ノーマン・アフターアポカリプス

🍜

第1話 融解

「もう、柚螺ゆら。せっかくなんだから笑ってちょうだいよ!」


 真新しい制服を着て無感情にピースをする私をスマホ越しに見ながら、母親が言う。

 [〇〇高等学校入学式]と書かれた看板の横にポツンと立つ私は、さっさと済ませたくて少し頬を持ち上げた。


 あれが、最後の母が笑顔でいる光景だったと思う。


 リュックサックの中で筆箱を鳴らしながら、母と家路についた時のことだった。

 着慣れていない制服と新品の硬さの残ったリュックサックのせいで何となく心地の悪さを感じていたが、それを横に立って歩く母の話に相槌を打つことで誤魔化していた。


 その内容は忘れたが、たぶん担任の先生や川沿いの桜並木についてなどの取るに足らないことで。橋の真ん中に差し掛かった頃、川面に目を奪われてからはあまり耳に入らなくなっていた。


 満開を迎えた桜がはらはらと川面に落ちていた。大きめの河川ではあるが流れは穏やかなもので、先ほど歌った校歌にも登場する程度には地域のシンボルとなっている。


 ああなんだ、いつもと変わらない。

 そうはじめは思った。また水面に見入っている私に何か声をかけて、母はもう目と鼻の先となった家に向かった。


 ぐわ、と波のように水がうねる。

 普段は濁った川の水が一直線に割れ、透明な水━━本当に水なのかは定かではないが、それが割れた間から溢れ出した。


 どこから湧き出ているのか全く分からないのに水の量は凄まじく、あっという間に堤防を越えた。この静かな超常現象から目を離せないまま、私は立ち尽くしていた。


 溢れこぼれた水は音もなく流れ広がっていく。

 それに驚いて逃げようとした男性が居たが、水の流れの方が速かった。足首ほどまで水に浸かったと思ったら、男性の体がぐらりと傾いだ。


 そして、転んだ……と思ったが、軽い水飛沫の後に、男性の姿はなかった。

 まるで、正体不明の水に丸ごと融けて消えたかのように。それ以外の通行人たちの姿も、水の中には見つけられない。


「……?!」


 そこまでを橋の上から見て取って、私は走り出した。何かに急き立てられ、一心に、我が家を目指して。既に、道路の上には水が薄く張っていた。


 走りは人並みだが、全力で走ればやがてスーツを着た母の背中が見えてきた。それと同時に、建付けの悪い引き戸を開けて出てくる妹の姿も目に入る。


「母さん、茉由まゆ……ッ。」


 呼び声が届いたのか、二人が私を見た。

 瞬間、私の全身は水に包みこまれた。もうこんな量に、そう思うが先程の人たちのことを思い出して思わず膝をついた。


 水はどんどん増え広がり、驚いたような表情をする家族も私と同じように水に包まれるのを見ていた。


 あれ、

 そう疑問に思ったのと同時に、母と妹は透明な水のなかで霧散した。身体も服も何もかもそこには無く、ただその部分だけ染められたかのような水色とオレンジ色が漂っていた。


 透明な水に沈んだ一帯は、いやに静まりかえっている。私は自分の両手を見つめた。生まれつき水掻きの大きなそれに、水面模様の光が揺れる。


「……ああ。」


 口の端から零れた泡が、頬をくすぐってから上がっていく。頭が結論を出す前に、心は理由を受け入れて凪いでいた。


「そうか、私は人間じゃなかったんだ。」


 腑に落ちたことによるよく分からない充足感に手を引かれ、思わず目を閉じる。

 これが、世界が終末を迎えた日のこと。

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