晴れ間へ向かう二人

「わたくし、実は結婚しておりました。それで申し訳ないのですが…この度寿退社させていただくことに…」

望月さんから、ある日そう言われた。

純壱がいなくなって半年ほど経っていた。

どうやら、純壱がいなくった直後から退職が決まっていたようだったが、僕と和也君が心配でそれを延期していたらしかった。彼はそれも見越していたらしく、和也君に家のことを引き継いでほしいと事前に望月さんに掛け合っていて、もう少しもう少しとやっているうちに半年経っていた。

自分のことに精一杯で、僕はまったく気づいていなかった。

「静香様をずっとお支え続けることができず、申し訳ありません」

そういって彼女は腰を曲げてお辞儀をしていた。

「いいよ。今までありがとう。僕のことは、もう忘れて」

笑うこともできず、ただ彼女を見つめながら言った。

「それは…」

何かを言いかけて彼女はやめた。

「おめでとうございますっす!ええと…後のことは任せてほしいっす!」

和也君が拳を掲げながら言った。口元こそ笑っていたが、目には不安が残っていた。

「はい。あとは頼みましたよ、和也さん」

「うっす!」

「では…

それが二週間前。一週間前から、望月さんは来なくなった。

家のことは何とか和也君がすべてやってくれていた。本当に専属になったらしく、余っていた一部屋に住み込み、働いてくれていた。

それに甘えて、僕はひたすら遊びまわっていた。

知り合いやストリップクラブで捕まえた人と毎日のように交わった。

ホテルに泊まることもあれば、家に連れ込んだりした。

そうしていないと寂しくて、今にも心が壊れそうだった。いやむしろ、もう壊れ切っているのかもしれないが。

純壱が店を経営してまで相手を探していた気持ちが、わかってしまったような気がした。

あと僕は、相変らずストリッパーとしても活動していた。

今日も和也君が用意したフルーツを適当につまんでから、クラブへと向かった。

最近ずっと食欲が無くて、これくらいしか食べられなかった。


いつもの流れで支度をして、ステージに立った。

ストリップは相手を見つける手段でしかない。とはいえ適当にやればファンも離れかねない。

今日も笑顔を繕い、愛想を振りまく。

「…あ」

ふと、いつも見に来ている常連の一人が目に入った。

眼鏡をかけた若い男の人。

彼はいつも、ほかの笑ったりいやらしい目で見ている観客たちと違い、真顔で口を真横に真っすぐ閉じ、真剣な眼差しで僕を見ていた。しかも、一人で来ているみたいだった。

あまりにも真剣に見ているものだから、変わってるな、と笑ってしまいそうになる。

真面目そうな見た目をしているのに、このような場に来るということはいわゆるむっつりスケベというやつなんだろうか。

だとしたら、彼を羞恥心で辱めたら、一体どんな顔をしてくれるのだろう。いつも、そんな妄想をしてしまう。

そんなことを考えながらも、公演は進んでいく。

僕は試しに、彼を中心に見せるようにストリップをやってみた。

その時、お互いの目線が交差した。

ほら、どう?

相変らず表情は変わっていないように見えた。

けれど、僕が彼に対する興味は変わった。

機会があったら、彼と一度交わってみたい。そう思った。


公演が終わり、帰り支度をして、裏口から外へ出た。

気温が下がってきて、寒い。

今日は出待ちの人はいないみたいだった。

さて、今夜はどうしようか…。

少しクラブの周りを歩いてみよう。そうすれば一人ぐらい捕まるだろう。

僕は散歩をするように、店の周辺を歩いた。

客用の入り口の方へ行くと、帰路につく客たちが数人、ちらほらと見受けられた。

目星をつけるために辺りを見回した。

その中に、ひときわ目を引く人物がいた。

眼鏡をかけたその若い男は、入り口を出て歩き始めていたところだった。

僕は彼に歩み寄り、声をかけた。

「こんばんは」

「えっ」

驚いたように彼は目を見開いた。彼にも感情はあったようだ。

「君は…静香」

「うん。いつも見てくれてたよね?ありがとう」

甘い声で語りかける。

「ああ、覚えてくれているんだな」

「もちろん。記憶力がいいから、二回以上来てくれたら覚えてるよ」

「それはすごいな…いや、ええと…」

彼は困惑しているようだった。何を言っていいのかわからないようだ。

こういう相手と直接会話した経験があまりないのだろう。

「ねえ、この後お暇?」

僕は目を細めて言う。わざとらしく小首をかしげてもみる。

「あとは帰るだけだが、何か用か?」

「うん、良かったらこの後一緒にどう?」

僕は彼に近づき、腕を腰に回して体を寄せた。

「それは、一杯飲もう、ということか?」

「へ?」

「違うのか?」

どうやら彼は、こういった業界は素人らしい。

いつもすぐに誘ってくる男たちと違って、彼はまだこちら側の人間ではないのかもしれない。

なんだか、僕にとっては珍しく、初々しくかわいくて、思わず笑ってしまう。

「あっはは、違うよ~エッチしようってこと」

あえてストレートに言ってみた。恥ずかしさで照れるのを期待した。

「そういうことか。気づかなくて済まない」

背の高い彼は、僕を見下ろしながら謝罪した。

「真面目だねー。あ、そうだ、名前は何て言うの?」

「そうだな、自己紹介を忘れていた。荒川翔平という。そこの基地で陸軍に所属している」

軍人。初めての相手だ。

「翔ちゃんね。よろしくね。」

最近は知り合った人をちゃん付けで呼ぶようになっていた。その方が、相手に僕がかわいらしく見えるような気がするから。

「ああ。よろしく頼む」

「それで、どうなの?」

背伸びをして、翔ちゃんの顔に僕の鼻先を近づけた。

「する?」

「俺はそういったことの経験がないんだが」

「その辺は僕に任せればいいから。ね、行こう?」

掌を移動させて、彼の臀部を撫でた。

経験がないのはむしろ歓迎だ。この男を、いかに弄んでやろうかと、今から楽しみで仕方ない。

「…君が良ければ」

「ほんと?ありがと!」

僕はめいっぱいの力で抱きしめた。

「じゃあ行こ。近くにホテルいっぱいあるから、どっか入ろ」

彼の腕をつかみ、僕は歩き出した。彼は僕にされるがままついてきてくれる。

そのまま、いつも使っている近くのラブホテルに入った。

「噂は本当なんだな」

部屋に入るなり、翔ちゃんはそう言った。

「なにが?」

僕は何のことか知っていたけど、とぼけてみた。

「いろんな奴と関係をもっていると、そう聞いた」

「えー噂になってるんだあ。恥かしいなあもう」

わざとらしく恥ずかしがった。まあ正直、そんなのとっくに知っているのだけど。

「じゃあ、そんな淫乱な僕とするの、嫌?」

「経験がないから分からないんだが、普通の奴らはそう思うのか?」

あまりにも未経験真面目くんの翔ちゃんは、もはや絶滅危惧種なのではないかと思った。

おもわず悪い笑みが出てしまう。

「ううんと、人によっては思うかもねえ。でも大体の人は気にしないよ?みんな気持ちよくなりさえできれば、それでいいんだからさ」

「そうなのか?」

「そういうものだよ」

「それじゃあまるで君が道具みたいじゃないか?」

「いいんだよそれで。お互いがお互いの、気持ちよくなるための道具でしかないんだかさ」

僕はそう言いながら上着を脱いだ。

そう、せいぜい付き合ってすらいない人たちの行為なんて、相手は快楽を欲しがり、僕は孤独を埋めるために、それぞれが欲しいものがあって、利害が一致した結果行われているだけに過ぎない。

そこに愛情は無い。誰もかれもが、自分のために腰を振っているだけだ。

「シャワー、一緒に浴びる?体洗ってあげるよ」

「いや、その間に基地に連絡する。休暇を延長してもらう手続きをしなくちゃいけない」

「ん、わかった。じゃあ先に入るね」

僕はシャワー室に入り、手慣れた手順で体を流す。

翔平、彼は今まで交わってきた相手の中で、特に変わっている。

顔も整っていて、背が高く筋肉もある。とてもモテそうだというのに、本人は経験ゼロ。

よっぽど恋愛に興味がないか、どこか致命的な欠陥があるか。もしくは真面目が過ぎてついて行けないとか。

下世話なことを妄想してしまう。いけないけない、と思考を止める。

シャワーを止めて、体にまとわりつく水分をタオルで拭きとる。

備え付けてあったバスローブに身を包み、部屋に戻ると、ベットに座ってじっと待っている翔ちゃんがいた。

「お待たせ。次どうぞ」

「ああ」

彼は立ち上がり、シャワールームへ入っていった。それからすぐにシャワーの音が聞こえてきた。

僕はベットの端に座り、足をパタパタと動かしながら待った。

ほどなくして、眼鏡を外してバスローブを着た翔ちゃんが出てきた。

「待たせた」

「ううん、思ったより早かったよ」

「そうか…で、どうればいい?」

「こっち来て」

とんとん、と指先で僕の横を叩いた。そこに翔ちゃんは座る。

「こっち向いて?」

言われるがまま顔を向けてくれる。素直でかわいいなあ。

いつも責められる側だけど、こうして先導してあげる立場も悪くない。

彼の唇にそっとキスをした。

びく、と彼が震えたのを感じた。

本当に初めてなんだろう。

「それ脱いで」

僕がそういうと、彼はバスローブを脱いだ。僕も同じように脱ぐ。

二人とも裸になる。

翔ちゃんは軍人というだけあって、鍛え上げられた筋肉を携えていた。

良い体だった。今からこの体と連れ会えると思うと、高ぶってくる。

「横になって」

翔ちゃんはベットに仰向けに横たわる。僕はその上に跨る。

「…なあ」

「ん?」

「その、無理をしていないか?」

「なあに?ここに来て恥ずかしくなっちゃった?」

ふふ、と笑ってみせる。

「いつも…顔色が悪いように見えるんだが、違うか?」

「え…」

いつも隠していて、観客の誰にもばれていなかったのに、なぜ彼はそれに気づいた?

慌てて誤魔化そうと試みる。

「そ、そうかな?」

「俺にはそう見える。兵士は特に無理をしがちだから、お互いに様子を見合っている。君は、無理を隠し通そうとしていたあいつと似た顔色をしている」

「へえ?でもそれ、軍人さんたちの話でしょ?僕は違うんじゃない?」

「いや、誰でも同じだと思う。今の君は、元気であるふりをしているように見える」

彼の太い指が、僕の背中をさすった。

「調子が悪いなら、無理をするな」

「…はあ」

僕は深いため息をはいてから、彼の上を降りて隣に寝転がった。

「あーあ、うまく誤魔化せてたと思ったんだけどなー」

「やっぱり…」

翔ちゃんは上体を起こし、僕の顔を見下ろした。

「本当はね、ちゃんと寝れてないし、ご飯も食べれてないの」

「それはよくない。精神的なものか?」

「そう。半年くらい前にさ、好きだった人に捨てられちゃって…」

そう口に出すと、胸が締め付けられる。

捨てられた。変わらない事実だけど、認めたくなかったこと。

「それからずっと。体形は高カロリー食品食べて維持してるけど、それでもちょっと痩せたし…まあフルーツとかしか食べてないからなんだけどさー」

「それほどつらいなら、カウンセリングでも紹介しようか?軍専属だが、頼めば診察して…」

「いいよ。どうだって」

横を向いた。翔ちゃんに背を向ける。

「なぜだ?そこまで苦しんでいるのなら、何か手を打った方がいい。今じゃそれに対応した薬だってあるんだ。カウンセリングが嫌なら普通の…」

「いいってば。今日会ったばかりの人に、そこまでしてもらえないよ…」

「だったら、俺以外の君と長い付き合いのやつは、君に提案したのか?半年も何も言わなかったのか?」

「それは…」

和也君が一度そういうことを言っていた気がするが、一蹴していた筈だ。

「言われてないよ…」

「本当か?」

彼は僕の上に覆いかぶさるように腕で体を支えて僕を見ていた。

「どうだっていいでしょ…今はほら、そんな話よりエッチしようよ、ねえ」

「だめだ。解決するまで、できない」

「余計なお世話!翔ちゃんに僕の何がわかるっていうの!?」

「わからない。だから聞いているんだ」

彼の真剣な眼差しが、僕を貫いているようだった。

心拍数が上がっていく。これは性的興奮からではなく、恐怖か緊張によるものだ。

「聞いたって意味ないよ!いいから早く抱いてよ!ねえほら、ここまで来たんだから…!」

「無理だ。俺は君にこれ以上無理をしてほしくない」

「違う!違うの!逆なの、やらなきゃその方が苦しいの!ねえ早く僕のことをめちゃくちゃにしてよ!!」

僕は叫んだ。声が震えていた。

翔ちゃんは無常に、首を横に振った。

絶望感が、僕を満たした。

「もう、いい」

僕は自分の顔を手で覆った。

「ねえどうして…どうしてそんなに、僕に優しくするの?」

初めて会ったばかり僕に、性以外のことを求めてきた人は、一人もいなかった。

なのにどうして、彼は僕を、そういう目で見ない?

「…君のことが好きだからだ」

「えっ」

「俺も今、自分の気持ちがやっとわかった。すっと君の公演を見ている間だけ、妙な気持ちになっていた。それが何なのか知りたくて、俺は店に通い続けていた。今ふと、この気持ちにふさわしい言葉が思い浮かんだ。…好きだ、君が」

翔ちゃんは上体を起こして、ベットに座る。

信じられなかった。

ずっとお互い見てきたとはいえ、会話したのは今日が初めてなのに、なぜそこまで言い切れる?

それじゃあまるで、あの時あった純壱と同じじゃないか。

「嘘ばっかり。今思いついた方便でしょ?心配してくれるのは良いけど、そこまでして優しくしなくていいから」

「違う嘘じゃ…!」

「意味ないの。嘘でも本当でも」

「なぜ…!?」

僕は体を動かして、仰向けに寝転がる。

「死にたいの、僕」

「何を馬鹿なこと…!」

「ずっと前からそう思ってたの。もう全部どうでもよくなっちゃった」

僕は目を閉じた。

「ちゃんと寝てご飯食べて元気になっても、これから僕は何をして生きていけばいいんだろうって。何のために生きているのかわかんなくなって、ただずっと枷みたいに胸の苦しみが続いているだけ…」

胸が苦しい。体も熱くなってきた。

気持ちのいい熱さではなかった。身を焦がすような、不快な熱さ。

「誰と、何度も交わっても変わらなかった。朝になって起きたらいつもさみしさで押しつぶされそうだった。僕をエッチな目でしか見る人はいない。心の底から愛し愛された相手を思うたびに、胸が苦しくなる。忘れようって何度も思った。けどこんな時に限って思い出が消えてくれないの!忘れたい思い出ほど何度も思い起こされて、今の僕を縛り付けてくる!そのたびにまた誰かとヤって一時的に忘れて、またすぐに思い出すを繰り返してきた!」

「だからだったのか…あの噂は…」

「そう!ずっとそうやって誤魔化してきたけど、苦しくて苦しくて、でもそれから逃れて、日常に戻っても僕は何をしたらいいの?僕は…僕は…どうやって生きていけばいいの…」

「静香…」

目の端に涙がたまってゆくのを感じた。

純壱がいなくなったあの日に流しつくしていたと思っていたのに、まだ流せる涙が残っていたことは驚きだ。

「すまない、泣かせるつもりは…」

翔ちゃんの指が頬に触れるのを感じた。

「いい、謝らなくていい。もういいの…」

すう、と大きく息を吸ってから、小さく呟いた。

「死んじゃえば、楽になれるかな」

口に出したのは、初めてだった。

けれど、ずっと思っていたことだった。

静寂が訪れた。彼はしばらく話さなかった。

「…わかった」

僕が目を開けると、俯いた翔ちゃんがいた。

「会ったばかりの俺が、出しゃばって悪かった」

「いい。大丈夫…」

「出過ぎた真似をした。余計な世話だった」

「いいよもう」

すると彼は顔を上げて、

「だが、どうせ死ぬなら、最後に、俺の好きにしてもいいか?」

あの真剣な眼差しで、僕を見つめた。

僕は首を縦に振った。

「いいよ。好きにして…優しい翔ちゃんになら、何されてもいいよ」

僕は両腕を広げて、彼を迎える用意をした。

せめて、僕を思ってくれた彼だけでも楽しませて終わろう。

彼が望むままに、何でもしてあげよう。

「ならまず服を着ろ」

「えっ」

翔ちゃんはベットから降りて立ち上がり、着替えを置いてあるシャワールームへ向かった。

あっけにとられて、僕は固まってしまった。

好きにしていいと言ったが、何をするつもりなんだろうか?

そうこうしているうちに、眼鏡をかけ、服を着た翔ちゃんが戻ってきた。

何もしていない僕を見ると、彼は不思議そうな顔をした。

「何してる?服を着ろと言ったろ?」

「だ、だけど…」

「好きにしていいんだろ?なら言うことを聞け」

「う、うん…」

僕はシャワー室に行き、置いておいた服をいそいそと着た。

部屋に戻ると、翔ちゃんは僕に気づくと、すぐさま僕の腕をつかんだ。

「行くぞ」

「え、どこに…」

彼は何も答えずに、僕の腕を引いた。されるがまま僕はついて行く。

部屋を飛び出し、受付に部屋の鍵を叩きつけた。

「悪いが宿泊をキャンセルしたい」

受付の人は、翔ちゃんの勢いに気圧されながらも、宿泊費をしっかり催促し、翔ちゃんもカードでためらいなく払った。

そのままホテルを出て、ストリップクラブの近くまで歩いた。

すると駐車場が見えてきて、そこに止めてあった一台の黒い車のカギを開けた。

「俺の車だ」

「え、ホテル行くとき何も言わなかったけど…」

「すまん、忘れていた」

彼に天然キャラが追加された瞬間だった。

「まあ乗れ」

頷いて、助手席の扉を開けて乗り込む。

エンジンがかかり、ほどなくして車は走りだす。

これからどこへ行くのか、どうなるのか全く分からなくて、少し不安だった。

車は走っていく。その間、会話は無かった。ただ外の景色を見ながら過ごした。

一時間以上経っただろうか。ひたすら彼は車を走らせ続けた。

すると、窓の外に空間が広がった。海だ。

そこから少し進んだところで、車を停めた。

車を降りて、翔ちゃんは砂浜の方へ歩いていく。僕も、その背を追った。

「軍に入りたての頃、辛いことがあったらここへ来た」

冷たい風が強く吹いていた。寒さで腕組をしていると、翔ちゃんが肩に腕を回して体を寄せてくれた。

「ただ海を眺めて、頭を空っぽにした。ここにいる間だけは、すべてを忘れる」

僕たちは波打つ水面を眺めた。

「いいところだろ?水泳禁止区域だから、見るだけなら人も来なくていいんだ」

「へえ…」

水平線の向こうの、真っ黒だったはずの空が、わずかに明るくなってきた。

「死ぬなら、途中まで一緒に行く」

「え…」

翔ちゃんの顔を見た。彼の目はいつも僕を見ていた、あの真剣な眼差しだった。

「自殺補助とか、罪に問われるんじゃ…」

「いい。ここまで連れてきたからには、責任を取る」

彼に背中を押される。僕たちはゆっくりと砂浜を歩いた。波打ち際へ向けて、少しずつ。

湿っている砂の部分の手前で靴と上着を脱いだ。そっと畳んで置いた。

潮風が肌をかすめていく。

このままいけば、僕は楽になれる。

待ち望んでいた死が訪れる。

僕は生唾を飲み込んだ。ごくりと喉が鳴る。

翔ちゃんと手を繋いだ。

ゆっくりと一歩を踏み出した。

指先が海水に触れる。凄く冷たかった。

体が震えた。寒さからなのか、死へ向かう緊張か。

ゆっくりゆっくり、水の中へ入っていく。

膝まで浸かった。たまに大きい波のせいで太ももまで濡れた。

体温が奪われていく。

遠くに見える水平線から、朝日が昇り始めた。

その光に向かってまた一歩、また一歩と進んでいく。

震えが加速している。これは寒さゆえだと言い聞かせた。

翔ちゃんは何も言わない。ただ僕について、海へと入っていく。

不意に、走馬灯のように過去のことを思い出した。

小さいころ住んでいた家。通っていた学校。クラブ。初めて食べたキューバサンド。今の家。

和也君、クラブの人たち、ナターシアさん。純壱。いろんな人たちの顔。

愛してるという純壱の声。

初めてあった日に差し出された手。

大好きだったあの温かさ。

好きだと言って、笑ってくれた顔。

僕は、歩く足を止めた。

すでに腰まで海水に浸かっていた。

このまま進んで、足がつかなくなって、泳ぐ気力もなくなったら、沈んでいく。

そうなったら息もできない。胸を締め付けられる時よりずっと苦しい痛みが待っているのだろう。

でもその先は無だ。それさえ過ぎてしまえば終わりだ。

楽になれる。苦しみも楽しみもない、すべてが終わる。

なのにどうしてか、足が動かない。

「静香」

はっと目を見開いた。

「君が死んだら悲しむ人がいる。少なくとも、ここに」

震える体を無理やり動かして、首を横に向けて、翔ちゃんの方を見た。

「それでも死にたいのなら。背中を押してやる」

僕は俯いて水面を見つめた。

純壱は僕が死んでもきっと気づかない。

彼の知らないところで僕は終わる。

それでいい。捨てられた僕が何をしようと、何を思おうと、届きやしないんだから。

震えが止まらない。

なぜかまた、目頭が熱くなってきた。視界がぼやける。

唇は渇いてカラカラだった。

もう一度足を踏み出そうとして、できなかった。

「嫌だ…」

僕は翔ちゃんにしがみついた。

「死ぬのは嫌だ…」

怖い。

失われていく体温。遠ざかっていく陸地。

確実に迫ってくる死の気配が、恐ろしくてたまらない。

「むり…むりだ…」

僕は泣いた。恐ろしいものを前にして、ただ恐怖していた。

「…戻ろう」

翔ちゃんは僕を引っ張り、陸地へ踵を返した。

しがみついたまま黙々と歩いて、砂浜へ戻った。


濡れた服を乾かすために、下着まで脱いでそれらを運転席や助手席の背もたれにかけて干した。

車のエンジンをかけ、暖房を入れた。

僕たちは上着だけは濡れていなかったから、それ一枚だけを羽織って後部座席に座っていた。

僕が泣き止むまで、二人とも黙ったままだった。しくしくとなく僕の背中を、翔ちゃんはずっとさすってくれた。

「気持ちは変わったか?」

頭上から声がする。僕はぎゅっと翔ちゃんの着ている上着を握りしめた。

「うん…」

「そうか」

安心したような声で彼は言った。

「本当に死にたい奴は、死にたいって言わない。何も言わずに、突然命を絶つんだ。俺はそういうやつを見たことがあるからわかる。…君にはまだ、希望があると思った。あの場で止めても聞き入れてもらえれないと思ったから、こんな風に強引なやり方で君の考え方を変えさせてもらった。…許してくれるか、静香?」

「許すも何も、怒ってないし」

僕は翔ちゃんの胸元に顔をうずめた。

「ありがとう。おかげで死なずに済んだし…」

「うむ…」

「あともう一個お礼言いたいことあるの」

「何だ?」

「好きだって言ってくれたの、凄く嬉しかった」

「あ、ああ、あれは…急にすまなかった」

「ふふ、何で謝るの?ドキドキしちゃったんだからね?」

「いや、まあその…言っておくが嘘じゃないからな?」

「知ってる。ここまでしてくれたのに、疑うわけないじゃん」

「それは、そうか…」

「ほんとにおかしな人…」

恥ずかしそうに顔を赤くしている翔ちゃんが面白くてつい笑ってしまう。

「静香」

「なあに?」

「君が良ければ、俺を、君のものにしてほしい」

翔ちゃんは初めて、僕の前で笑った。

ドクン、と心臓が跳ねて、鼓動が加速する。

胸が熱くなった。失われていた温かさが戻ってきた気がした。

「それって付き合ってほしいってこと?」

「いや、君は今まで通りでいい。誰とセックスしようと気にはしない。俺はただ、君のそばにいる権利が欲しい」

「そこは「はいそうです」って言っとかないと、かっこつかないよ」

「え、変なことを言ったか…?」

「言った」

「む…どれだ?」

「全部」

「なに?」

「嘘だよ」

「おい…」

「あはは…」

からかうと面白いなあ翔ちゃんは。

「いいよ。その代わり、一個言うこと聞いて?」

「わかった。何をすればいい?」

僕はいたずらっ子みたいに笑った。

「愛してるって言って?」

翔ちゃんは頬を赤らめて、数秒ためらった後に、意を決して言った。

「愛している、静香」

体中が熱くなっていくのを感じた。幸せな気持ちが、胸の中に満ちていく。

「僕を置いて、どこにも行かないでね…翔ちゃん」

「わかった。約束しよう」

僕は彼の唇にキスをした。長く濃密に、唇を重ね合わせた。

数秒後に顔を離した。二人とも顔を赤くしていた。

僕は翔ちゃんの太もも辺りを撫でた。

「ねえ、せっかく服が渇くまで時間あるから…しよ?」

耳元でそう囁いてあげると、彼は体を震わせた。

「わかった。好きにしろ」

「やったぁ。ふふ、カーセックスは初めてだなあ…」

上着を脱ぎ捨て、彼の足に跨った。

窓の外の空は晴れ渡り、雲一つない晴天が広がっていた。

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