰まらせた藤宮。病室のある一点を見つめ、その顔が見るからに青ざめていく。


「緊急事態だ。アルファチームは電源設備の復旧を手伝え。ベータチームは医者と看護師を呼べ。急げ!」

 

 ――――――


 天道は会長室から窓の外を見る。窓の向こう側には幻想的な光の束が連なっていた。眠らない街。天の川のように連なっている光の線もあれば星のように離散している光の点もある。美しい世界だ。輝きに群がる虫の大群さえいなければ。そう考えた時、天道は子どもの時に言われた悪態を思い出す。


「こっち来んなよ、ヤクザ虫!」


 知性の欠片もない乱暴な言葉。今なら笑って聞き流せるが、幼い天道にとっては胸を刺すナイフのようなものだった。言われたきっかけは分からない。それまでは毎日が楽しくてしかたなかった。学校に行けば様々な出会いがある。計算がとても速い子、本をたくさん読む子、体をとにかく動かす子。誰と話しても沈黙に落ち着くない。嫌いなものや苦手なものが無かった天道は誰の話でも楽しく聞けたし、仲良くなるのに時間はかからなかった。小学校低学年で既に高等教育の内容を理解していた天道は神童ともてはやされたが、同級生と比べて特別優れているとは思わなかった。人には人の輝きがある。サファイヤとルビーを比較したところで意味はない。青い光が強くなろうと、紅の眩さを求める者もいるだろう。しかし、世界は幼子が想像するより汚いものだった。

 

「おい、ヤクザ虫!」

  

 よく晴れた日の朝。あまり話さないグループの子どもから石を投げつけられた。頭に鈍い痛みが走り、血がしとしと流れた。痛い。何で。痛い目に涙が溜まるが、グループの子どもがにたにたと顔を伺っていることに気づく。泣けば彼らの思う壺、天道は負けじと唇を噛んでじっと耐えた。子どもの興味は移ろいやすい。すぐに飽きた子どもたちは通学路を急いたが、自分にとっては永遠のような時間だった。誰もいない空き地に駆け込んで一人涙を流す。自分の声で耳障りで情けなくて鬱陶しい。胸を抉るようなその時間がただの始まりに過ぎないとその時は知らなかった。


「ハンシャが学校来んなよ!」


 向けられる悪意はたちまち森についた火のように広がっていた。靴や教科書は盗まれ、机には隙間なく落書きをされ、すれ違いざまに小突かれる。全員が蛮行に加わったわけではない。しかし、他の子どもたちはまるで天道が存在しないかのように日常を送る。もはや誰も話してくれない。笑顔あふれる教室に自分の居場所にはどこにも無かった。


「ヤクザのくせに偉そうなんだよ」


 親の職業は知っていた。黒い噂は7割ほど事実であり、天道自身も思うことはある。好き好んでヤクザの家庭に生まれたわけではない。そう考えられるような教育を施してくれたことには感謝しているが将来的には独立し、真っ当に生きていくつもりだった。

 しかし、彼らは話を聞いてくれない。悪いヤクザに報復する正義を果たすのに忙しく、とにもかくにも自分が苦しんでいれば満足な様子だった。泣かなかった日はない。泣くと教師に怒鳴られた。原因はお前にある。お前のせいなのだから被害者面をするな。幼い天道は涙をこらえて必死に弁明した。皆と仲良くしたいこと、父のように暴力を振るうつもりがないこと。無視されても構わず続けた。いつかは理解してくれると信じて。時の流れは全ての人間を平等に大人にしてくれるから苦しいのは今だけだと自分に言い聞かせてひたすらに耐えた。


 ――人には人の輝きがある。


 中学生になって状況は更に悪化した。服と金を奪われて日が暮れるまで殴られたことがある。虫の息で冷たい地面に横たわっていると、同級生の話がはっきりと聞こえた。親にゲームを買ってもらえない。宿題を忘れたことを怒られてむかつく。これでスッキリした。


「……地獄の門は開かれた」

 

 天道は自分を恥じた。なぜ気づかない? 石を投げるのはただのストレス発散だ。自分が何者かも考えていない癖に他人と比較したがる。それでいて自信がないから人を蹴落とそうとする。なぜそうなる? 思い返すと更に面白いことが分かった。彼らの家庭はすべからず貧乏だ。生活保護、あるいは何らかのセーフティーネットによってかろうじて生活している。なるほど。幼い天道は学んだ。貧乏人の娯楽は少ない。金がなく、教養もない。それでも楽しめる娯楽は他人を陥れることだ。自分より不幸な人間を見れば、相対的な幸福は簡単に得られる。


「全ての希望とは今日でお別れだ」

 

 人には人の輝きがある。その仮説は誤りだった。世の中には磨いても光らない石みたいな人間がいる。無意味無価値なゴミクズどもめ。天道は激しい怒りを覚えたが、同時に深い喜びを覚えた。偽りの幸福から引きずり下ろした時の表情はきっと見ものだろう。翌日から行動を開始した。自分を虐めた子供の家に行き、自作した闇金の案内状を手当たり次第に投げいれた。出来は今見ても大したものだと自負している。審査不要、即日即金、利子や手数料は高め、だが一定期間に返済すれば利子はマイナスとなり儲けが出る。最後は欲望を煽って契約書にサインさせる為の餌は実に効果的だった。金が簡単に手に入ると馬鹿な大人が次々と闇金業者を訪れる。砂糖の山に蟻が群がる様子を天道は向かいのビルから笑いながら見ていた。貯金の習慣のない貧乏人が計画立てて返済できるわけがない。思惑通りクズの親は自分の返済能力を過信して借金漬けになってくれた。返せなくなれば組の的にできる。父親の振りをして回収の指示を出した。男はマグロ漁船に乗せ、女は風俗に落とす。命を搾取される奴隷となった彼らの様子は写真に残し、催促状と共に本人へ渡した。

 

 ――被害者面するな。


 家庭が壊れ、クズどもは日に日にやつれていった。娯楽に興じる余裕さえない。生気を失った顔を学校で眺めることが生きがいだった。高校生になると天道は直接搾りとるようになった。組員に買わせた酒や煙草に利益を上乗せして売りつけた。現実を忘れたい奴らは何も考えずに買い、金に困る。踏み倒そうものなら日が暮れるまで殴って愚かさを痛感させた。そうして借金返済の大切さを理解させたところで仕事を紹介した。男にはクスリの運び屋をやらせ、女には売春をさせた。当然、仲介手数料をたんまりと抜かせてもらった上で。貯まった資金を元手に経営を始めると、天道は自分の能力に気づいた。強み、望み、本人が自覚していないそれらを自分は見抜くことが出来た。クズどもに割り振る仕事を選別するようになる一方で、優秀な人間を口説いて仕事を任せられる配下として迎え入れるようになった。蜂須恵は年相応の落ち着きを見せようと努力しているが、内心では剣術で成り上がりたい。鳴寺は人の目を恐れる一方で、コミュニティに受け入れられたい。彼らのように替えが利かない人材は何より素晴らしい買い物だった。有象無象を搾り取り、選ばれし者を囲い込む。人事哲学は高校生の時点で完成していたが、若いときには上手く搾取できなかった者もいる。

 それは病に侵された貧乏人。無理やり働かせることも出来ず、臓器や血も使い物にならない。ケジメをつけろと組員を差し向けて殺害してみたが、しっくりこなかった。利益のない事業は長続きしない。社会から彼らを効率的に削除する仕組みを作るにはどうすればいいか。考えた抜いた末に舞い降りた天啓が偽薬による殺害だった。

 日本で生活保護者に薬を売れば、政府が代わりに代金を払ってくれる。だが、真面目に働いた人間の税金をかすめ取るのは哲学に反する。だから、偽薬を混ぜて薬剤耐性を持たせるようにした。患者が治療途中で亡くなればトータルで使われる社会保障費は減り、利益率も高くなる。天道は一石二鳥を想定していた。実際には一石三鳥だった。一部の政治家が事業に興味を示してくれた。社会保障費が削減できることを事前に知っていれば大手を振って財政改革を国民に約束できる。そうして得た強力な後ろ盾は表社会だけでなく裏社会でも通用する。公権力は金で買い、反社は暴力で飼う。新しく付け加えた人事哲学の条項で色並区は既に制圧した。いずれは広い範囲を手中に収めるつもりだ。ひとまず東京都全体を掌握する。その後は日本全土、最終的には全世界の弱者を踏み潰す。かつてホモ・サピエンスが他のホモ属を滅ぼしたように。


 ――地獄の門が開かれた。

 

 挑戦は良い。達成した未来に羽を伸ばすと心が弾む。困難であればあるほどモチベーションが高まる。たとえば公安の特殊部隊を皆殺しにするという挑戦。成功には覚悟が必要だった。虎穴に入らずんば虎子を得ず。相手は鋭い牙を持ち、戦うことを恐れない猛獣だ。ポレヴィークでは対処できなかった。彼が率いるイサパラトは数々の敵対組織を壊滅させた民間軍事会社だ。彼らが壊滅した以上、まともに戦えば大損害は免れない。だから、彼らには戦うことなく死んでもらう。今ごろ金に目がくらんだ医者が医療用の酸素を病院中に拡散させているだろう。夜景を眺めていれば、終幕の花火が上がる。もちろんアフターケアも万全だ。病院を立て直し、失われた機材は最新のものを調達し、医療従事者も斡旋する。案件の見積は作成済だ。受注次第、速やかに対応してみせる。


 ――――――


 一線。

 都鳥菊次郎は前身の白衣に包まれた全身をぶるりと震わせる。寒いからではない。怯えているからだ。病院では優秀な外科医、家庭では優しい夫、世間ではエリートで知られている男が今恐怖を覚えることは二つ。一つは賭博場で鴨となり背負った多額の借金を周囲に知られること。そして、もう一つは大勢の命をこの手で奪うことだ。今晩、彼は選択しなければならない。二つに一つ。選ぶべき道は既に決めているが、迷いは捨てきれなかった。

 一線。

 別に聖人君子ではない。金の為に、診断書を偽装することや薬品を横流しにすることは平然と行う。だが、それらは人を死なせるわけではない。一線の内側にいる内の罪悪感など金で消せば済む話だ。しかし、治療用の酸素を病院内に充満させて建物を爆破する行為はその一線を軽々と超越する。人としての禁忌。特に命を救う仕事をするものとしては決して許されざるもの。金に汚い都鳥でも、命を救う時はそれだけに集中している。患者の命を繋いだ時の安堵、こぼれ落ちた時の無力感は他の医者と変わらない。迷うのは当然だ。自分はこの日を一生忘れないだろう。何度も夢に見るかもしれない。人を殺した事実は死ぬまで付きまとう。

 一線。

 だが、踏みとどまれば破滅だ。債務は膨れ上がり、次の返済日には利息を払うことさえ出来なかった。取り立ては職場や家庭に来るだろう。昇進の話は消えてなくなり、子供を身ごもった妻は愛想を尽かして出て行くに違いない。後に残るのは慰謝料と借金の支払請求だけ。自分が何故そんな目に合う? 今の生活を手に入れる為、物心ついたときから両親に色々なものを我慢させられてきた。たかが良いカードが引けなかったりルーレットの玉が思い通りにならなかっただけで全てを失うなどあり得ない。理不尽な炎が迫れば何階からでも飛び降りるのが人間だ。下にいる人間を何人踏み潰してでも自分だけは助かってみせる。社会にとっても有象無象の人間より、旧帝大卒の医者が必要だ。

 一線。

 制御室に入ると、操作盤へと手を置いた。億を超える報酬の為に手順は頭に叩き込んでいる。だが、都鳥の指はモニタに触れたまま動かなかった。殺人に対する忌避を再認識したからではない。切り落とされ、断面から血を垂れ流す指が液晶にべったりと張り付いたからだ。


「恥を知れ」


 振り返ろうとした瞬間、視界が消える。続けて鋭い痛みが額から頭全体へと一瞬で広がる。頭を掴まれて壁に叩きつけられた。そう理解するのに聡明な頭脳は十秒も必要とした。白いタイルにべっとりと赤い血をつけながら、都鳥はゆっくりと仰向けに崩れ落ちる。反転する視界で見えたのは上半身を真っ赤に濡らした男、医者から見て一目で重傷だと分かる。作り物のように整った顔立ちは青白く血色が悪い。しかし、不思議なことに男は悠然と立っていた。瞳に浮かぶ冷たい殺気は尖った氷柱のように冷たく鋭い。不思議と痛みは感じなかった。血が凍てつくような寒気に全身を襲われている。


「ま、待って……殺さないで……」


「話しかけるな」


 張り手を打つように響いた声。決して大きくないその一言は都鳥の体を縛り上げた。逃げなければ殺される。だが、悪夢を見ているかのように足がすくんで体を動かすことが出来ない。


「雇い主に連絡を。役目は果たしたと連絡してください」


 男が一歩近づいた。それはまるでカウントダウンのようだった。ゼロになった瞬間、自分は死ぬ。狼狽えている猶予はない。人差し指が欠けた手で白衣のポケットを全てひっくり返す。白衣が紅に染めながら、都鳥はスマートフォンを探し当てる。そして、滑稽なほど汗に濡れた顔を画面に映す。急げ。急げ。顔認証を済ませ、電話帳の中から天道世正の番号を選んで震える左手で架電を開始する。

 コール音が鳴る。一度、二度。都鳥は肩を震わせた。痺れを切らした男が指を気まぐれに斬ってくるかもしれない。頼む。頼む。生きた心地のしない時間をコール音3回分過ごした後、若き敏腕経営者は通話に応じてくれた。


『早いな。ちゃんと上手く逃げたのか?』


「手筈どおりにしました。これから建物から避難します。……報酬は約束通り払っていただけるんですよね」


 この場を凌いでも、都鳥の修羅場は終わらない。汚れ仕事の代償は都鳥にとって命と同じぐらい大事なことだった。しかし、天道は都鳥の焦りを嘲るかのように大きく笑った。


『嫌だね。どうせ死ぬだろ。そこにいる警察官へ電話を渡せ』


 聞き間違いか? 都鳥は慌てて周囲を見渡す。天道はどこからこの状況を見たのか。


『君のような卑怯者が逃げる前に電話するわけがない。怖いお巡りに捕まって電話をかけさせられたんだろ?彼と話がしたいんだ。お前に用はない』


「嘘だろ……俺には家族がいるんだ! 助けてくれ!」


『奥さんは美人だ。君の保険金もある。子連れの未亡人でも引く手あまただろう。誰が新しい父親に選ばれようと、ギャンブル狂いの犯罪者よりは幸せにしてくれるはずだ。気にするな』


 思わず絶句する。天道のせいで死にかけているというのに、彼はどこか他人事だった。部下の病欠を聞いた時のような軽い反応。あまりの態度に呆然としているとスマートフォンを血まみれの男にひったくられた。


「話とは? 私にはありませんから手短に」


『やはり君か、雲霧。下の名前は何て言うんだ? ニックネームでも構わないよ』


 鉄の軋む音が響く。恐る恐る見れば、雲霧の持つスマートフォンが捻じ曲げられ液晶にひびが入っていた。


「雲霧優、裏社会では翼のない天使と呼ばれていました。私を探す気ならGPSで居場所を教えてあげましょう。誰もいなくなるまで刺客を送れば良い」


『俺は天道世正。角のない悪魔と言われたことがあるかな。面談は1on1で行わせてもらう。私は君を迎え入れたいんだよ、優。爆破の作戦を見抜くなんて素晴らしい。なぜ気づいた? 』


「行動がおかしいからですよ。あなた達の製薬詐欺を立証する証拠は処方された薬。だから、私は立徳花子が拷問されると恐れました。保管場所あるいは証拠として公安の誰に渡したのかを聞き出す為に。しかし、実際は何も聞かず殺そうとした。もし証拠隠滅が目的ならそれは悪手です。薬の所在が分からなくなりますからね。そもそも薬に隠蔽するほどの価値があるのか疑問でした。ただの偽薬生成であれば石妖香を雇う必要はない。論文を拝見する限り彼女は類まれなる天才です。偽装の証明は困難を極めたでしょう」


『そう簡単に諦めるな。頑張れば出来るかもしれないぞ。ただし、その手の疑いは既に無罪判決が下された。意味は分かるな?』


 雲霧の表情は変わらない。しかし、僅かにつり上がった眉は激しい怒りを現していた。


「一事不再理のため偽薬に証拠能力はない。窃盗団を送ったのは我々に対する挑発でしょう。たまたま六徳花子の家で騒動が起き、あなたは六徳花子を狙えば私達が守りに来ると踏んだ」


『そのとおりだ。ポレヴィークは強かっただろう?』


 彼が公安を仕留めていれば自分が手を汚すこともなかった。役に立たない兵士を心の中で呪う。

 

「ええ。しかし、本気で戦うなら鳴寺華糸か蜂須恵健人のどちらか、あるいは両方配置したでしょう。単独となれば彼の役目は威力偵察。始末がつけば良し、できなければ正面衝突はリスクがあると判断し、一箇所に集まった私達を効率的に一掃する策を講じると思いました。一つしか思いつけませんでしたので、的中したことは僥倖です。命の尊さを学んだはずの医者が加担することだけは予想外でしたが」


 都鳥は呼吸を止める。存在を認識されたくない。自分のことなど忘れて狂った者同士で会話してくれ。


『素晴らしい。流石は公安部の秘密部隊。出来が所轄と大違いだな。よし、取引しよう。お前たちの能力を買いたい。多少行き違いがあって小競り合いが起きたが、ここら辺で和解しよう。補償は言い値でする。遠慮しないでくれ』


 会話が終わる前に逃げるしか無い。都鳥は床に手をついて立ち上がろうとした。直後、腹に踵が振り下ろされた。内蔵が口から吐き出されるかと思うような衝撃。体全体をUの字に曲げて都鳥は泡を吹いた。


「私を金を買えると? その侮辱は絶対に許しません。人生とは道を歩くようなもの、多すぎる金は邪魔なだけです」


『確かに俺は人の道を外れているだろう。この足で歩くのは天の道だ。俺はお前と同じで世を正したい。そのために金がいる。それだけだ。冷静に世の中を見渡せ。守るべき人間ばかりじゃないだろう? 誰にも貢献せず自分のことしか考えない奴ら。自由、権利、財産。そんなものを与えたってあいつらは使いこなせない。身勝手に浪費して持つべき者の責任なんて果たさない。生きる価値はない』


「天、我が材を生ずる。必ず用あり。人の価値をあなた一人が決める権利はありません」


『李白か。良い言葉だ。俺もそうであって欲しい。本当は誰も殺したくないんだよ。それが出来ない嫌な世の中だ。お前なら分かってくるだろう?』


 男は表情を変えなかったが、目を僅かに細めた。嫌悪の光が黒い闇の中に輝く。握りしめられる拳。それが今にも自分へ飛んできそうで都鳥は静かに震え上がった。


「何故あなたの悍ましい優生思想を私が理解できると?」


『言ったろ。同じだからだよ。俺達は正義を果たすために手を血で染める覚悟を決めた。俺と君の違いは線の引き方だけ。そこで震えている間抜けを生かすか、殺すか。俺は別に神様を気取ってるわけじゃない。間違うこともあるだろう。だから、君の知恵を貸してほしいんだ。俺達の手を合わせれば、より綺麗な線を引くことが出来る』


「私も自分を正義とは言わない。ただし自由な選択を奪う者と手を組む選択は存在しません」


『つれねえな……と、すまない。もう少し口説きたいが、パーティの時間だ。良かったら君も来ると良い。また後で話そう』


 途切れる通話。男は画面を見ることもなく携帯電話を床へ放り捨てた。液晶が割れ、破片が散らばる。それすら目を向けない。ただ静かにナイフを握り直した。床に落とした懐中電灯が刃を妖しく照らす。血をポタポタと垂れ流す鋭い先端。それを視界の中央で捉えた医者は恐怖のあまり瞳を閉じた。


「ま、待って、殺さないで……家族がいるんだ……」


「貴方が殺そうとした者達にも家族がいます。忘れていましたか? 自分の番になってやっと思い出しましたか?」


 身勝手な言い方に都鳥の胸はざわめいた。自分の苦労など彼にはわからないだろう。知らないくせに勝手なことを言うな。


「頼む。家族は俺がいないと――」


「自分の業を愛する者に背負わせるな」


 目を開けば視界に広がる眩い銀閃。それは都鳥にとって人生で最後に見た光だった。


 ――――――――


 病院が見えた途端、六徳は車から飛び出した。膝から崩れ落ちた体は地面を激しく転がる。急ブレーキと呼び止める声が背後から流れたが、彼は振り返らない。血を流しながら院内へとなだれ込む。血の跡や武装した兵士の死体は目に入らない。中で鉢合わせた黒尽くめの男あるいは女がライフルを構えかけて中断する。危なかった。しかし、撃たれても止まる気は無い。エレベータのボタンを叩きつける。その直後。エレベータの表示が永遠に変わらない気がして階段を一気に駆け上がった。息も切れず、決められたトラックを走る陸上選手のように六徳は突き進む。

 501号室。頭に刻みつけた番号の病室に入ると、富嶽と大男が見えた。彼らの傷は浅くない。普段なら気にかけるだろう。だが、今は無視をした。何も言わずに目を落とす彼らから視線を外し、白いベッドの上を見る。


「母さん」


 その呼びかけに返事が無かったのは生まれて初めてだった。不気味な静寂は胸を押しつぶすかのように重い。六徳はまるで立ったばかりの子供のようにゆっくりと歩み寄る。


「母さん」


 自分でも聞こえないようなか細い声。それでも母親なら分かってくれる。どんな時も母は振り向いてくれる。顔が見えた時はいつも笑っていた。それが当たり前だと思っていた。彼女がどれだけ気を張っているかなど考えもせず。叶うならばもう一度。今見ることが出来たのならどれだけ心が救われることか。どうしようもないほど望みが膨れ上がる。だが、顔にかけられた無機質な白い布を取り払う気になれなかった。壁がそこにあるかのように手を伸ばすことすら出来なかった。


「配電設備を破壊されて機器が停止した。その上、担当看護師の一人が殺害された混乱で処置が遅れ……。いや、後で話す。今は二人で話すと良い」


 大男の声が遠くに聞こえる。まるで誰かのイヤフォンから微かに漏れているかのように。ベッドの脇に寄り添うと六徳は何も言わずに母の手を握りしめた。かつての暖かさは存在しない。命を失った骸は体の芯まで凍てつくように冷たかった。それでも六徳は手を離さなかった。


「覚えてる? 俺が寒いって言ったら手を握って温めてくれたよね」


 最初に思い浮かべた過去がそれだった。人生の節目でもない、いつだったか正確に思い出せないような記憶。分かることはただ一つ、母は自分を愛してくれた。生まれてから今に至るまで、家族の優しさを感じなかった日は一度もない。


「今度は俺が温めて上げるよ」


 左手も添えて包み込むように握りしめる。離れないように強く、それでいて潰れないように優しく。まるで子供が親を引き止めるかのようだった。子供にそんな事をされて、去る親はいないだろう。しかし、六徳花子はそこにはいない。帰ることはない。手の暖かさが伝わることは二度とない。ありがとうと叫んでも笑うことはない。


「だから……、目を……」


 瞳が熱くなり、視界がぼやける。何かをこらえるように目を閉じた六徳はその場に膝をついた。聖人が何かに祈りを捧げるように、あるいは罪人が何かに懺悔をするかのように。息子が母に出来るのはもうそれだけだ。六徳はとうとう耐えきれず、声を上げて泣いた。

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