第10話 蒼茫

 バイクを走らせるのは復讐を誓った日以来だった。

 アクセルを吹かすと陽に照りつけられた体が向かい風に冷やされる。暑くもなく寒くもない。アスファルトの地面が流れ、ビルや雲が過ぎていく。それでも人々の喧騒は振り切れない。その一つに向けると家族連れが見えた。父と母、兄と弟。史郎を後ろに乗せていた時は目に留めなかったであろうその光景に胸がざわついた。

 史郎、富嶽史郎。歳の離れた弟との思い出話で六徳に言わなかったことが一つある。士郎はとにかく臆病で、自分から人と関わることはなかった。兄である自分でさえ一度も遊びに誘われたことはない。彼を連れ出すのはいつも自分が言い出したことだ。口にしたことはないが、歳の離れた弟が可愛くて仕方なかった。呼ぶときは無論、同僚に自慢する時も必ず名前で紹介していた。


 ――何故、弟さんを名前で呼ばないのですか? それに親を他人みたいに呼ぶなんて


 資格を失ったから。家族なら厳しく接することはあっても見捨てることがあってはならない。耳を澄ますと母が子を叱る声が聞こえてきた。心がざわつくような怒気、しかし縁を切るようなことはしないだろう。叱るのは子の為だ。傷つける為でも自らの感情を発散する為でもない。だが、自分は違った。怒りに身を任せて家族の縁を容易く断ち切った。


――さっさと謝れ、後悔しない内にな


 どれほど悲しかっただろう。どれほど辛かっただろう。どれほど打ちのめされただろう。無駄だと分かっていても考えて胸が苦しくなる。取り返しのつかない後悔が終わることはない。何年経っても古傷にならない。陽を浴びている時、美味しいものを食べた時、眠りにつく時、後ろめたさが真綿のように首を絞めてくる。


――貴方は家族を奪われたんだ。罪人じゃない。


 喜ぶべきか、恥じるべきか。一回り年下の男の言葉に体が軽くなった。それは自分が一番欲しかった言葉だったかもしれない。誰かに自分を許してほしかった。今のように風を感じることを素直に楽しみたかった。自暴自棄になり人を殺そうとしたのに結局は人並みの幸せを求めている。


――他人を恨むより先に自分を許してください。


 それが正しいかどうかは分からない。しかし、迷った以上は立ち止まる必要がある。人生は一本道ではない。道を歩けば曲がり角がある。その先に何があるかは曲がるまで分からない。今がまさしくその時だろう。一生を捧げると決めたはずの交通機動隊の職を捨てたように、復讐に燃える怒りを鎮めるべきだ。


――その先に何があるか。


 交差点を曲がり、街路樹の隣を過ぎる。燃えるような紅の葉がひらりと舞い肩に落ちる。良い景色だ。車道でなければ立ち止まっていた。もう少し進むと大きな病院が見える。患者にとってはこの風情も薬の一つになるだろう。だが、そこに富嶽の瞳は紅葉から外れていた。視線の先は歩道の上にいる一人の老女。質素な服装の彼女に不審点はない。交通機動隊の時なら、目に映らなかっただろう。だが、今はそうではなかった。富嶽の瞳は彼女に焦点に合わせる。自分が殺そうとした男に駆け寄り、涙を流していた女性に。


(立徳巡査の母親、何故こんなところに?)


 元交通機動隊の富嶽はスマートフォンを見ずとも地図を頭の中に描ける。彼女の自宅と警察病院も登録済みだ。二つの間にこの場所はない。買い物にしても他に近い店はいくらでもある。何故わざわざこんな所に?そこまで考えて富嶽は思考を振り切った。彼女は知っている人間だが、監視対象でなければ不審者でもない。プライバシーは守られるべきだ。息子で内緒で病院の近くを歩いていようが、富嶽が口を出すことではない。だが、何の脈絡もなく倒れられてはそういうわけにもいかない。富嶽はバイクを路肩に寄せ、慌てて彼女のほうへと走り出した。胸が奇妙に高鳴った。この感覚は覚えている。交通事故の重傷者を助ける時のものだ。


――――――


 奴らが来る、奴らが。

 革張りのソファの片隅で石妖は頭を抱えた。奴らはまだ生きている。ニトログリセリン、血管拡張剤の原料を用いた即席爆弾は奴らの一人を仕留めるに至らなかった。天道からの連絡もない。奴らは今も血眼で自分を探し続けているだろう。刻一刻と壁に掲げられた時計が音を立てて針を回す。獣の足音に聞こえて気が滅入りそうだ。警察は馬鹿なのか? 市民の血税を使って粗悪品を買うなんてどうかしている。ふざけやがって。怒りは風船のように膨らみ、破裂する。石妖は勢いよく立ち上がり、スマートフォンを投げつけた。正面から激突した電子機器は破片と共に床に叩きつけられた。想像以上の音に石妖は驚いた。血の気が引いていくと同時に鳴り響いたドアの激しいノックが彼女の胸を締め付ける。奴らだ! 鼓動が高なり、息が荒くなる。刺客が律儀にノックを3回するはずないと気づくのに時間がかかったのはそのせいだ。


「失礼します」


 中に入ってきたのは色並署の刑事、灰塚純。間違いない。警察署についたときに職員の顔は全員覚えている。奴らが紛れ込んでもすぐに分かるように。安堵の息をつくと、消しきれなかった火が再び大きくなるように怒りが再燃した。わざわざドアを強く叩く意味があったか? 耳が聞こえないとでも思ったのか? 灰塚をじろりと見る。中肉中背の平均的な顔立ちの日本人。仕事はそこそこできそうだが、女は寄り付かないだろう。


「どうかされ――」


 平坦な声が途中で切れた。視線の先にはひび割れた時計とスマートフォン。石妖と一度も目を合わせずに背を向ける。その後に彼から小さく漏れたため息は聞き捨てならなかった。飼い主ではなくペットに対するような態度に石妖は額にしわを刻んだ。


「ねえ――」


「構いませんよ。片付けますので道具を持ってきます。危ないのでじっとしていてください」


 それは申し訳ない、どうかしていた。


「違う、確認させて。奴らはここに来ないわよね? ここにいれば安全よね?」


 来ないと答えてくれるだろうが、それだけで満足する気はない。人員の数や武装について事細かに尋ねるつもりだ。納得が出来たら時計壊しの謝罪をし、刑事の安月給以上の金を払う。計画に頷く石妖だが、灰塚は振り返ってみることはしなかった。


「さあ、どうでしょう。病院には来ましたし、ここにも訪れるでしょうね」


 ぶっきらぼうに言い放つと灰塚は再び歩き始める。彼にとっては必要十分な回答らしい。息が詰まり肩が震える。奴らが来るということは自分が死ぬということ。なのに灰塚は遠い国の話をしているかのようだ。目頭に熱い水滴を感じながら灰塚の後ろ姿を睨みつける。


「何なのその言い方! 他人事みたいに――


「お前を殺しに来るんだろうが!」


 突然の怒鳴り声に思わず飛び退いた。勢いで壁に激突した背中が痛みを訴える。だが、聞いている余裕はない。獣の目のような銃口がまっすぐとこちらを睨んでいた。


「な……、何で……」


「私は署長とは違う。あなた達への感謝も忠誠もない」


 怒る余裕はなかった。灰塚の指は引き金にかけられ、瞳にはレインコートの男と同じ光が宿っていた。自分はここで死ぬ。逃げるように目をきつく閉じると、まぶたの隙間から一筋の涙がこぼれ落ちた。


「ですが、盾にはなりましょう。仕事ですから」


 しかし、覚悟していた衝撃は来ない。おそるおそる目を開くと灰塚は再び背を向けていた。


「後は逃げるなり隠れるなり好きにすればいい」

 

 扉がゆっくりとしまり、石妖は再び静寂に囚われる。枯れた花のようにソファの上へと崩れ落ちた。疲れて泣く気にもならない。最悪な気分だった。こういう時、そこには常に男がいる。

 始まりは大学生の時だった。高校まで女学校で男というものを直接見るのは初めてだったが、大抵は取るに足らない。しかし、一人だけ対等になれた男がいた。頭の回転が早く、自分の話についてこれる。生物学の話で朝まで盛り上がれたのは彼だけだ。それに彼は非常に気が利く。欲しいと思ったものは何も言わずともプレゼントしてくれた。彼と過ごしているとプリンセスになった気分になれる。運命、そう信じて疑わなかった。


「愛しているよ、香」


「うん、私も」


 生まれて初めての高揚感、これが女の幸せだと石妖は舞い上がった。彼のためなら何でもできる。だから、大学を中退して就職した。

 きっかけは君の才能をもっと早く世に知らしめるべきだという彼の言葉。両親やゼミの教授には必死に止められたが、愛の試練を与えれたようで決意をより強固にするだけだった。そして、夢が覚めるのに時間はかからなかった。与えれた仕事は研究とは別物の低俗なものばかりだったからだ。掃き溜めに鶴にいることはあってはならない。だから大学に戻りたいと彼に伝えた。彼なら自分の望みを理解してくれる。自分を幸せ者だと勘違いしていた少女はただ純粋にそう思っていた。

 だが、運命は残酷だった。閑静な住宅街に響いたのは彼の返事ではなく、甲高い平手の音。少しでも痛みが減るように腫れた頬をさする自分を彼は血走った目で睨みつけてくる。黙って仕事をやれ、金を稼げ。想像もしたことがない怒鳴り声に怯えて頷くことしかできなかった。


「ごめん、なさい」


 泣きながら謝る姿は幼い子供のようだった。人は年を重ねただけで成長できない。自分は勉強が得意だからと他人を見下してきた。喧嘩の強さでヒエラルキーが決まると信じている不良のように。ハンマーを持つ人には全てが釘に見える。情を軽視しているから愛と搾取の区別もつかない。しかし、気づいたところで全ては手遅れ。彼のために全てを捨てたおかげで今さら身を寄せるあてはない。従順にしていればそれなりに昔と変わらず優しくしてくれる。幸せになりたいなら少し我慢すればいい。それだけが自分にできる唯一の選択だ。


「……ああ、もう」

 

 石妖は頭を振って、心を現に戻した。考えてもどうしようもないことは考えるな。溜まった涙が溢れないように石妖はきつく瞳を閉じた。


 ――――――


 コンクリートに包まれた部屋に3度の銃声が響き渡る。縦長に広い地下射撃場を跳ね返り、駆け抜け、やがて室内は静寂に包まれた。

 横一列にずらりと並ぶレーンの一つに雲霧優は立っていた。焦げ臭い硝煙の香りが鼻をつくが目の色一つ変えない。50メートル先の標的――中心に6つの穴――を一瞥し、45口径拳銃を9mm拳銃の隣に置く。銃身についた汚れや照準のずれ、弾丸が外れる要因は射手の技量のみではない。調整を怠れば市民が死ぬ。愚者が池に落とした石は十人の賢者が揃っても取り戻せない。だから、落とさぬように事前策は全て講じる。銃を2種類持つのもその一つだ。遠距離の敵を確実に撃ち抜く高威力の45口径拳銃と近距離でも跳弾のリスクを避けられる低威力の9ミリ拳銃。常に正しい選択をするための準備を怠ったことは一度もない。

 本当に?

 疑念と同時に記憶が鮮明になる。冷たいコンクリートの床に蹴散らされた若者達、血に染まったベッドの上で謝罪を遺した刑事。警察官が市民を守るように、部下を守るのが上司の役目だ。彼らは直属の部下ではなく、信頼関係は皆無だった。遠回しな非難を度々受けており、彼らが刺客に襲撃された時には無線を切断されている。だが、それらは雲霧にとって重要ではない。手の届くところで守るべき命が失われた。その事実だけが重みを持つ。今まで大勢の人間を殺してきた。全て犯罪者だが、人の命に変わりはない。無辜の民や仲間を救うことは彼らの魂に対する贖罪だ。殺すべきを殺し、生かすべきを生かす。運命が神の思し召しだとしても、誤った選択は雲霧優が二度と許さない。

 右手をゆっくりと開き握りこぶしを作る。違和感はない。全ての調整は完了した。2丁の拳銃をスーツの内側にしまった時、スマートフォンが鳴り響く。ディスプレイに表示された名は工藤正親。


『繋がって良かった。射撃訓練は終わったのか?』


 終わっていなければ電話に応答できない。工藤がそう考えたのは、射撃訓練を行う際は防音性能が高いイヤーマフをつけるのが規則だからだろう。しかし、雲霧は規則を守っていなかった。忘れていたわけでも、怠ったわけでもない。必要がないと判断したからだ。


「ええ、準備は万端です。要件をどうぞ」

 

『中世期製薬の研究所をいくつか特定した。座標を送るから何人か攫ってこい。やり方はお前に任せる。多少は殺しても構わん』


 どすの利いた工藤の声。優秀だが素行不良の刑事の言葉は公務員とは思えない。冗談ではないだろう。暴力団の組員を半身不随にした事件が決め手となり左遷された彼の経歴から察するに。


「承知しました。中世期製薬幹部の身辺調査は進んでいますか?」


『悪いが進んでいない。側近の奴らは名前を変えた形跡があるが、天道の経歴は真っ白のままだ。全く、俺が落ちた大学に合格した優秀なビジネスマンは過去を隠す為にどれほど手を汚したんだろうな』


 データによれば天道の親が組長を務めていた暴力団は解散届が出されている。組員全員が足を洗い、5年の期間を経て暴力団として見なされなくなってから。警察学校を出ていなくとも、恣意的だと分かるだろう。


『そこで聞き込みをしようと思う。人の記憶は不正確だが改ざんはできない。やつに親兄弟はいないから、同級生に目をつけている』


「今からですか?」


 なぜ仕事が遅い。それは不満ではなく疑問だった。令状を取る前に容疑者に手錠をかけるような男が自分の承諾を待つわけがない。


『急いではいる。だが、小学校の同級生は全員消息不明で今は中学校のアルバムをめくっている。本当に気味が悪いやつだよ』


 工藤は保身のために嘘をつく男ではない。電話は複数回かけ、所在確認もそれなりに試みているだろう。考えられる最悪の可能性が一つあるが自分の口から言う事ではない。工藤の役割が捜査であるように、自分にも役割がある。


「承知しました。では準備します」


 電話を切った雲霧はもう1台のスマートフォンを取り出した。連絡帳に表示された唯一の連絡先に指をのばす。しかし、触れはしない。10秒ほどしてから画面を閉じ、その場を後にした。

 


 ――――――――――――――――――――――――



 老女の体は、人一人とは思えぬほどの軽さだった。

 立徳花子は病院の患者だったらしい。連れて入ると医師や看護師が酷く慌てていた。指定された病室に運び込み、ベッドに体を下ろすと検査と処置が迅速に行われた。説明はされなかったが、その慌ただしさは彼女の容態が芳しくないことを声高らかに語っていた。やがて、全てを終えた医療従事者は嵐のように過ぎ去る。だが、彼女の危機が去ったわけではない。他に緊急を要する患者がいるというだけ。今この瞬間にでも、息を引き取ってもおかしくないだろう。


――後悔しない内に


「ありがとうございます。運んでいただいて」


「……どういたしまして。ただ、当然の事をしたまでなのでお気になさらず」


 処置の中で意識を戻したのだろう。声ははっきりと聞こえるものの、顔色は悪い。あの若手警察官は自分の母親が点滴とナースコールに繋がれている事を知っているだろうか。そんな状態でありながら、重傷を負った息子を一晩中見守っていたと分かっているだろうか。だが、自分には関係のない事だ。富嶽は別れの挨拶を告げて病室を出ていくつもりだった。


「あの……」


 しかし、か細い声に口を塞がれて足を止められた。弱々しい声にはその力がある。能力の有無を差し引いても、冨嶽武は警察官だ。助けを求める手を振り払うことはできない。何も言わずに傍にあった椅子へと腰掛けた。


「優は、仕事をちゃんと出来ていますか?」


 優。富嶽にとって、その名を持つ同僚は二人いる。雲霧優、六徳優。彼女がどちらを指しているかなど聞き直すまでもない。だが、どう答えたものか。

 六徳優。ゴーストに立ち向かう精神力と互角に渡り合う格闘能力、事務能力は分からないが磨けば光るのは間違いないだろう。しかし、警察に家族を奪われると思っている女性にありのままを伝えるのははばかられた。


「どうでしょうか。あいつは異動してきたばかりですから」


「そうですか。ちゃんと、クソ野郎を豚箱にぶち込めているといいのですが」


 あの青年は警察の仕事を親になんと説明しているのだろう。


「……優秀だとは聞いています。期待していますよ」


「ええ、そうでしょう。あの子は真面目で努力家なんです。きっとどんな仕事でもこなせます。だから、遠慮なく使ってください。あの子、昔から警察になることが夢でずっと頑張ってたんです。でも、ちょっと抜けているところがあるのよね。そういうときは容赦なく叱ってやってください」


 自分の親が上司にこんな事を言っていたらと思うと異動したい。冨嶽は個人的な感想を飲み込み、改めて六徳花子を見る。息子の職業を語る母親は誇らしげで楽しそうだ。辞めるように説得していたとは思えない。


「……息子さんが、心配ではありませんか?」


「ええ、そうですね」


 その問いかけはするべきではなかったもしれない。目を伏せる立徳花子を見て富嶽は後悔した。親しい間柄でさえ話題にしてはいけないことは数え切れないほどある。初対面であれば尚更だ。自分が不幸だからと他人に気を使わないのは不正義だろう。老女の前で無ければ、深い溜息をついていた。だが、富嶽の自己嫌悪とは裏腹に老女は柔らかく微笑んだ。悲しげに、それでいて懐かしそうに。


「夫も警察官だったんです。優しくて、頼りがいがある人だったけど職務中に亡くなりました。飲酒運転者を職務質問しようとした所をその車に跳ねられて……。遺体は顔を潰れていて酷かったけど、何故だかあの人だって思ったの。私にとって本当に大切な人だった。花畑から一番綺麗な花を摘まれて持っていかれるように、この世から奪われてしまった」


 家族とは魂の一部かもしれない。一つ屋根の下で共に育った家族の死は心を容赦なく貫くものだ。病気や事故ならば立ち直れただろう。だが、殺されたのなら話は別だ。自分から家族を奪った人間が生きている。自分の知らないどこかで笑っている。その現実に目を向けると、心が冷たくなっていく。死ぬべきだ。殺したい。人の道を外れた考えばかりが胸に浮かぶ。


「夫が殉職した時、あの子はしばらく家出しがちになったんです。まだ子供で、耐えられなかったのでしょう。夫の部下が見守ってくれていたけど、私は気が気じゃなかった。家族がまた一人、あの子まで消えてしまいそうで。今も同じ気持ち。でも、あの子はもう大人になりました。自分の道を自分で決めている。私の言う事なんか聞きやしない。とても悲しいけれど、私は喜ぶべきよね。あの子はもう一人で生きていける。親としてこんなに誇らしいことはない。でも、あの子を目の前にすると守ろうとしてしまう。……馬鹿よね、素直に応援してあげれば、互いに傷つかないのに」


 力なさげに笑う六徳花子。伴侶も子も縁がないものだが、彼女の気持ちは想像できる。職業柄、不運で家族と無言の再会をしたものは少なからず見てきている。初めての立会は警察学校を卒業をしても間もない時だった。飲酒運転のトラックに轢かれ、即死した老夫婦。唯一助かった養子の若者が変わり果てた姿を身じろぎ一つせずに眺めていた。


「貴方も、親から心配されませんでしたか?」


 親。そう言われて思い出すのは、お前なんか息子じゃないという言葉だった。他人になった者などどうでもいいだろう。それとも、まだ情が残っているだろうか。それは分からない。この世の全てを手に入れたとしても死者と話すことは出来ない。


「どうでしょうか、俺は勘当されてしまったので」


「そんな……、こんなに強くて優しそうな息子さんなのに」


「優しそう、ですか」


 それは珍しい言葉だった。昔、言われたことがあるような気もするが誰に言われたか思い出せない。縁のない言葉だ。街を歩いていると、制服警察官から職務質問を受けることが前科者より圧倒的に多い。


「ええ、とても綺麗な目をしているわ。真っ直ぐで裏表なく自分自身を信じてきたのね。でも、少し悲しそう。……もしかして、縁を切られたご家族のことで思い悩んでいるのかしら」


 具合の悪そうな老女には起き上がる力すら無さそうに見える。だが、瞳には力があった。黒曜石のような瞳は見たものを引き込む力がある。心の中にあるものが口から出てしまう力が。


「……俺はまだ家族だと思っています。そうありたいと願っています」


「いいと思うわ。それが貴方の為になるのなら。誰だって、まずは自分の為を考えなきゃ」


 ――自分の為に。


 記憶が引きずり出される。自分を優しいといったのは親だった。自分の為に働きなさい。人の為となるのはその結果で良い。武は優しすぎるから。警察学校の卒業式でそう言われて二人に抱きしめられた。恥ずかしかったが、あの暖かさは嫌いではなかった。もし弟に謝って仲直りできていたら、また同じことをしてくれただろうか。


「……善処します」


「ええ、是非」



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「やあ、六徳巡査」


 陽気な声に視線を向けると端正な顔立ちの男が見えた。話をしたことはないが見覚えはある。自分が死んだ瞬間の光景は忘れない。レインコートの男に撃たれ、女性に抱きかかえられていた姿は絵に描けるほど鮮明に覚えている。


「天道世正だ、昨日ぶりになるね」


 客人だ。起き上がって迎えようとするが傷が突っ張る。ゴーストの自然治癒能力は高いと聞いていたが、個人差があるようだ。


「そのままで良い。急に押しかけたのは俺なんだから。君が客人の立場だ」

 

 静止を伝える右手の動きは淀みない。顔色は良く、こちらへ向かってくる足取りも健康そのものだ。銃で撃たれて1日経ったばかりとは信じられない。しかし、喜ぶべきことだ。レインコートの男はまだ人殺しではない。


「こんにちは、天道さん。お元気そうで何よりです」


「君のおかげだ。礼として白紙の小切手を用意したが、いるかい?」


 天道はスーツの裾から1枚の用紙を取り出した。ドラマでしか見たことのない荘厳な書式がひらひらと宙を舞う。六徳は生唾を飲み込んだ。警察官として恥のない生き方を目指しているが、仙人のように欲を捨てたわけではない。夢想はいくらでもできる。あの紙を受け取れば母に家を用意してやれる。新しい服や靴を買える。女性を気軽にデートへ誘える。六徳は深く息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。


「ありがとうございます。でも、受け取れません」


 公務員の倫理規定では利害関係者からの金銭の贈与が禁止されている。この場合、天道は六徳の利害関係者にあたるのか? 彼はそんなことを考えていない。固辞したのは雲霧ならそうしなかったからだ。警察の仕事は客を選ぶビジネスではない。報酬は税金によって賄われている。魅力的な白紙を受け取ることは二重取りは正義に反するし、市民の差別に繋がりかねない。


「だいぶ迷ってたけど、本当に良いのか?」


 構わないから早く閉まってくれ。誘惑への忍耐は疲れる。小切手を見ないように首を逸らしていると大きな笑い声が響いた。


「冗談、冗談。ちょっとからかってみただけだ。君ならそう言うと知っている。俺には人の欲しいものが分かるんだ」


 ビリビリと紙が破れる音。視線を戻せば天道が真っ二つになった小切手をゴミ箱へと捨てていた。もし拾い直して上手く繋ぎ合わせたら使えるだろうか。その疑問は深追いせず頭から追い出す。


「……気持ちはありがたいですが、物品も駄目なんです」


「分かっている。君が欲しいものは俺には用意できない。そういう真面目な警察官になることだろう? 子供のころの夢を変わらず追い続けられる大人は少ない。誇りに思うべきだ」


 天道は笑っていた。あわせて笑みを浮かべようとしたが、表情が強張って上手くできない。なぜ分かった? ナイフのように鋭い瞳は全てを見透かしているようで思わず目を下に逸らす。

 

「一つ、聞いてもいいですか?」


「なぜ命を狙われているか、だろう?」


――俺には人の欲しいものが分かる

 

「答えは用意できるが、せっかくだ。刑事の練習だと思って当ててみな」


 天道の声色はなぞなぞを出す子供のように楽しそうだ。正解の人物に自分が今も狙われ続けていると理解しているのだろうか。もしくは経営者として成功するにはそれほどの胆力が必要なのか。違和感を他所に六徳は素直に考えた。

 

「……ライバル企業の人とかですか?」


「良い答えだ。確かにぽっと出の新人にパイを奪われて老いぼれは入れ歯を噛み締めているだろう。でも、殺したいほどじゃなさそうだから不正解だ」


 天道はジャケットのボタンを外し、椅子へと腰をかけた。艶のある黒いシャツは隅まで体を覆っていたが、引き締まったシルエットが彼の肉体美を伝えている。警察官の同僚でもここまで鍛えている人間は少ない。彼なら大抵の揉め事は警察に頼らずとも自力で解決できそうだ。余裕の源はそれか? 六徳は瞬きと同時に天道の観察を中断した。まずは答え合わせ、彼を狙う人物の正体を探る。


「正解は俺の顧客、より細かく言うと割安価格の薬を提供した低所得者だ。開発したのは石妖だから二人とも恨まれてるってわけ」


 何を言っている? 予想外の答えは六徳の胸を詰まらせた。誰かの怒鳴り声を聞いた時と同じ焦燥が体を駆け巡る。

 

「そんなわけない、皆あなたと石妖さんに感謝しているはずだ」


 おもわず語気が強くなった。熱くなる頭に思い浮かぶのは新聞の切り抜きを飾る母の姿。彼女を侮辱されたようで冷静でいられない。だが、天道は涼しげに笑い続ける。


「君の言う通りだと俺も嬉しい。しかし、彼らにとって正義はどうでもいいんだ。恨むべき相手ではなく、恨んでもいい相手を探している。殴っても殴り返してこない、それが基準だ。虐待をする親には怖くて逆らえないが、友達のいない同級生を袋叩きにするみたいにな。自分に手を差し伸ばしてくれる奴なんて鴨が葱と鍋を持ってきたようもんだ」


 いつの間にか天道は笑っていなかった。虚空を見つめる瞳には黒い光。六徳は怒りを忘れ、逃げるように上半身を引いた。


「君にも分かるはずだ」


 変わらず穏やかな声に心臓が早鐘を打ち始めた。彼には何が見えている? 全てを見抜く瞳には自分の姿がどう写っている?


「……分からない。理由もなしに恨むなんてことがあるんですか?」


「理由なんて作れる。例えば彼らに1日3錠で14日分、計42錠の薬を出したとするだろう。しかし、2週間後に見てみれば30錠残っているなんてざらだ。病気によっては菌やウイルスが薬剤への耐性を持って治せなくなる。薬剤師はちゃんとそう言ってるのに聞きやしない。取り返しがつかない段階になって騒ぎ始める。ちょっと忘れたぐらいで死ぬなんておかしい。そういう薬を作った奴らが悪いってな。患者は死ぬからいいとして、その家族が厄介だ。親を死なせるなだの妹を返せだの恨み節がコールセンタに毎日届けられてる。どんだけ給料や福利厚生を手厚くしてもオペレータの離職率を下げられない」


 そういう人ばかりではない。咄嗟に口についてくるはずの言葉は声にならなかった。古傷が開いたように子どものころの記憶が一気に噴き出す。テレビ画面の向こうで父は悪人だった。一度も会ったことのない人々が父を暴力警官だと語っていた。結婚して10年も経つのに妻への贈り物で緊張する男が、死んで当然の人間だと世間に知られていく。言い返せない男に罵詈雑言が積み重なっていく。悔しくて、悲しくて、激しい怒りを覚えた。世界の全てがそういう人ばかりではないとは幼心でも理解できる。しかし、自分の目には誰も彼もが敵に見えた。


「本当に助けが必要な奴ってのは助けたい奴じゃない。でも、夢を叶えるためには助けないとな」


 まるで冷水を浴びせられたような感覚だった。人を助ける。その言葉を考える時、思い浮かぶイメージがある。今にも泣きそうな子供、無力感に打ちひしがれる女性。だが、天道の金を断ったように救済の差別はしない。つまり、かつて自分の父を侮辱していた人々をも助けるということだ。死んで当然の暴力警官の息子だと後ろ指をさされても盾になりつづなければならない。それが正義だと彼らの為に死ななければならない。


「やれるか?」


 静寂が訪れる。答えは分かっていた。それでも、喉からせり上がる別の何かを抑えるのに必死で口を開けない。


「夢を変えたいなら連絡をくれ。新しい人生をくれてやる」


 天道の指が名刺を机に滑らせる。手のひらサイズの1枚のカードはまるで札束のように重々しく見えた。


―――――――


 蛆虫め。

 立華録は切り刻まれたレインコートをポリ袋に放り込んだ。体の傷は既に癒えている。今すぐに扉から飛び出したかった。しかし、単独行動は許されていない。外には二人の見張りがいる。突破は難しくないが、そうすれば今度こそ神代に殺される。ポリ袋を玄関の隅に置き、壁に背中を預けて座り込む。そこが、1LDKの手狭な家の玄関とリビングの間の廊下が彼の部屋だった。顔を上げ、リビングへの扉を見る。かつて立華一家の半分が、守るべき妹と母がそこにいた。しかし、家族と再会する記憶の旅で向かうのは違う場所だった。


「お兄ちゃん」

 

 その日は晴れていた。窓の格子で縞模様になった光が無機質な白い部屋を程よく照らしていた。棚の上に飾られたひまわりがどこか嬉しそうに見える。妹が幼い時からずっと好きだった花。だが、彼女はそれを見ることは出来ない。寝たきりのまま首を少し動かして立華七菜は兄に目を合わした。


「どうしたの? 元気がないみたい」


 可憐な茶色の瞳に水面を浮かべながら、七菜は呟いた。少しでも外が騒がしければ聞こえない小さな声。しかし、兄の耳には届いた。胸の鼓動を高めるほどに強く、目の奥を熱く燃やすほどに激しく。兄はぐっとこらえた。震えそうな体を、泣きそうな瞳を。弱みを見せることは出来なかった。父と母は頼りにならない。働かず家族に暴力を振るう父、子供を愛してはいるが現実に向き合えない母。誰が七菜を守る? いつまでも子供ではいられなかった。兄として、強くならなければいけなかった。


「うるせえ、俺の心配なんかしなくていい。それより今日はどうするか早く決めろ。今読んでいる本は後7ページだ。続きを買っておくか。読める漢字がまた増えそうだ。それとも散歩にでもいくか? 今日は天気が良い。中庭ぐらいなら背負ってやるよ」


「……本当に? なら何でカーテンを閉めたままなの?」


 だから泣くな。そう自分に言い聞かせても無駄だった。ぽつりと一滴の雫がこぼれ落ちる。ぴしゃり。七菜の白い手に当たって水の粒は弾けた。彼女はそれを拭おうとはしない。代わりに小さく笑う。瞳から一筋の涙を流しながら。それを抑えようと瞼を強く閉じながら。


「そっか、もう見えないんだね。お兄ちゃんの顔、死ぬ前に見たかったな」


「……そんなもんは見なくていいだろ」


 空を青く澄み切っていて、端々に浮かぶ雲はまるで画家が計算をして配置をしたかのようだ。感動を得る為に金を払って絵を買う必要はない。窓の外を見るだけ。何故、妹はそんなことも許されないのか。自分に腹が立つ。もし才能があればこの感動を言葉にして彼女の心に景色を描くことが出来たかもしれない。だが、兄は本に書いてある言葉をそのまま読み聞かせるだけでも苦労する馬鹿な男だ。


「……ごめんね、お兄ちゃん」


「黙れ。何謝ってんだ、七菜は何も悪くねえだろうが。ふざけんじゃねえ」


「だって……お兄ちゃん、私のせいで学校に行けなかった……」


 学校に通っていたころ、立華禄の成績は悪くなかった。もしかしたら難関校に進学できたかもしれない。タダ飯ぐらいの役立たずと怒鳴り散らして拳を握る男が心を入れ替えればの話だったが。

 小さいながらも会社を経営している父は合理的で情熱的な男だった。勢いで孕ませたはいいものの年を重ねた妻とその子供への出資を抑え、股の緩い若い女に全力で投資するとは大したものだと思う。しかし、従順な奴隷は性欲以外の何かを満たすために必要だったらしい。別れを切り出すと手が付けられないほど暴れ、母と兄は痣だらけになった。愛のない家族は宇宙に存在しないと信じる平和主義の警察を何度も無理やり呼び出し、離婚は成立した。家族3人で引っ越して一息をつく母を他所に兄は防御策を必死に考えた。母を殴ろうとする父の顔にどこからともなく市役所に提出した離婚届が現れて顔に張り付いてくれるなら安心だったが。

 愚かな妄想を早々に切り捨て、住所を父に知られないように市役所の福祉課に相談した。真面目ぶった頭の緩い職員が父に住所を教えるとは夢にも思わず。父と再会した夜のことは体が思い出したくないのだろう。変わりに思い浮かぶのは気持ち悪い笑みを満足気に浮かべた女。家族なんだから一緒にいなきゃ。母と妹がどれだけ怖い思いをしたか理解できない馬鹿共は二度と信用しないと立華禄は誓いを立てた。だが、それは後の祭り。父との望まぬ再会で心を乱された母は働くこともままならなくなってしまう。何の前触れもなく泣き叫んだと思えばここにはいられないと暴れて手がつけられないことが度々あった。引っ越しもタダではない。収入のない状態で繰り返せば赤字になる。だから、母は借金をしていた。総額を知ったのは高校受験の前日だった。容赦なく並んだ数字の羅列は兄の進学を断念させた。

 学歴無し、資格無し、技能無し。若さだけが強みの社会人には最低賃金の肉体労働しか与えられない。自分を養うだけならまだしも、立華禄は3人の生活費と借金返済、それに七菜の学費を払う必要がある。だから、がむしゃらに働いた。倉庫管理とコンビニ店員の仕事を掛け持ち、日に14時間、週に6日働いた。それ以外の時間は食事を作り、洗濯をする。必要に応じて母が暴れて荒れた部屋を片付け、妹の宿題を手伝った。


「ガキが一人前に気を使いやがって生意気な」


 辛くなかったといえば嘘になる。布団の中で声を押し殺して泣いた日は数え切れない。妹や母を恨んだこともあった。だが、手を上げたことは一度もない。悪いのは夫の癖に妻に手をあげるクズだ。父の癖に子を育てる気のないカスだ。超のつくクソ野郎は既に頭の中で殺した。もういない。

 理不尽に殴られた妻を責める権利が誰にある? 親に捨てられた子供を責める理由がどこにある? そんなものがあるわけがない。もし他人なら知らぬ顔を出来ただろう。可哀想にと言葉を投げるで良い。だが、自分にとっては母だ。妹だ。血の繋がった家族だ。たった一度の人生。誰にどう思われても構わない。やりたいことをやる。常に正しいと思うことをしたかった。選択肢は少なかったが、その全てを自分の意思を選んだ。後悔はない。


「母さんや七菜の為じゃない。俺は俺の為に生きてる。勘違いすんな」


「でも……お兄ちゃん本当は学校に……」


 一度だけ同級生を見たことがある。制服に身を包み、イートインスペースでお菓子を食べてゲームをしていた。宿題が面倒だの親がうるさいだのと馬鹿騒ぎをしながら。幸せな奴らだ。棚の裏から飲料を補充しながら呆れていた。そう思いたいが実のところは羨ましかった。


「しつけえな。そんなに言うなら七菜が教えてくれ。楽しいと思ったことなら何でもいい。だから……、……死ぬな。七菜が教えてくれなきゃ、学校に行った気になれねえだろうが」


 兄は妹の手を握った。暖かった。七菜がそこにいる。生きている。死ぬわけがない。不意に握り返される。あまりにも弱い力。気を抜けば気づかない力に立華は慄いた。


「ごめんね……、私がおくすり飲み忘れたせいで……、ごめんね……」


 うるさい。いつもなら考えるより先に口から出る言葉が出せなかった。本心とは異なる乱暴な言葉。母や妹は自分自身を加害者だと思う節がある。理不尽な暴力に傷つけられた被害者だというのに。

 感謝するのは構わないが、申し訳無さそうにされると困る。まるで父のように彼女達を傷つけているようで。だから、素直に本心を言うことが出来なかった。口の汚い男だと思われても良い。家族が少しでも安らぐのなら。しかし、今は違う。これが七菜と話せる最後の瞬間かもしれない。本心を知ってほしかった。


「俺は世界で一番幸せな男だ。あんなクズみたいにならなかったんだ。母さんや七菜の為に頑張れたんだ」


 他人の人生のほうが素晴らしいとは思う。だが、代わりたいとは思わない。知っているか? 俺は運命に負けなかった。他の誰かなら耐えられない地獄を生き抜いた。自分は特別な人間だ。わがままを言うなら願いを叶えてほしい。妹の代わりに兄を死なせてくれ。


「だから……、俺を置いていくな……。まだ傍にいてくれ……、寂しいよ……」


 自分自身でも聞こえないような絞り出すような声。妹に弱みを曝け出すのは生まれて初めてだった。しかし、彼女は返事をしなかった。いつの間にか目を閉じていた彼女。触れている手に力はもうない。


「七菜……、七菜!」


 両手で包み込むように手を握りしめた。誰にも連れていかせるものか。たとえ神が相手でもぶっ殺してやる。しかし、彼女の手は徐に冷たくなっていく。指の隙間からこぼれ落ちるように失われる命。引き止めることは出来なかった。妹はもういない。胸に大きな穴が空いたような喪失感。兄はとうとう耐えきれず、ひと目も憚らず大声で泣いた。


「天道」


 靴箱の上で血まみれになった写真に向かって呟く。妹の体に群がった蛆虫の主。彼さえいなければ妹は高校に通っていただろう。自分が心から恋い焦がれた高校に。


「必ず妹を返してもらうなら」


 できないなら殺す。

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