無常と言う勿れ
その昔、一条の君と呼ばれた一人の女房は、息を引き取る直前にある一言を、莚のように敷かれた熱っぽい閑静を踏みつけるように言った。
「無常と言う勿れ」
この言葉をどこから聞いたかは定かではないが、一人の童女が、その真意を知りたがった。人々はもちろんの事、犬にまでそのことをたずねる始末である。すると、見かねた一人の女房がその童女に、一つの昔話を語り始めた。
村上天皇の御時の頃、藤原千兼の妻に、としこという女がいた。その女は心深く、趣が理解できる「をかしき」人であったが、友人の一人である一条の君は、その心に一筋の危うさを見出していた。なべての所にある趣深い人には見られぬ、貝の肉のようにぬるぬると柔らかい、乾くことのない濡れそぼった妙な心。君は、その心に塵芥が引っ付く様を思い、苦慮していた。
ある日、一条の君の下を訪れたとしこは、物語の中繰り返し「無常」という言葉を言った。無常、この世は無常なのです、と。しかし、その表情は暗がりに染められてはいない。微妙な朝焼けが染みる妙な顔つきだった。あたかも新芽を見つけたをのこのような、甘味が舌に痺れる、キリキリと迫る嬉しみ。君は不審に思い、成るべく平穏に、物語に溶け込むように、その「無常」の出所を尋ねた。そうすると、このように語り始めた。
今日から仄近い日、源大納言の御もとにあやつことよぶこと共に参り物語を交わした。その話が流れるままに進み、ふと悲しき方向へ話が進んだ時、大納言がふつふつと、このように語りなさったそうである。
「いいつつも世ははかなきをかたみにはあはれといかで君に見えまし。この世は無常にあふれています。今このように集まって物語をすることも嘆くことも、いつかは命が終わって流れ去り、消えて行ってしまうものです」
このような話を聴き、三人の女は御返歌もせずたださめざめと泣くことしかできなかったという。その泣く女の中、としこは一人、袖を濡らしながら、無常の何たるかが再度感じ入り、こう一条の君に語り聞かせているというのである。
一条の君は、としこの話を聴き、ただじっと、その「無常」をかたる女を眺めていた。軽蔑も侮蔑も悲観もない、ただ薄明の陽のような両目で、しみじみと、としこの姿を。
暫しの静寂が部屋を包んだ。葉が擦れる音が幽かに聞こえる。ソメイヨシノの木だろうと、としこは思った。
年ごろ病におかされたとしこは最期、一条の君にこう伝えたそうである。
「私が死んだあと、どうか夫には何も語らないでください。大納言様の歌と反する行為ですが、私はそれが好いのです。だって、無常とはこういうものでしょう?」
こう告げた翌日、としこは無常の波にさらされてしまった。一条の君は、ただじっと、御簾を挟み外を眺め暮らした。
しばらくして、千兼から歌が届けられた。なんとも怒りに満ちた、波にさらされぬ岩のような歌だった。
「思ひきやすぎにし人の悲しきに君さへつらくならむものとは」
一条の君の返歌は素早かった。筆をとったかと思えば、指先でなぞるように動かし、
「なき人を君が聞かくにかけじとて泣く泣くしのぶほどな恨みそ」
と書き寄こした。この時君は従者の女に、聞こえぬように、ただ独り言ちるようにこう言ったそうである。
「この世は常ならず、全てが無になる塵芥のようなものなのだとしたら、無常もまた、塵芥のようなものなのではないのでしょうか」
従者の女は、聞いていない素振りをし、歌だけを受け取った。
話を一通り聞いた童女は、忽然と静かになった。足元では、犬が楽しそうに童女の足で戯れている。
「無常と言う勿れ」
犬がそう言っているように、童女は思えた。
出典:大和物語 第13段 右馬の允藤原の千兼といふ人の妻には
第41段 源大納言の君の御もとに
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