第14話 契約

 ガラスを割るような金属音が血だらけの地下駐車場に響いた。雲霧の斬撃を受け止めたポレヴィークの顔が歪む。彼の手にあるのはカランビットナイフ、元は農具として使われていたそれの刃渡りは15センチにも満たない。しかし、手首の痛みはまるで斧を受け止めているかのように感じた。ポレヴィークのナイフがみしみしと軋む。力比べでは勝てそうにない。


 システマ、ペレカート・スジビー。


 ナイフを回し角度をつけて拮抗を斜め下へと受け流す。どれほど重い一撃だろうと受け流せば傷にはならない。空を彷徨う凶刃。ポレヴィークはすかさず返す刀を繰り出した。狙いは首筋、直撃すれば勝負は決する。しかし、ポレヴィークは動きを止めた。体中を駆け巡った強烈な悪寒が彼をそうさせた。

 刹那、強烈な燕返しが雲霧から放たれた。音を置き去りにする程の速度。カランビットナイフは鋼鉄の防弾プレートと何重にも編まれたケプラー繊維を斬り裂いた。それだけではない。鋭い痛みが腹から胸にかけて走る。無機質なコンクリートに撒き散らされる赤い雫。浅いが、防弾装備ごしにつけられた傷とは信じられなかった。踏み込んでいれば深手を負ったに違いない。


 ――アジアの小さな島国に恐れおののいた。


 恐ろしく怖い。そう感じたことは認めよう。だが、人が恐怖を感じるのは怯える為ではない。耐える為のものでもない。自分の弱さを知る為のものだ。乗り越えて強くなる為のものだ。怪物だろうが、振り終わりには隙がある。そう考えていたら死んでいた。

 続けて放たれた三連撃をポレヴィークは紙一重で躱す。防弾装備の破片が宙を舞う。耳を塞ぎたくなるような金属音を噛み締め、ポレヴィークは一歩踏み出した。無謀は忌むべきだが、勇気は欠かせない。


 システマ、チョールヌィ・スネーク。

 

 6撃目と同時、瞬間的な脱力から放たれる乾坤一擲の反撃が首を襲う。防弾装備ごしの傷で動脈を断てるなら安いものだ。だが、それは雲霧も承知。取引には応じず、膝を曲げてかわす。鋭い刃が空を裂き、背を向け合う二人。振り返る猶予はない。ポレヴィークはすかさずナイフを逆手に持ち替え先端を後ろに向ける。その時、腰が燃えた。同じ動作をしたのだろう。それでいてスピードが桁違いだった。骨の隙間を縫うように侵略した刃は肉を掻き分けて内蔵に迫る。激痛。だが、悲鳴もあげなかった。傭兵という道を無傷で進もうと考えるほど卑怯ではない。

 覚悟が必要だ。自分がしたように他人から傷つけられる覚悟が。血を噛み締めながら、ポレヴィークは体を捻り回した。強烈な喪失感と共に抜ける刃。溢れ出る血のことなど微塵も考えず、順手に構えたナイフを真っ直ぐ突き出す。


 システマ、リディアノイ・クリノーク。

 

 瞬間、凄まじい衝撃が襲いかかってきた。くの字に体を曲げられ、見えたのは長い足。蹴りは予想外だった。予備動作がないとは思えない攻撃は鍛え上げた体を容易く飛ばす。じわじわと焼かれるような痛みにポレヴィークは顔をしかめる。衝撃の瞬間、自ら後ろに飛んでいなければ悶絶していた。


「金で雇われた傭兵が何故そこまで必死に戦うのですか?」


 反吐を零しながら冷たい地面を転がる中、雲霧がナイフを振り払うのが見えた。べっとりとした血はたった一薙で拭われ、刃が白銀の輝きを取り戻す。ポレヴィークは笑みを浮かべたが、一筋の汗が頬を冷ややかに伝う。射撃能力には明確な差がある。その上、格闘能力も分が悪い。ホルスターには拳銃、胸元には手榴弾はあるが取り出す隙はない。使えるのはたった一本のナイフ。奇跡が起こらなければ、死ぬのは自分だ。


「恐怖に屈した償いは認めません。しかし、苦痛なき死は実現しましょう」

 

 雲霧の言葉は強烈な誘惑だった。身を委ねれば、安らかな眠りへ導かれる。戦い続ければ、怪物の牙が際限なく襲ってくる。二者択一、ポレヴィークは目を閉じて考えた。考えた結果、ゆっくりと立ち上がる。ダークブルーの瞳に光を宿して。


「遠慮なく殺せ」


 義理人情ではない。天道にとって自分はただのナイフだ。切れ味があるうちは重宝するが使えなくなれば捨てる。彼の為に命を賭ける理由はただ一つ。


「そういう契約だ」


 地獄の門は開かれた。一切の希望は抱かない。ポレヴィークは地面を蹴り飛ばして雲霧へと肉薄した。銃弾のような踏み込みで間合いを一気に詰めた。そして、斬撃を斜め一閃に振り下ろす。当たれば必殺、しかし雲霧は半身を反らして紙一重で躱した。想定内、反撃を恐れずポレヴィークはすかさず踵を強く踏み込む。瞬間、鋭利な刃先がつま先から飛び出した。

 暗器による二段構え。だが、足を振り上げる前に雲霧はバックステップで射程圏外へ引き下がった。期待通り。雲霧の反応速度ならば、仕込みナイフを見た瞬間に回避してくれると信じていた。実際に攻撃をせずとも。爪先に体重をかけ、ナイフをへし折ったポレヴィークは雲霧との間合いを詰める。


 システマ、チェーニ・ヴォルカ。


 氷の上を滑るように肉薄したポレヴィークは雲霧の懐を侵略する。胸に向かって一突き、それを防ごうとする刃を見て足元へ刃を振り下ろした。急所を狙えるとは思っていない。最初から狙いはそこだ。身体能力が常人離れしていても、機動力さえ潰せばただの的。太ももを食む凶刃、1秒あれば押し切れる。しかし、その1秒は死神が笑う時間だ。風切音を聞いて飛び上がる。直後、眼前を斬撃が掠めて風が眼球をじっとりと撫でた。

 

(傷はあちらの方が深い。長期戦に持ち込むべきだ)


 光を奪われかけた危機。早鐘を打つ心臓を鎮めようとポレヴィークは静かに息を吐く。雲霧は相変わらず無表情だ。しかし。腹と右足から血を流す姿は見ているだけで痛々しい。動けば動くほど血は抜かれる。時間はポレヴィークの味方だ。


(だから、ここで決着をつける)


 定石は必ず読まれている。敵は超人だ。常人の策は必ず打ち破られる。才能のない人間が生き延びるためには犠牲を払わなければならない。


 システマ、チェーニ・ヴォルカ。


 再び肉薄しようとした瞬間、世界が暗闇に包まれた。恐らくジャケットを投げつけてきたのだろう。払いのければ、その隙を狙って刺突が飛んでくる。だから、ポレヴィークは更に身を低く屈めた。投げ出された防具は空を切り、傭兵の視界は開かれた。

 だが、標的はいない。その場に立っている雲霧はいない。背後に気配は感じなかった。しかし、奴はそこにいる。必ずいる。絶対的な恐怖に晒され続け、研ぎすまれた本能がそう叫んでいた。普通なら隠れて止血をするが、奴らしくない。奴の一手は必ず攻撃だ。雲霧優は自分の痛みや死を恐れていない。斬られた脚を酷使することに躊躇いはなく、自分の命を危険に晒してでも確実に敵を殺そうとする。それが雲霧優。だからこそ、今ここで仕留められる。


 システマ、ルースカヤ・イグラー。


 ポレヴィークは振り返らず、ナイフの刃先のみを背後へと向ける。そして、刃の根近くの突起を深く押し込む。刹那、内部で圧縮されていたバネが一気に解放され、柄から刃がライフル弾並の速度で射出された。

 スペツナズナイフ。別名、弾道ナイフ。単純な武器だが、天王山の勝負所で相手の意表を突くことが出来る。背後から聞こえるのは皮膚が千切れ、肉が裂ける音。当然、反撃は来ない。ようやく訪れた千載一遇の好機。ポレヴィークは拳銃を引き抜くと同時に振り返る。同時に雲霧から放たれた横薙ぎの斬撃が傭兵の首を捉えた。


「この程度で私を止められるとでも?」


「化、物が」


 何度も人を刺し、人から刺されたポレヴィークには分かる。音から察するに、最低でも5センチは刺さったはずだ。その状態でナイフを全力で振るえるとは。ポレヴィークはかろうじて生きている。咄嗟に左の裏拳で彼の手首を止めていなければ死んでいた。死ぬ? こんな所で? 冗談じゃない。まだ生きたい。怪物を殺して、人間として生き続けなければ。父と母が帰りを待っている。


「この程度で私を止めたと思ったか!」


 体から力が抜けかけていたが、精神力で引き金を三度絞る。銃声と共に肉が弾けた。斬撃から力が抜け、ナイフが落ちる。直後、銃身が蹴り飛ばされた。手首に痛みが走ると同時に胸を突き飛ばされる。よろよろと引き下がるが、それは雲霧も同じ。全快なら今の一撃で吹き飛ばされていただろう。至近距離から連続射撃。傷は深い。普通の人間なら三途の川を渡っている。だが、眼光は衰えなかった。びちゃびちゃと水に浸した雑巾のように血を流しながら真っ直ぐ立つ。表情は微塵も変わらない。きっとこの男は大金が動くロイヤルストレートフラッシュを引いたとしても同じ顔をするだろう。


「もう、勝たせてくれよ」


 体が急激に重くなる。気づけば腹が銃で撃たれように熱く、膝が悲鳴を上げていた。蓄積されたダメージはポレヴィークの命に手を伸ばしている。

 武器を全て失った。だが、人間はそれでも戦える。ポレヴィークは静かに右拳を握りしめた。首の裂傷は動脈まで達しているだろう。このまま処置をしなければ失血死に至る。早急に決着をつけなくては。最後の攻防。信じるべきは己の肉体。

 動いたのは同時だった。先手は雲霧、閃光のような右ストレートがポレヴィークの腹が突き刺さる。内臓が揺れ、口から血が吹き出す。狙い通り。システマは使わない。ただ歯を食いしばって耐える。奴は受け流される前提で攻撃を放った。勝つ為には敵の描いた未来を外れなければならない。どのような犠牲を払おうとも。真っ赤に染まった歯を食いしばり、右足を床に叩きつける。コンクリートが揺れ、鈍い悲鳴が湧き上がった。


 ロシアンフック。


 拳が雲霧の頬に突き刺さる。指に感じるのは柔らかい頬と骨の完食。捉えた。この一撃に全身全霊をかける。このまま朽ち果てても良い。魂を吐き出すかのような絶叫と共に残る全ての力を注ぎ込む。決死の打撃は止められることなく、伸ばした腕は振り切られた。ぬるりと動いた雲霧の顔を滑るように。


 システマ、受け流し。


 心臓が凍りつく。皮肉なものだ。奥の手を慣れた技で封じられるとは。だが、最後まで諦めない。ポレヴィークは即座に意識を切り替え、集中力を研ぎ澄ます。見えたのは突き出される張り手。しかし、通常より勢いが少ない。鎧通しだ。打撃を受け流そうとした瞬間を狙い、もう一方の手を重ねて発勁を放つつもりだろう。

 来い。どのタイミングで来ようと必ず受け流して次の一撃で仕留める。しかし、ポレヴィークは何もできなかった。手首を掴む手はどこにも受け流せない。

 

 合気、天地返し。


 視界が巡り、ポレヴィークの体はコンクリートの床に叩きつけられた。衝撃で首の傷から血が一気に吹き出す。粘着質の液体に髪の毛が濡れて重くなる。まだだ。ポレヴィークは起き上がろうとした。まだ生きている。しかし、心とは裏腹に体は横たわったままだ。手足が痙攣している。上手く体を動かせない。起き上がれたとしても雲霧優が健在だ。荒い息を吐きながら、ポレヴィークは静かに涙を落とした。もう受け流すことのできない自らの運命を知って。


 ――――――

 

 人を殺すことは簡単なことだ。銃で頭を撃ってもいいし、ナイフで心臓を刺しても良い。それらとは無縁でもカッターナイフやバットはスマートフォンよりも手軽に買える。最難関の問題は後始末だ。お節介な警察は行方不明者を放ってはおかず、死体は見つかりやすい。殺人事件となれば、警察は真面目に仕事をする。現場を隈なく捜査し、犯人の痕跡を追う。彼らは優秀だ。逃げ切れる確率は低い。銃や刀といった一般人では入手できない凶器なら尚更だ。

 天道の組織は武闘派の殺し屋を多数抱えているが、その大半を山童は見下していた。いい年をした大人が喧嘩自慢なんて恥ずかしい。教室に入ってきたテロリストを倒す妄想をしている中学生と何が違う?


 ――賢い子になれ、馬鹿はうちの子じゃない。


 分かっているよ父さん。僕は馬鹿じゃない。あいつらよりもできる。出来損ないじゃない。上手くやれる。誰も僕を疑わない。気絶させた警察官はトイレで首を吊っている。仕事のストレスが原因だ。かわいそうに。

 心の中で涙を流した山童は立徳花子の病室へと足を踏み入れる。誰もいない。見舞い客はいない。医療従事者もいない。最高だ。さっさと仕事を終わらせて帰ろう。山童は懐から一本の注射器を取り出した。中の液体に閉じ込められているのは世間を騒がせたウイルス。中世期製薬の技術を用いて殺人用に品種改良し、即効性と致死性を高めた生物兵器だ。この老女は病体だ。弱りきった免疫で猛毒に勝てるわけがない。すぐに死ぬ。加えてウイルス罹患者は速やかに火葬される。公安が止める可能性もあるが、それも心配ない。公安の特命部隊は全員殺害する予定であり、念の為にギャンブル好きの医者と話をつけている。死亡確認後、立徳花子は息子に会うこと無く灰と化す。誰も山童の仕業だと気づかない。気づかれないなら、やっていないと同義だ。自分は何も悪くない。死ぬ前の老女を見舞った好青年だ。誰よりも心優しい男はきっと大粒の涙をたくさん流すだろう。非道な殺人鬼に怒りを覚えながら。


「犯人は必ず見つけるよ。だから、安心して天国に行ってね」


 点滴の袋に注射針を当てる。これも証拠になる可能性がある。後で処分しなければ。そう思ったが、実行するには優先度が低い。注射器を持つ手を捻り上げられた今となっては。


「何してんだこの野郎」


 慌てて押し込もうとするが、動揺が仇となった。素早く引き離されて、体が宙を舞う。見本のような背負投で山童は地面に叩きつけられた。力の抜けた手から注射針を引ったくられる。まずい。咄嗟に手を振り払うも目の前に迫る拳。回避すれば隙が生まれる。掴み技を受ける隙が。山童は頷くように顔をずらした。まともに入る打撃。だが、額で受けた衝撃はダメージにならない。そのまま流されるように後ろへと飛ぶ。そこでようやく見えたのは傷だらけの顔を怒りに歪める男。


「手を頭の上につくんじゃねえぞ。テメェは気を失うまで殴り続ける」


 富嶽武。弟が不良に連れ回れた挙げ句に自殺したことで有名な元交通機動隊。公安部としてマークされていた刑事。だが、その事実は山童にとって何の意味も無かった。鋭い瞳と無数の皺が山童の魂を激しく揺さぶる。


 ――お前が悪いんだ、お前が。


 違う。僕じゃない。僕は悪くない。嘘をつかれている。誰かが嘘をついて僕を悪者にしようとしている。そんな奴は殺さないと。殺さないと僕が死ぬ。だから、当然の権利だ。悪いのは全部あいつだ。


「僕は悪くない、全部お前のせいだ!」


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――


 豆を炒るような音。小さくはないが、普通の日本人にしてみれば記憶にとどめておくようなものではない。だが、富嶽にとっては銃声だ。しかも、自分たちが使用している拳銃と同じ音だ。見過ごす訳にはいかない。銃撃戦の経験が無い富嶽には銃声から場所を特定する術はなかった。

 だから警察官として考えた。銃声が鳴ったのは何かしらの犯罪が起きているからだ。犯罪。思い出したのは立徳家に現れた二人組の強盗。彼らの所持品を一通り確認したが、鞄の類は無かった。では盗品をどうやって持ち帰る? 鍵を開ける道具や戦闘用のナイフを用意する癖にそこまで気が回らないか?導かれる真実は1つ。彼らは何も盗む気はなかった。初めから標的をナイフで殺して逃げるのが目的だから。六徳優が実家に帰ったのはゴーストに覚醒したことによることがきっかけで予定されていたものではない。ならば狙いは家主である六徳花子。今の彼女は暗殺が失敗している標的だ。新たな刺客が送り込まれても不思議ではない。


「お前のせいだ。お前が死ぬべきなんだ!」


 血走った瞳に宿る狂気の光。真冬の山中に生身で放り出されたような寒気が全身を包み込む。目を離してはいけない。その瞬間に死ぬ。直後、男の腕が振り上げられた。速い。硬直していた体を必死に動かし、左腕でガードする。鋭い痛みが駆け抜けた。視界が霞み、意識が薄れる。それは誘惑のように感じられた。このまま目を閉じれば楽になれる。痛みに耐える必要もない。このまま目を閉じれば。それはつまり自分が死ぬことだ。それだけではない。この異常者に立徳花子を引き渡すことだ。母親は喧嘩した息子と二度と会えなくなる。


「ふざけんじゃねえぞ、クソが!」


 絶対に許さない。唇を噛む。粘着質な血の感触と共に現れた激痛が富嶽の意識を繋ぎ止める。直後、右拳を放った。顎を狙った一撃はあっさりとかわされる。朦朧とする視界の中、男の手に見えたのはスタンガン。乾電池の出力とは思えない。おそらく改造を施したバッテリーで駆動しているのだろう。銃やナイフに比べれば殺傷能力は低い武器。それは男がより危険である証拠だ。富嶽が今まで捕まえてきた犯罪者とは違う。証拠隠滅を念頭に置いて計画的に犯罪を繰り返す裏社会の殺し屋だ。


「僕は悪くない……、ぼくはわるくない……」


 うわ言を繰り返しながら、頭を掻きむしる男。嫌悪を覚えるが、無防備に見えた。掴みかかろうと真っ直ぐ手をのばす。だが、その姿が煙になったかのように消えた。刹那、後ろから首に腕が回る。頸動脈を圧迫する不快感に気を払う余裕はない。右から聞こえるのは耳を塞ぎたくなるような電撃音が響く。まずい。咄嗟に右腕を振り上げた。前腕同士が激突し既のところで泊まるスタンガン。体全体を傾けて、男の体を振り落とす。床を転げ落ちた青年の手からスタンガンがこぼれ落ちる。拾う猶予は与えない。富嶽は恐怖をこらえて足に力を込めた。

 瞬間、体全体に電流が迸る。見れば電極を撃ちきったテーザー銃の照準を虚ろな瞳が覗き込んでいた。


「僕じゃない、僕は何もやってない」


 テーザー銃を放り捨て、刺客が迫ってくる。スピードは葛城より速くない。しかし、霞む視界では追えなかった。

 だから諦める。富嶽は目を閉じて集中した。壊れたラジオのように吐き出され続ける男のうわ言に耳を澄ます。今まで聴覚を鍛えたことはない。目を閉じて戦う芸当は限りなく不可能だ。しかし、確実にできることだけをしていても死ぬだけだ。

 音が近づく。動くべきは今か? 早すぎるか? それとも手遅れか? 何も分からない。富嶽は天運を信じて拳を突き出した。鈍い音と共に跳ね返る確かな感触。やったか? 目を見開くと、男の両腕に絡め取られた自らの腕が見えた。


「六徳くんのお母さんに手を出すな!」


 左手で手首、右手で肘を持った男はそのまま富嶽の右腕を逆方向に捻じ曲げた。ばきりとあっさり割れる骨。壮絶な激痛は肩の根本まで一瞬で駆け抜ける。口から絶叫が引き出された。交通事故にあったこともあるが、痛みには未だ慣れない。涙で滲む視界の端、男が腕の持ち方を変えているのが見えた。このままでは完全に破壊される。


「触んじゃねぇ!」


 咄嗟に男の体を蹴り飛ばした。腕を潰したことで安心していたのか、男は防御もせず一撃を受け入れた。再び離れる両者の距離。富嶽の腕がだらりとぶら下がる。怪我の程度は分からないが、使い物にならないことは確かだ。

 最悪だ。何故、自分がここにいる? 雲霧ならとっくに殺している。桜寺なら今頃取り押さえている。彼らのような特別な才能は自分にない。制服に身を包めば、よくいる警察官の内の一人だ。


 「僕は悪くない、悪くないんだよ、父さん。お婆さんを殺そうとしたのはこいつなんだよ」


 再び男が迫る。左腕まで壊されたら戦えない。冨嶽は咄嗟に腕を構えると左足に鋭い灼熱が燃える。視線を下げるとつま先がふくらはぎに食い込んでいる。カーフキック、筋肉量が少ない急所への攻撃を認識した瞬間、こめかみに衝撃が駆け抜けた。視界が揺れ、足元がおぼつかない。不安定な体は蹴り飛ばされ、床を転げ落ちる。キャビネットに頭を打ち付け、口から茶色い米の塊が吹き出した。


「ざまあみろ、天誅だ」


 男の声が大きく聞こえる。鼓膜に響いて耳が痛い。このまま立ち上がることに意味はあるだろうか。実力差は明白だ。一介の警察官が敵う相手ではない。点滅する視界の中で男の足が見えた。顔面に放たれた蹴りは直撃し、歯の何本かが飛ぶ。冨嶽は涙を流したら、咥えた脚を思いっきり噛み潰す。悲鳴が上げ、青年が引きずさった。冨嶽はふらふらと立ち上がりながら、六徳花子と男の間に入った。


「警察ナメんじゃねえぞクソガキ」


 赤い唾を吐き出し、鉄の味を噛みしめる。天才はいない。ならば凡人が命を張るだけだ。今も昔も、公安であろうと交通機動隊であろうと、自分の仕事は市民を守るためにある。

 道を歩けば曲がり角、どちらに進むべきか迷う時もあった。だが、止まることはしない。正しいと思って歩き始めたのなら、崖っぷちであろうと進み続ける。


「来な、六徳さんには指一本触れさせねえ」


「僕は何もしない、デタラメを言うな!」


 山童が再び突進する。その手には特殊警棒、合金の刀身には紫電が瞬いていた。到達は一瞬。しかし、冨嶽には永遠のように感じられた。脳裏に浮かぶのは30年余りの人生。舞い上がった日もあれば突き落とされた日もあるが、後世に語り継ぐような物語ではない。自分が生まれてきた意味はあっただろうか。それは分からない。明確な事実はただ一つ、死ぬべき時は今。

 体を低く沈めた冨嶽は折れた腕を男の腰に回し、右手で繋ぎ止める。背中に激痛が走るが、へそに力を入れて耐える。後数秒の辛抱。冨嶽は叫び、男の体を抱きかかえて窓へと走り出した。



 ――――――――――――――――――――――――――


「天道、入金額を間違えてるぞ」


 明細を突きつけると天道は朗らかに笑った。護衛はいない。高級料亭の一室で二人きり。ポレヴィークの体は徒手空拳で人を殺せるほど鍛え上げられており、腰のホルスターに拳銃がある。当然承知の上だが、天道は気に留めない。


「悪い悪い。少なかったか? 不足分は倍にして払うから許してくれ」


「逆だ。多すぎる」


 わざとらしく目を開く天道。軽薄な言動が目立つが、彼は世界有数の投資銀行で最年少のヴァイスプレジデントに就任している。誤送金をするわけがない。


「なら構わないだろう。黙って貰ってしまえ」


 わざわざ隣に座って馴れ馴れしく肩に手を回す天道、やんわりと外すとポレヴィークは天道に向き直った。


「報酬は事前に決めたはずだ。それより1円たりともずれることがあってはならない」


 入金額が少なければポレヴィークは怒り狂うだろう。ならば多かったとしても同じ態度を取らなければならない。対等な取引関係はそうあるべきだ。


「お前のそういうところが好きだよ。キスしてやろうか?」


 ポレヴィークは思わず顔をそむけた。天道は同性である自分から見ても美形ではあるが、性的嗜好のギャップは簡単に超えられない。


「だが、それはお前の金だ。手癖に悪い坊やから取り上げておいたよ」


 ポレヴィークは目を見開いた。一ヶ月前、故郷の村に学校を建設しようと業者に契約金を支払ってから連絡が途絶えていた。何故知っている? その疑問は瞬く間に自己解決した。むしろこの男が知らないことの方が珍しい。


「ちゃんとしたデベロッパーを紹介してやるから金はそいつに払いな」


「何故そこまでする?」


 天道は首をかしげた。当たり前のことを子どもから聞かれたかのように。


「優秀な働きには色をつけるのがマナーだ。それに俺の為に死んでくれるなら、生きている内に手厚くしてやらないとな」


 死が迫る中、思い出すのは天道との記憶だった。もちろん祖国へ遺してきた両親へ伝えたいことはある。不肖の息子として死ぬことを心から謝らなければならない。しかし、体を突き動かすのは彼への想いだ。


「何故立ち上がるのです?」


 ごぼごぼと血の咳を吐きながら、ポレヴィークの膝を立てた。幼児でも今の自分より早く立ち上がれる。逆転の可能性は微塵もない。自分はここで死ぬ。それでも立ち上がる理由はただ一つ。

 ――そういう契約だ。


「俺は……、雇われて……、人を、殺した……」

 

 自分を愛してくれたのが両親なら、自分を見つけてくれたのが天道だった。金と人脈が腐る程あっただろうにわざわざ極寒の刑務所までやってきて自分を雇ってくれた。即時釈放するならそれも交渉の材料にすれば良かっただろうに彼はそうしなかった。純粋に自分の能力を買ってくれた。


「死ぬときは……、立ったまま……」


 天道は自分を大切にしていないだろう。手をかけたのは優秀な手駒が欲しいから。たとえ死んでも少し残念そうにするだけだ。代わりはいくらでもいる。だが、それでいい。悲しむことは事前の報酬に含まれていない。損得のない関係は家族だけで十分だ。


「私が戦った人間の中ではあなたが一番強かった。素晴らしい才能が犯罪のために使われたことを残念に思います」


 雲霧の言葉にポレヴィークは静かに笑う。二人の天才が認めてくれた。冥土の土産には丁度いい。

 

「罪は死で償う。無為に苦しむ必要はない」


 雲霧はナイフを拾い、一瞬で距離を詰める。ポレヴィークは咄嗟に首を守る。瞬間、心臓が刺し貫かれた。急所への一撃、言葉通りの日本人らしい慈悲。それが命取りだ。


 システマ、メドヴェージヤ・フヴァートカ。


 筋肉を収縮させ、刃を押し止める。刺し傷は刃物が抜かれて大量出血したときに致命となる。急所だろうと抜かれなければ命は一瞬保てる。ポレヴィークは最後の力を振り絞って胸元の手榴弾に手をかけた。引き抜かれた安全ピンがからりと音を立てて、コンクリートの床へと落ちる。雲霧が目を開きナイフから手を離した刹那、爆炎が地下駐車場を包みこんだ。

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