第12話 火蓋
閃光が走る。雲霧優は既にハンドルを切っていたが意味はない。RPGの砲弾は秒速200メートル程度で銃弾より遅いが、狭い地下駐車場で避ける術は無かった。一瞬の炸裂音と共に激しいい耳鳴りが襲う。音のない世界、窓を叩き割って外に放り出された体は無数のガラス片と共にコンクリートを血で汚しながら転がり落ちた。車のフロントバンパーに激突し、うつ伏せに倒れる雲霧。盗難防止のアラームが聞こえたのは数秒経過してからだった。
「おい、一人だぞ。標的で合ってるのか?」
2人分の足音。それらは小さな金属音――胸に括り付けた手榴弾と防弾プレートが当たる音――と共にゆっくりと近づいてくる。
「知るか。ここまできたら殺すしかねえだろ」
倒れるまで無表情だった雲霧の顔が歪む。確認もせず攻撃したのか? 病気で苦しむ子供をおいて家に帰らざるを得ない親が相手でも同じ目に合わせたというのか。湧き上がった怒りは裂傷や打撲の痛みを掻き消す。拳銃を抜き、静かに安全装置を外した。だが、感情に任せて撃つ選択はしない。近くに落ちた一番大きなガラス片で男達を観察する。野球帽とフェイスマスクに隠れた顔、肩に押し当てられたAKライフル、体の要所を守る防弾プレート。垣間見える瞳の色や骨格は日本人のそれは違う。生まれは東欧。加えて彼らは柔らかい筋肉ではなく、硬い骨で銃身を支えている。見よう見まねで出来る人間は少ない。政府かゲリラかはさておいて、軍事的な訓練を最低限受けている。彼らの手にRPGはない。恐らく別の兵士が撃ったものだ。複数の方向から殺気を感じる。
「待て、もう少し近づいてから撃とう。弾を無駄にしたくない」
彼らは雲霧が死んだか、あるいは動けないほど重傷を負ったと考えている。引き金を引くのは至近距離、反撃の機会はそこだ。しかし、無駄にはできない。銃弾をかわして一人を殺すのは簡単だ。しかし、生き残った一人に反撃の時間をふんだんに与えてしまう。罪人にそんな贅沢はさせられない。素早く二人仕留める。
「ここならいいだろう」
今だ。雲霧は引き金を引いた。微塵の躊躇いもなく。銃口を自らの腹に突きつけている状態で。火薬の炸裂音がけたたましく響き渡り、背中から大粒の血が噴き出す。放たれた銃弾は雲霧の腹と傭兵の肩を貫いた。迸る灼熱の激痛。だが、事前に理解していれば驚くこともない。白いシャツを紅に染めた雲霧は膝を立てて起き上がる。ライフルの支点を潰された男に脅威はない。相方は慌てて銃の狙いをつけようとしたが遅すぎた。振り返ると同時に銃身を蹴る。狙いが外れた銃口は仲間に向き、その体を一瞬の蜂の巣へと変えた。仲間の死に目を見開く男の首を撃ち抜き、ライフルを奪う。脅威の消えた二人には目もくれず、ライフルを持ち直して即座に発砲。十数メートル先で発射寸前だったRPGの砲弾に火花が走り、爆炎が上がる。
風で熱を感じるのもつかの間、視界の端で光が瞬き爆発音が響く。再び向けられた砲弾は雲霧へとまっすぐ飛ぶ。
「無駄な選択だ」
雲霧はライフルを捨て、紙一重で砲弾をかわす。RPGの砲弾は先頭の爆弾と後尾のロケットモーターによって構成される。雲霧はロケットモーターを掴み、手首のスナップでくるりと回した。グローブが熱せられ、革が皮膚に吸着する。モーターから噴き出す蒸気が容赦なく体に吹き付け、銃創を焼かれた。激しさを増す痛みに雲霧は顔色一つ変えずに手を離した。方向を捻じ曲げられた砲弾は持ち主の方向へとまっすぐと飛翔し血と火と煙を撒き散らす。断末魔は無視して雲霧は赤黒い手にフラググレネードを抜いた。安全レバーを握りしめ、ピンを親指で外す。左手で放り投げると柱に激突し、ビリヤードのように軌道を変えて曲がり角の奥へと消えた。一瞬の絶叫。だが、それは耳を覆いたくなるような爆発音で掻き消される。秒速300メートルで放たれた無数の破片。PMCの装備では即死だろう。だが、一人の兵士が角から姿を現した。
「尻尾がとかげを守ったか」
手榴弾の脅威は爆発そのものではなく、それにより飛散する破片だ。覆い隠すものがあれば防ぐことはできる。防弾装備を施した人体のような。
兵士は銃を撃ちながら、遮蔽物を求めて駆ける。遠距離で戦う気がない。病室を狙撃した者か、もしくはその配下だろう。脳内に記憶の閃光が走った。病室で両肩で撃ち抜かれても若者を守ろうと助けを突き飛ばした刑事。不器用ながらも妻と娘に向き直ろうして、その機会を永遠に奪われた男。
――すま……ない……
雲霧はライフルを拾い、走りながら構えた。距離、温度、湿度、コリオリ。ニュートン力学で弾道に影響を与える全ての要素を計算にいれ、銃弾の膜を張った。しかし、銃弾は男の体を掠めるも捉えるにいたらない。緩急のついた動きは遠目から見るとぼやけ、補足できない。
「システマか」
銃撃戦に応用できるほどの精度、大した技術だ。しかし、敵ではない。雲霧は男の頭上に銃弾を放つ。蛍光灯が叩き割れ、細かなガラス片が男に降り注ぐ。大した傷にはならない。しかし、男は一瞬動きを止めた。そして、天井と車に激突し跳ね返った弾丸が傭兵の背中に突き刺さる。二度の跳弾により威力は落ち防弾プレートを叩き割るに至らない。それでも傭兵は苦痛に喘ぎ、両足を止めた。雲霧は撃ちきった銃を捨てて肉薄する。男は照準をあわせ直そうとしたが遅かった。近接戦の射程内に入った雲霧は震脚でコンクリートを踏み抜く。
「能力は枝葉に過ぎない」
八極、崩拳。
右手を握りしめて突き出した瞬間、男は体を強張らせた。システマの肉体操作、衝撃を受け流すつもりだろう。その選択は許さない。拳を開き、防弾プレートに押し込んだ雲霧はその上から左手の掌底を叩き込む。
合気、鎧通し。
密着状態から放たれた発勁は体の内側へと響いただろう。傭兵は膝から崩れ落ちた。雲霧はすかさず右手を掴み取る。立ち上がらせる為ではない。カランビットナイフで手の腱を斬るためだ。小さな悲鳴と共に傭兵は武器を二度と持てなくなる。それでも彼の心は折れなかった。左手で殴りかかってくる。予想より強い精神力だが意味はない。
合気、握手落とし。
手首のスナップで雲霧は傭兵の体をけん玉のように投げて地面に打ち付けた。鈍い音と共に傭兵の口から空咳が噴き出す。もはや抵抗する力は残されていない。
「心こそ人間の根幹です。腐っていては枝葉が実っていても意味がない」
銃を拾い、フルオートで10発。フロントガラスが穴だらけになり、返り血で紅に染まる。直前に見えたのは無線機に向けて何かを怒鳴っている傭兵。地下駐車場は二階まである。本隊がそこにいるのだろう。敵の兵長は部下を見捨てて爆破する男だ。前線に来るはずがない。事実、下の階から複数の足音が聞こえてた。ライフルで武装した従軍経験者の集団が警戒しながら、こちらとの距離を確実に詰めてきている。対するこちらは単独、不利な戦いだ。だが、退く訳には行かない。今は幸いなことに自分一人だが、一般人がいつ来ても不思議ではないからだ。入院患者の家族、勤務している医者や看護師。救われたいと願い、救おうと戦っている者達を野蛮な争いに巻き込むことは何人たりとも許されない。六徳花子の護衛には信頼できる部下を向かわせた。ならば自分の選択はただ一つ。敵を殺す、一人残らず。そのための武器は既に揃っていた。
雲霧は両手で構えていたライフルを片手で持ち直し、ホルスターから拳銃を抜く。そして、コンクリートに崩れ落ちた男に凍てつくような視線を送った。
――――――――
薄暗くなってきた街並み。不気味に揺らめく街路樹の下を山童操はゆっくりと歩く。人々の話し声や車のクラクションで織りなす喧騒のハーモニー、道行く人々は山童をその一つとして気にも止めない。良いことだ。孤独の仲で彼は考える。病院に訪れる理由を。具合が悪いから? それは駄目だ。受付で待たされた挙句、医者に診られるだけ。海外の部隊で鍛え上げられた健康体。良い医者ならすぐに帰らせる。悪い医者なら検査費用を稼ごうとする。どちらにせよ目的は達成できない。指定された病室に訪れて、専門的な仕事をするという目的は。母親が病気だから。悪くない理由だ。親の見舞いをする息子に疑いの目で見る者は多くないはずだ。だが、リスクはある。警察が張り込んでいて母親は誰かと聞かれたら? 何号室にいるかと聞かれたら?嫌疑なしと判断される答えはない。答えられなければ嘘をついたことになる。嘘をつくのは悪いことだ。
――嘘つきはうちの子じゃない。
ごめんなさい父さん。僕が悪かった。もう二度と嘘をつかない。だから、殴らないで。痛い、痛いよ。
山童は小さく震えた。両腕を交差させて、肩に手を置いて自らを抱きしめる。黒い瞳に涙をたっぷりと浮かんでいた。休みたい。近くにあったベンチによろよろと座り込む。
時計の針は誰に対しても平等に進んでいく。だが、たまに自分だけ巻き戻ることがある。20年前に。まだ子供だった日に。自分で自分を守れなかった頃に。忘れられるなら何でもする。だが、何もできない。
――大丈夫だよ、僕はもう嘘をつかないよ。絶対に。
しばらくすると、針が戻ってきた。大人となった今に、自分の身を自分で守れる現在に。震えは止まっていた。零れ落ちそうな涙も無い。ゆっくりと息を吸い、吐き、立ち上がる。考え直そう。親子関係を偽装することは難しい。それは分かった。ならば、友人関係ならばどうだろう。老女と若者。有り得ないことはないが、違和感がある。違和感は疑いを生む。嘘だという疑いを。
――嘘をつく子には罰に与えないと。
やめて父さん。痛いよ。お願いだから。許して。嘘なんかじゃないよ。本当だよ。
吐き気がする。だが、今回はそれだけだった。口元を抑えながらも、今度は座らない。ニアミスだ。後少しで真実になれる。諦める時ではない。山童は酸っぱい液体を飲み込んだ。喉が焼かれ、腹にじんわりとした熱が通る。ゆっくりと息を吐き出しながら再び考え直す。老女の友人を名乗ることは得策ではない。ならば、息子の友人ならどうだろう。素晴らしいアイデアだ。僕は六徳優の友人。高校時代の同級生。彼は警察に、自分は自衛隊に。
共に公務員の道へ進んだ二人。気が合う彼らは社会人になった今でも付き合いがある。酒を酌み交わし、民間で働く者達には分からないような愚痴を言い合って夜を明かす。完璧だ。六徳優の交友関係を全て把握している者が六徳優以外にいるものか。誰にも分からない。だから、信じる。本当のことだ。嘘などではない。自分は本当のことを言っているだけ、何も悪くない。
――よし、良い子だ。
ありがとう父さん。信じてくれてありがとう。僕はこれからも嘘をつかないよ。本当だよ。
山童は笑った。正しいことをしていると気分が良い。友人の親を見舞うのに時間を割く優しい男。善いことだ。褒めてくれよ父さん。他の誰でもない、父さんに褒められると嬉しいんだ。
スマートフォンを取り出しインカメラを起動する。1200万画素で映し出された顔は好青年そのものだ。誰が疑うものか。震えはない。涙もない。吐き気もない。軽くなった胸を弾ませながら、山童は病院へと足を踏み入れた。誰もが出来るわけではない専門的な仕事をする為に。標的、六徳花子を殺害するという任務を果たす為に。
――――――
「まずは公安を潰す」
雇い主の宣言に鳴寺は聞き入る。天道と同乗するリムジンは確かに快適だった。革張りのシートは体に溶け込むように心地が良く、窓の外からは人工的な光がぼやけて幻想的な美しさを作り上げている。しかし、鳴寺の心はそれでは癒せない。拳を振り上げる女、銃を向ける黒尽くめの集団。彼らが死なない限り、一息をつくことはできない。
「舞台は整えた。久瀬ちゃんに貰った殺し屋とポレヴィークなら問題ないだろう」
天道の作戦はこうだ。六徳花子に刺客を差し向け、止めに入った公安の部隊をポレヴィークが全滅させる。彼は優秀な軍人だ。自分が殺しそこねた刑事を片付けてくれている。しかし、不安は拭えない。
「彼らで十分?」
「問題ない。刑務所にぶち込まれたとはいえ元特殊部隊だ。この国の警察官が勝てる相手じゃない」
天道は優しく微笑む。しかし、彼の語る言葉は必ずとも真実とは限らないことを鳴寺は知っている。天道は楽観主義の発言ばかりするが、実際の行動はそうではない。常にリスクを想定し、全てを潰す。ただ武力で押し切るつもりならバックアップとして自分か蜂須恵を向かわせただろう。それが無いということはポレヴィークは崖の際に立たされたということだ。公安を仕留めなければ捨て駒にされる。
天道の配下についた以上、常に警戒しなければならない。彼の望みを叶えている内は安泰だが、そうでなけれた享受したものの代償を支払うことになる。
「そう心配するな鳴寺。お前の好きな音楽をかけてやる」
天道は笑みを浮かべたまま車内の中心にあったアナログレコードの針をかける。なぞられた盤が奏でるのは『荒城の月』。包み込むような優しいメロディに鳴寺は眼を閉じて集中する。僅か25歳で亡くなった日本人、滝廉太郎が故郷を思って綴った曲は時を超えて鳴寺の心に響いた。しかし、それは滝が表現した故郷の情景であって自らのそれではない。自分の故郷は思い出したくもなかった。同級生に川へ突き落とされた時や母親に包丁で刺されかけた時を懐かしむ人間がどこにいる?
――故郷
共産党の独裁体制の下、反体制活動家の父と国に目をつけられずに生きたい母の間に二人目の子供として生まれた時からそれは存在した。当時、祖国では人口増加の歯止めをかける為に夫婦一組につき子供を産めるのは一人のみと制限されていた。子供を一人産めば各種手当が受けられるが、二人目を産めば手当の廃止と高額な罰金に加え様々な制裁を受ける。だから、母は二人目を望まなかった。だが、それは父にしてみれば国に従い信念を捻じ曲げることになる。必死に抵抗する母を父は強引に抑えつけたらしい。たいそう壮絶なものだったのだろう。お前はレイプで生まれた子供だと母は毎日のように恨み節を聞かせてきた。
――恐怖
通常、二人目の子供を生む目的は労働力であることが多い。その為、制裁を回避する為に役所に届けられることはない。戸籍上はこの世に存在しない者は黒核子、ヘイハイツと呼ばれた。国民として認められず、労働力として消費される人生。自分はそうではなかった。そのほうがどれだけマシだったことか。父は二人目の子供を大いに喜び、役所へ届け出た。数々の制裁も活動家にとっては褒賞と変わらない。厳しければ厳しいほど、信念を貫いたという実感を父は得られた。しかし、子供にとっては? 外を歩けば一人っ子で甘やかされた子供にいじめられる。家では虚ろな目の母になじられる。制裁のおかげで学校に通えない。代わりに父が一般的な知識や言語を教えてくれたが、それは事態をより悪化させるだけだった。なぜ自分がこんな目に? 磨かれた賢さは子供に自分は生まれながらに恨まれているという自覚を与えた。愚かなままであれば何も感じなかったのに。
――恐怖
世界が見えるようになると、恐怖を感じるようになる。家の外でも内でも常に攻撃に晒されている子供にとってはそれは致命的だ。自分を見つけた時、人間の瞳は銃の照準のようになる。一度入れば銃口が火を吹き銃弾で撃たれる。だから、いつも逃げていた。唯一の安全地帯――昼は政府指定の印刷所で働き、夜は反体制活動に勤しむ父――を探して。だが、それはある日突然消え去った。再教育キャンプへの収容。大黒柱を失った母は静かに泣いた。愛する長男を抱きしめて部屋に見送った後、憎むべき次男を包丁で刺し殺そうとした。
――恐怖
お前さえ生まれなければ。そう叫ぶ母から必死に逃げた。ただ遠ざかる為に夜の闇を駆け抜けながら、たどり着いたのは埠頭だった。その場を支配していたのは蛇頭と呼ばれる密入国斡旋を財源とする組織。縄張りに侵入した子供を男達は捨て石としてなら使えそうだと判断した。分けられた飯を掻き込みながら、外国語が話せることを伝えると彼らは大いに喜び、一員として組織へ加入することがその日の内に決まった。
見張り、通訳、脅迫、強盗。様々な仕事を任され、その全てをそつなくこなしてきたが、一番才能を発揮したのは殺人だった。密入国者を子豚と呼び、人として扱わない男達よりも鳴寺は躊躇わなかった。生きている人間への恐怖が彼の凶刃を加速させる。
――恐怖
人が死ぬと安心した。光を失った死体の瞳には敵意がない。目を合わせても自分を傷つけることや恨み言を呟くことはしない。だから、標的が生きていることは絶対に許さなかった。17歳の時、移民として現れた両親と兄を殺害した時も例外ではなかった。しかし、彼らの死体は他と違って目を合わせることが出来なかった。頭と胸を撃ち、首を斬った死体を前に涙が止まらなかった。何故? それは今でも分からない。その必要もない。支払いを終えた子豚を三匹殺した程度のことを誰も責めることはしなかった。19歳の時、実績を積み重ねた彼は大役を任された。子豚の新たな出荷先として日本を開拓するビックプロジェクトの一員を。成功すれば幹部の席に座れる。最初の仕事は提携を断った日本の暴力団、天道組の壊滅だった。平和な国の裏社会で甘い蜜をすする組織、楽な相手だと思っていた。しかし、それは誤りだとすぐに気づく。組長暗殺の為に本部へ侵入した時だ。気配を完璧に消したつもりなのに、すぐに見つけられた。
「見つけたぞ」
50代の男だった。皺が目立つその手には一振りの日本刀。時代遅れの侍に大陸の殺し屋はまるで歯が立たなかった。殺せない。ナイフでの近距離戦は刀に圧倒され、距離をとって銃撃をしても全て躱される。あっという間に首元に刃を突きつけられた。ここまでか、恐怖に怯える男を救ったのは一人の大学生だった。
「殺すな、もったいない」
制服をきっちりと着た男はゆっくりと近づいてきた。武器を持たず、体格もそれほど優れていない。だが、瞳は見つめれば飲み込まれそうなほど深い闇が広がっていた。照準のような目とは違う圧力。しかし、恐怖は感じなかった。自分を傷つけるようなものではない。事実、殴られることもなじられることも無かった。
「世界一安全な場所がどこか分かるか? 俺の隣だ。来たいなら歓迎する」
承知したのは命惜しさだけではない。蛇頭のボスに恩義はあったが、眼前の少年には彼には無い安心感を覚えた。生きている人間と真っ直ぐ目を合わせるのは人生で初めてだった。言いしれない高揚感が胸へと湧き上がる。後日、日中合同の刑事捜査で蛇頭のほとんどが逮捕されたと知り、彼に抱いていた希望は確信へと変わった。自分は少年についていくしかない。今までの不幸は全て彼に出会うための試練だったのだろう。
試練。それは今、公安部の特殊部隊だ。奴らは常に目を光らせ、自分を見つけて撃とうとしている。一人でも生きている内は眠ることさえままならない。殺るか殺られるか、今日で必ず決着をつけなくては。
――――――
「急げ! 敵に時間を与えるな!!」
ポレヴィークは人目も憚らずにライフルを構えながら、地下一階へと駆け上がった。甲高い銃声が響くと共に途絶えた無線応答。何が起きたのか想像をするのは容易だった。事前に受けた報告では成人男性が一人。連絡が続かなかったことから犯人は彼で間違いない。一階に配置していたのは12人。その全員が一瞬の内に殺された。たった一人の男によって。
馬鹿な。有り得ない。だが、そうとしか考えられない。無駄な思考は切り捨てて現実を受け入れるしかない。敵は怪物だ。大戦の最中なら歴史に名を残すような戦士だ。真正面からの一騎打ちであれば確実に瞬殺されただろう。正直、ここで天道との縁を切って逃げ出したい。だが、それは今取れる中で最も愚かな選択肢だ。敵の黒幕は公安部。日本で暮らしている内は常に背後を気にしなければいけなくなる。かといって、今更他の国では生きられない。つまり、逃げた先に自分に待っているのは恐怖に支配された人生。想像しただけで反吐が出る。人である為には戦うしかない。今ここで、見えている内に必ず敵を殺す。
『コンタクト! 敵は3、手強くてそちらに行けそうにない』
院内に配置したチームリーダからの報告。敵は一人ではないようだ。にも拘らず単独で動いている。ポレヴィークの脳裏に記憶が光る。ひび割れたスコープ、その脇に転がる拳銃の弾丸。間違いない、奴だ。
(よりもよって俺のところに来やがって)
残酷な運命に舌を打ちたくなるが意味はない。自分が余裕をなくせば部下の士気は低下する。士気の低下は敗北と同義だ。万全の状態であっても厳しい相手に自分からハンデを背負う必要はない。地下1階についた時、携帯電話が鳴り響く。天道か? 宛先を見ると母だった。切電すると同時に携帯電話の電源を落とす。ここからは全神経を集中しなければならない。
「突入! 敵の断末魔は同胞へと鎮魂歌だと思え!」
部下は何も疑問に思わず自分の前に突入してくれた。仲間を思う気持ちは理解できる。同じ危険を分かち合い、背中を預けた仲だ。自分にも友情はある。しかし、金になるわけではない。先頭の何人かは必ず殺されると思った。だが、予想に反して銃撃はこない。同時と思えるぐらい間をおかずポレヴィークも角から飛び出す。現場は凄惨なものだった。足元に五体満足ではない屍が無数に転がっている。フロントガラスが真っ赤に染まった車もある。
役立たずめ。心の中で舌打ちをしつつ、殺すべき敵を探す。そして、見つけたのは一人の男。イサパラトの武装をしているが、様子が妙だ。まずスキーマスクが前後逆で目が見えない。手には拳銃。支給した武器ではない。種類は分からないが、西洋系に見える。銃口を向けて警戒する。あれが敵か? お粗末だが、味方の振りをして油断を誘っているつもりか?いや、違う。不意打ちを受けたのにも拘らず十人以上の人間を瞬時に殺す兵士だ。下手な仕事はしない。必ず何か裏がある。眼をこらしてポレヴィークは気づいた。その後ろの車、そこから除くライフルの銃口を。
そこだ! 不審な男は注意を逸らすためのデコイ。その隙に狙撃してくるつもりだろう。そうはさせない。ポレヴィークは車体へと照準を合わせた。車一台分ならライフルで撃ち抜ける。何発か撃てば当たるだろう。後は銃撃戦だ。練度は劣るが、それは数で押し切ればいいだろう。
――――――
今はまだ選択の時ではない。
雲霧は微動だにしなかった。呼吸は最低限に抑えながら。スナイパーの経験もある彼は、何時間でも同じ体勢で音のない呼吸が出来る。
それは選択の連続だった。動かない。動かない。動かない。それをただひたすらに繰り返す。緊張、匂い、汗、感触。誤った選択に導こうとする誘惑は数え切れないほど降り掛かってくる。だが、雲霧は揺るがない。それは目的があるからだ。敵を殺害するという単純明快な目的が。被害者は自らの選択に関係なく命を奪われた。体から生の熱が消えていく恐怖と向き合いながら。焼かれて灰になった死者達を思えば、この程度のことを辛いとは思わない。彼らは思うことさえ出来ない。死者。選択を奪われた者たち。代わりに声を上げてくれる生者がいなければ、誰も彼らには気づかない。
――使命感
その為に自分がここにいる。死者の代弁者として、彼らの声を行動で示していく。一人の愚者が投げた石は十人の賢者が集まっても取り返せない。愚者を罰したとしても。なら、罰することは無駄か? それは違う。罰せされたという事実が後の世に遺ればいい。記憶が人を作るように、歴史が世界を作る。愚かな選択には、惨たらしい結末。単純明快な事実こそ愚かな選択を抑止することが出来る。逆に許せば助長する。他人の痛みが分からない人間は己の為に何をするか分からない。
――選択
ゆっくりと息を吸い、吐く。音を立てないように、慎重に。まだ動くときではない。先手は敵に譲る。勝負をしかけるのは後手だ。カウンターで確実に撃滅する。雲霧は武器をしっかりと握りしめた。身動き一つせずに、狙いを定めながら。
――――――
その選択は正しいのか?
ポレヴィークは指の動きを止めた。銃撃の指示を出すこともしない。自分の部下を使った罠はあまりにも見え透いている。
ディティールの荒い敵への変装、まるで金メダルを見せびらかすように飛び出した銃口。それらはまるで香ばしい香りのする肉だった。犬なら何も考えずに飛びついただろう。だが、自分は人間だ。冷静に観察する。そして、その肉に鈎針が刺さっていることに気づいた。
「それは味方じゃない、奴だ! 撃て!!」
狙撃兵はブラフ。詳細は確認できないが、ライフルの側に部下の死体を置いているのだろう。自分が指示した瞬間に撃つ為に。そうはさせん。ポレヴィークは照準を敵の胸元へと合わせた。銃口に取り囲まれた男は慌てて動こうとする。逃走する為か、はたまた応戦する為か。それは分からない。全身を蜂の巣にされて血飛沫を上げる男は悲鳴すら挙げずに崩れ落ちた。
――――――
餌が釣れた。
雲霧は哀れな男の死に様を見届けた。右手に続いて左手のアキレス建、両目と声帯を切断された上で立たされた男を。見抜かれぬよう安全装置を外した拳銃を握らせたが、引き金を絞るだけの力は出せないだろう。何も見えない暗闇。生殺与奪の権利は奪われた。立っていろと言われれば、その通りにするしかない。
マトフェイ=マカロフ。声を上げることも出来ず、助けに来た仲間に殺された男。悲惨な末路だが、雲霧は同情しなかった。責任は彼の選択にある。傭兵として、人の命を金に変えてきた。ならば自分の命を奪われるのは当然のことだ。特に彼らは遠い異国からこの国に銃と犯罪をもたらした。二度と祖国の土は踏ませない。ここで全員、地獄行きだ。その為にそろそろ動かなくては。地に臥せていた雲霧はゆっくりと指に力を込めて、信頼できる武器を握り直した。
――――――
餌に釣られた。
一瞬は策略を打ち破ったと勝ち誇ったポレヴィークだが、そうではないことを瞬時に悟った。崩れ落ちる男は手首に傷を負っていた。直線に入った傷。銃槍ではない。刃物による裂傷だ。普通に戦闘していてつけられる傷ではない。勝敗が決した後、敗者につけられる屈辱の傷だ。
つまり、今射殺したのは敵ではない。部下だ。デコイとして敵に尊厳を踏みにじられた哀れな部下だ。
「罠だ! 敵は車の後ろに隠れている!! 十時の方向!!!」
ヒュッとナイフが振るわれたような風切音が耳をつく。それが合図となった。鼓膜が破れるかと思うほどの激しい銃声。銃弾の雨が真っ黒の車体を容赦なく叩く。
ポレヴィークはが撃ったのは20発。残りは七発。銃口を向けたまま警戒するが、反撃は来ない。ヒュッと再び風切音。耳に障る。こめかみに伝う汗も鬱陶しくて仕方がなかった。だが、気にする余裕はない。耳を塞いだ瞬間、額を拭った瞬間、隙を見逃す敵ではない。ヒュッ。これで殺せただろうか。それとも、撃たれたふりをして反撃の機を伺っているだろうか。ヒュッ。銃口は動かない。これで生きてるなら大した胆力だ。普通の人間なら慌てて発砲する。ヒュッ。敵は犬ではない。真剣に生きている人間だ。殺すのはそれなりの労力とリスクを要する。ヒュッ。生きるか死ぬか。決着は必ず着く。車の背後を取り、弾倉に残った十発を吐き出す八秒間の内に。ヒュッ。余裕は微塵もない。だが、弱気になれば必ず死ぬ。マカロフは落ち着き払い、全神経を目線と指先に注ぐ。ヒュッ。車体の裏へと飛び出し、銃口を下へと下げる。一瞬で的を捉えた照準。だが、銃口は静かなままだった。ヒュッ。それは味方だった。首を斬られた部下。だらりと力の抜けきった体がライフルの側に置かれていた。スコープを覗くような頭の位置。グリップを握られた手。マカロフが敵の計画に気づいたのはその瞬間だった。
「……くそ」
何故気づかなかった? 自分に腹が立つ。敵に見せかけた瀕死の部下、狙撃手に見せかけた死体の部下。それらは全て注意を逸らす為だった。それらより、より単純明快で分かりやすい作戦を隠す為の。
ヒュッと何度も響く風切音に振り返る。そこには部下がいた。背後からナイフで首を斬られ、血を流している部下が。11人の部下を連れてきたのに、もう2人しか生き残っていない。迅速かつ正確な斬殺。
「コンタクト! ビハインド!」
叫ぶと同時に引き金を絞る。即座に放たれる5発の銃弾。だが、男は半身を反らしただけで躱した。直後、部下の一人が照準を合わせた。驚異的な戦闘力も数の差を埋めることは出来ない。そう思っていた。引き金を絞るよりも先に素早く放たれた蹴りが銃身を叩きつけるまでは。狙いがずれた銃口が火を噴き、射線にいたもう一人の部下を撃ち抜く。頭に四発、即死だ。
倒れる仲間に視線を奪われた一瞬、一閃が部下の喉をクリスマスケーキのように斬り裂いた。
ぱっくりとわれた頸動脈が血の噴水が湧き上がる。小ぶりのナイフでつけられたとは思えない致命傷。生死など確かめるまでもなかった。数のアドバンテージは消えた。遺されたのはポレヴィークはただ一人。男は容赦しなかった。ナイフを持たない手で部下のホルスターから拳銃を抜き銃口を向けてくる。
「……警察が敵の武器使うな!」
バックステップで距離を取る。瞬間、空気が熱く燃えた。耳元を掠めた弾丸が1cm横の柱に激突する。すかさず撃ち返す。五発の銃弾は男の背後にある車の窓ガラスを叩き割った。これでから空。柱の影に隠れ、ポレヴィークは新しい弾倉を胸元のホルダーから取り出す。捕虜も狙撃兵も囮だった。全ては策を二者択一と思わせ、無造作に転がっている死体から意識をそらすための演出に過ぎない。死体の紛れ、部隊の背後を取るや否や行動したのだろう。目立たないように、一人ずつ。音もなく、気配もなく。
化け物め。驚異的な身体能力もさることながら、銃を撃つタイミングと弾道を完全に掌握している。それでいて感情を一切も表現せず、行動を読ませない。本当に日本の警察官か?
「クソっ、何者だ」
「雲霧優」
嘘だろ。警察官であれば十人が十人、物陰に隠れて無線に向かって応援要請を怒鳴りつける場面だ。だが、こいつは違う。銃を捨ててナイフ一本で間合いを詰めてきた。殺されることを覚悟して、殺す為に。かつての日露戦争。列強として名を連ねていた東欧の帝国はアジアの小さな島国に恐れおののいた。理由はこれだ。どれだけ殺しても奴らは足を止めなかった。死ぬことなんて微塵も恐れていなかった。自分が死ぬことより、敵が生きていることを恐れている。
「ポレヴィーク=オーシェリア。あなたの死も忘れない」
一メートルにも満たない距離。リロードは間に合わない。ポレヴィークは雲霧めがけてライフルを投げ飛ばす。もし撃とうとしていたのなら死んでいた。照準を覗き込む間に、自分の喉仏はかき斬られていただろう。半身を反らして紙一重で銃を躱した雲霧から放たれるのは鋭い刺突。急所に当たれば確実に人を殺せる一撃。
横に飛んで逃げる。その直後に風切音は砲弾が掠めるような感覚だった。急所でなくても受ければ怪我ではすまない。それにこの素早さ、予備の拳銃を引き抜いて照準は合わせることは不可能だ。ならば、相手の土俵に立つまで。ナイフを引き抜くと同時に横薙ぎに払う。雲霧は応戦せずに真後ろに下がって距離を取った。
「俺はまだ死ぬわけにはいかない」
敵は猛者だ。無線はやかましいが、増援にこれないことだけは伝わってくる。ならば選択肢は一つ、雲霧優はここで自分が殺す。
「我が為に」
ポレヴィークは呼吸を整えて雲霧を睨みつける。やるべきことは他にも山積みだ。彼の部下を殺し、天道への刺客を殺し、成功報酬を満額で受け取る。そして、大金を送ってやれそうだと母に折り返しの電話をしなければならない。
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