第46話 苦い思い出

涼は笑顔で海を眺めている。

「海風が気持ちいいなぁ……」

「そ、そうね。……私は先に戻るから」

キルシェは慌てたように、女性寮へと走っていく。

「そんな走らなくても」

涼は苦笑いでキルシェの後ろ姿を見送った。


波打ち際ぎりぎりを、裸足になって歩く。

穏やかな小波が次々と海水を運んでくる。

「つめてっ」

涼は笑いながら言う。

「あとで水着に着替えて浮き輪でも持ってきて、海水浴でもしてみようかな……、と、いかんいかん。一人だとちょっと怖いしな」

涼は海を眺めて思わず苦笑いする。


話は十年程前にさかのぼる。

涼がまだ子どもだった頃、浮き輪に背を預けて遊んでいた時のこと……。

ぷかぷか浮かぶ浮き輪の上でのんびりとしているのが楽しかった。

しかし、突然……。

波がかかったと思うと、急に浮き輪は動き出した。

『なんだなんだ? 楽しいけどなんで?』

『涼―! 浮き輪から絶対手を離すなよ!』

父親の大声に、涼はきょとんとする。

『はーい』

涼は笑顔で返事をする。

間もなく、屈強な男性が涼の浮き輪を掴む。

『ぼうや、良い子だな。すぐ助けるからな』

助ける?

涼は頭の中で疑問を持ちながら、おとなしく浮き輪を掴んでいた。


『本当にありがとうございました』

『なんとお礼をしたらいいか……』

両親が男性に頭を下げている様子を見て、涼も頭を下げる。

『お兄さん、えっと、その、ありがとう?』

まだ涼は状況が呑み込めていない。

『いえいえ、ちょうど通りかかっただけですから』

『ねえ、また遊びたい! 楽しかったよ』

両親は唖然と涼を見ている。

『あのねぇ……、沖に流されかけたんだぞ……』

父親は呆れながら言う。

『沖ってなあに?』

涼は変わらぬ笑顔で言う。

『沖っていうのは、波打ち際から奥の奥の方で、あの濃い青色の方のことだよ』

男性が涼にもわかりやすく、簡単に言う。

『海のあっちの方はね、とっても深くて危ないんだ。たまたま、キミの浮き輪は潮の流れで流されちゃって』

『じゃあ、そこで遊んじゃダメってことなの?』

『そうだねぇ、沖まで流されちゃうと危ないからね』

『もっと海で遊びたかったな……』

『じゃあ、お父さん、お母さんと遊べる程度の波打ち際近くで遊ぼうな』

男性は笑顔で言って頭を下げて、サーフボードと一緒に海に向かった。

『涼、一人で海に行くときは波打ち際以上行かないって約束しような。怖いことになるって、お前もわかっただろう?』

『うん……』

『良い子だ』

涼の父親は涼の頭を撫でた。

そのあと、家族三人で、波打ち際近くでたくさん遊んだ。

はしゃぎ疲れて、涼はどうやって帰ったかは覚えていない。

ただ、温かい感触が近くにあったことだけはしっかりと覚えている。



小さい頃は無邪気に楽しいと言っていたが、ニュースなどを見るようになり、海難事故のニュースを見ると、親は決まって涼の幼少期の話をするようになった。

『あんたも、一歩間違えたらこんなニュースになっていたのよ』

母は複雑な気持ちで言う。

涼はたまたま運よく良い人が助けてくれたから……。

ただ、海難事故で悲惨なことになった人だって多い。

『そうだね。でも、あのお兄さん今どうしているんだろうね』

『さあね。連絡先交換もしてないし。元気でいると良いね』

父はそう言ってビールを飲んだ。

『俺もこうならないよう、気を付けようっと』

涼はそう再度誓った。


といった出来事があったのである。

成長しても、海でのことはちゃんと約束を守るようにしている。

浜辺で海を見るだけ。

波打ち際ぎりぎりを少し歩くだけ。

海だけは一人で泳ぎに行かない。


「あのお兄さん、元気にしていると良いな。それに、俺も海難事故のニュースにならないようにしないと」

涼は海水を手ですくって何となく沖の方へ放した。

ぱちゃぱちゃ、と気持ちいい音が鳴った。

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