第3話
結論、全然名前だけじゃ無かった。
その日の帰宅途中、LLINEで送られた概要をまとめると以下となる。
肝心の英語ディベートとは、三人一チームで行う英語討論戦のことらしかった。ルールは単純、与えられた議題に沿って肯定派と否定派に分かれた二チームが主張を述べ合い、理論の優劣を競うものだ。
部としての活動は毎週水曜、そして来週には新入生を交えた模擬戦が行われるらしい。
それに俺も参加しろ、とのお達しである。
議題はずばり〝Whether it is really essential for Japanese high school students to learn English.〟。俺は北川、井出両先輩と組む上で、肯定派チームの配属らしい。
要は高度な英語力の試される知的競技なのである!とメッセージは締め括られていた。
誰が行くか、そんなもん。
声には出さず毒づくと、俺はスマホを閉じてポケットに仕舞った。次いで帰宅途上のバスに揺られるまま、膝に抱えた鞄から一冊の本を取り出す。
ついさっき危うく没収されかけた一冊だ。流石に見せる訳にはいかないからな。
やさしい日本語なんて、とんだ嘘っぱちも良いところだ。
□ □ □ □
翌日。
席に座っているうちに授業は飛ぶように過ぎて行くものの、生憎六限が終わる頃には土砂降りの大雨になっていた。
いつもみたく一人で裏門から出ると、帰路に歩み出す。
雨音が傘を打ち鳴らす下、ふと傘に包まれた身体が、雨の煙る路地先に吸い込まれる様な感覚を覚えた――と、その時。
ポン。
肩に載せられた手を振り返ると、つい昨日見知ったばかりの顔があった。
「……井出、先輩?」
名前を思い出すのに、ほんの一瞬だけ掛かった。日本人の名前を覚えるのは今も苦手なのだ。
要件はディベート部だろうか?
「今きみは、孤独ですか?」
しかし先輩は唐突に、滑らかな口調で不思議なことを尋ねたのである。
「……先輩も今は一人ですよね?」
「まぁ僕もそんなところですね。どうでしょう、帰りがてら一緒に寄り道でもしませんか?」
俺が訝しげな視線を返すと、先輩は手にした傘の縁で目元を隠しながら、小さく肩を竦めた。
「いえ。僕はただ孤独な者同士、二人きりで話し合うのも悪くないかと思って」
小雨の降り頻る路地を先輩に付いて行くと、辿り着いたのは一軒の小さなカフェだった。
軽やかなカウベルの音と共にドアが開くと、ジャズの流れる落ち着いた空間に足を踏み入れる。彼はおよそ高校生に似合わないこの店の常連らしく、慣れた物腰で窓際テーブル席へ俺を誘った。
雨粒が窓を打ち鳴らす傍、先輩の勧めるままに俺はアップルティーを、先輩はコーヒーを頼む。白い木製の椅子からは、コーヒー豆の焦げた香りが立ち昇っていた。一方、窓の外の水滴は掴みどころも無いまま、無力にガラスを滑り落ちてゆく。
「――まずは、付き合ってくれてありがとう」
「いえ俺は……いつも暇ですから、一人でいることが多くて」
ゆったりと椅子に腰掛ける先輩を、俺はじっと見返す。正直、居心地は悪くて仕方ない。人と話すのは苦手だし、何よりこの相手は――
「信用できない、まぁそうだよね?」
スッと目を細めつつ、先輩はテーブルの上で指を組んだ。顔は良いのに妙な間の取り方をする辺り、怪しげな宗教の勧誘みたいと頭の片隅で思う。
「実は僕だって、特に信用してほしい訳じゃない。だから実はお相子だけどね」
「何が言いたいんです?」
「きみ、海外の生まれだろう?」
「っ!」
反応から図星と見抜いたのか、先輩は芝居掛かった態度を解くと組んだ指を解いた。くつろいだ様子でテーブルに片肘を突くと、悩ましげに顎に手を添える。そのまま雑誌の表紙を飾れそうな風情があったが、此方はそれどころではなかった。
「え、どうして……」
「
"チェックメイト"と似たような語気で切り返すと、先輩は呆れたように前髪を揺らす。
「こんなスラング、中学英語で習うはず無いからね」
柔らかな声音で、ダメ押しのように告げる先輩。口の端に微笑こそ浮かんでいるものの、チェスプレイヤーみたく一切の感情も伺えない瞳に見つめられ、俺は思わず視線を逸らした。
嫌だ、やめてくれ、もうあんな目は……
思い出すのは、思い出したくもない記憶。
親の仕事の都合上、俺は幼少期をアメリカで育った。血筋の上では純日本人なものの、両親ともに英語の方が得意な家庭だった。当然のように英語を話し聞きして育ったゆえか、八歳になる直前に日本に戻った時は、まだ十分に日本語を操れなかった。
転校初日の日。
"なまえ、フキハラ、レンです……よろしくっ"
予め暗記した、たどたどしい日本語で挨拶をすると、クラスの皆が席に群がってきた。全員が黄色い肌に黒の髪、加えて黒い瞳の同級生たち。親以外では見慣れなかったアジア顔の溢れる教室。あたかも自分の分身が躍るミラールームに迷い込んだようで、奇妙な違和感が拭いきれなかった。
"はろー?"
"ねぇねぇ、いつから海外に住んでるの?"
一斉に騒ぎ出すクラスメートたちを、担任が朗らかに諫める。
"こらこら、吹原くんはまだ日本語を勉強中なの。だから皆んなで居心地よくしてあげましょうね"
途端、皆が怪訝な顔に変わった。まるで木登りできない猿でも見るように。その時ふと、自分が見世物になったかのように感じた。
"日本人なのに、日本語分かんないのー?"
がやがやと皆が騒ぎ出すものの、俺は何を言われているのかさっぱり分からない。だからとにかく笑顔でいることに決めた。だって笑顔は万国共通だと信じていたから。
だから何を話し掛けられても、分からなければ笑って誤魔化していた。
日が経つにつれ、何か変だと気付き始めた。
よく幾つか特定の言葉を言われるのだ。相手は決まって、にやついた目で禁じられた言葉のように発音する。俺は意味が分からないから笑うしかない。すると相手はさらに可笑しそうにする。
皆が笑顔だから、俺も笑い返す。笑いの輪が広がっていく。よく分からないけど、楽しければ何だって良いじゃないか。
でもある日、とうとう気になって調べてしまった。彼らが何と言っているのか、発音を頼りに和英辞典を引いてしまった。
それはただの好奇心、その筈だった。
『バカ』
『マヌケ』
『ガイジ』
何かの間違いと思った。
だってそうだろう? 皆は笑顔で、心から楽しそうで、僕も笑顔で、きっとその筈で……
だって僕らはト・モ・ダ・チだもの、だよね? 誰かそう言ってよ。
次の日から、笑顔を浮かべようとしても顔が強ばるばかりだった。知らない単語の飛び交う教室に戻るのが怖くなった。
でも何より嫌だったのは、日本語で何一つ言い返せなかったこと。
"……Damm it, shit! hang it……! "
聞き覚えのある陰口を耳が捉える度に、小声の英語で毒づくしか出来なかった。自分でも女々しいと分かっていた。この前まで馬鹿みたく一緒に笑っていた自分が悔しかった。そして英語の毒づきに逃げている自分が、ますます嫌いになっていった。惨めな負け犬の体たらく、そんな自己嫌悪だけがますます募っていく。
いつしか俺の中で、英語しか喋れないことと劣等感が結びついた。
その時からだ。
母語だった英語に深いトラウマを抱くようになったのは。英語という己のアイデンティティーに自分で蓋をしてしまったのは。
「……先輩に、何が分かるんですか?」
気が付くと、そう言っていた。他に上手い言葉も探せなかったし、声の震えは抑えられなかった。
「確かに俺は自分が嫌いです。いえ、自分のこと以上に……」
言いかけた言葉を、いつもの癖で飲み込む。
俺にとって、英語は幼い自分が纏っていた脆い殻。陰口に晒されていた頃の弱さの象徴。
そんな自分が嫌いだったから、とにかく英語から逃げ出したかったから、俺は日本語にのめり込んだ。あいつらに堂々と日本語で言い返したかった、もうぎこちない笑顔で誤魔化すなんて嫌だった。
でも俺が日本語を上達させるにつれ、周囲の陰口も下火になっていった。彼らにしてみれば、俺に日本語が分からないスリルと優越感が全てだったのだろう。
終わってしまえば何てことは無い。拳で殴られた訳でも、仲間外れにされた訳でもなかった。彼らにとっては多分ほんの出来心で、俺に気付かれたとさえ思ってなくて、後には英語と自分自身を忌み嫌う俺だけが残された。
その虚無感を否定するためだけに、ずっと日本語を勉強してきたのに……それなのにどうして? どうしてここまで英語の影が追いかけてくるのだろう?
「まぁ、そんな所だろうと思ったよ」
井出先輩は、いつの間にか手にしたコーヒーをすすりながら、ぽつりと呟いた。
「本当、誰かさんにそっくりだ」
「?」
怪訝に思って顔を上げた先。先輩はその豊かな前髪をぐしゃりと掻き上げると、こう質問した。
「君にはこれが地毛に見えるかい?」
「え、前髪ですか? 普通に黒髪ですよね」
「それはどうかな」
もっと近くで見てごらん、と言う先輩に促され、遠慮がちにテーブルに身を乗り出した。先輩の髪は一見、普通の黒髪に見える。だが間近からよく見てみると、掻き上げられた髪の付け根には、下からうっすら色素の薄い髪が覗いていた。
さらに視線を下ろした先。知性を湛えたその瞳は、普通の日本人と比べて少し青み掛かっているように見えた。
「……え、じゃ先輩って」
「ま、そういう反応になるよね。それが理由だよ」
道理で先日、初めて会った折に目鼻立ちがはっきりしていると思った訳だ。
「もしかして、下の名前ってのも……」
「教えないよ? 僕はハーフでも『日本人』なんだから。染めない金髪はただの金髪じゃないし、もし黒髪がこの国の処世術なら、僕は偽った自分も好きでいたいからね」
静かにそう告げると、先輩は儚げに微笑む。
「一つ言っておくと、僕は自分の過去を語るつもりは無いし、君にも語らせる気はさらさら無い。けど世の中には、似たような人もいると知ってほしくてね。君自身は、そう思わないかもしれないけど」
「は、はぁ……」
急すぎる展開に唖然とする俺を尻目に、話は終わったとばかり先輩はコーヒーを飲み干すと、さっさと立ち上がってしまった。
「え、ちょっと待ってく……」
冷めたアップルティーを一気に飲み干そうとして、俺は少々噎せつつも鞄を引っ掛ける。
「先輩、ここのお勘定って」
「心配しなくて良いよ?」
先輩は俺に振り向くと、薄く微笑んだ。全てを無言で包み込むようで、かつ微妙な距離感をも感じさせるような笑みだった。
「君のは僕が奢ってあげるよ、税抜き価格の分はね」
会った時と同様、またもや不思議なことを言うと、先輩はさっさと会計を済ませて店を出てしまった。
遅れて会計台に立つ俺の目に入ったのは、コイントレイにきちんと積まれた六百四十円分の硬貨だった。
カフェを出てみると、まだ空は曇っていた。
だがいつの間にか雨は止んでいた。カフェの軒先から滴る雨粒が、くすんだ糸を引いて水たまりを作っている。そこには黄色にも白にも染まらない俺の顔が歪んでいた。
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