第4話 テロ
「どう? 英美里ちゃん楽しんでる?」
若い男性社員に訊ねられる。あんたさっき別の女の子に話しかけてなかった? 新しい病院に営業先がどうだって。私は曖昧に微笑んだ。この頃、パーティはだいぶ盛り上がってきていて、ドイツから帰ってきた社員一団やらタイから帰国した女性管理職やらがちらほら会場に入ってきていた。世界中に支社があるってのはマジらしい。会場に新しく人が入ってくるたびにびっくり箱を開けたみたいに盛り上がる。
私はといえば、パパから少しずつ離れるようにしていた。あのミヨシとかいう女との雰囲気を壊しちゃ悪い。私みたいな子供は邪魔だろう。パパにだって幸せになる権利はある。私はもう大人なんだ。一人で歩ける。一人で歩いて、パパを幸せにしてあげよう。
そう思ってパーティ会場の端っこ、窓ガラスに息がかかりそうなところで一息ついてたらさっきのナンパ男だ。若い女に武勇伝を語ってたあいつ。何。女なら誰でもいいわけ? あーくそ、トイレにでも逃げ込むか。えーっと、こういう時に使う品のいい日本語は……思い出した。
「ちょっとお手洗いに」
手を洗うのが排泄行為の比喩って不思議だよね。
まぁ、実際にトイレに行くかはさておき、私はあの壺の入り口、すなわちこのフロアのエレベーターの前に来た。トイレもこっちの方にあるから嘘じゃない。
エレベーターの脇には非常口があった。私はそっと中に入った。
非常口……非常階段は私の思い出だった。学校で一人になりたい時。私はトイレの個室じゃなく非常階段の方に行った。非常階段はどんな人も拒まない。誰もが逃げる場所だから誰が来ても構わない。そんな懐の深さが好きだった。もしかしたら死んだお母さんの面影を……なんて言ったら、馬鹿みたいか。でもこの世界の隅の隅みたいな空間に、私が求める温かさがあったのは確かだ。パパの会社のパーティで、孤独になった私が行く先もここ、非常階段ってわけ。
この床の素材、なんて言うんだろう。ゴムを溶かして固めましたみたいな、絶対滑らせませんみたいな不思議な床。
まぁ、でもそんなところでも非常階段には変わりない。
私は段差のひとつに腰掛け一息つく。スマホは……と探した手が空を切る。そうだ。カバン預けたんだっけ。スマホもあの中……うーん、セシリナの思い出なんかクソみたいだけど、今はそれ以外の友達との思い出を見たいかな。カバンだけでも取り返しに行くか。
そう思って立ち上がった。銃声と悲鳴が聞こえてきたのはその時だった。
*
それが銃声であることは一目……って言い方は変なのか。とにかく聞けば分かった。さっきのクラッカーの発砲音とは全然違う。一応
続く悲鳴はパニックになった女性の声だった。多分。どれも鉄の扉の向こうのことだからイマイチ確信が持てない。私はドアにくっつくと耳を澄ませた。また、銃声が聞こえた。飛び跳ねた心臓が喉の奥にぶつかった。
「……な、……ろ!」
途切れ途切れに聞こえる。
「テーブ……れろ! ぜん……め!」
男の声。私が言うのもアレだけど日本語の発音が変。間延びした感じ。アジア人っぽい感じなんだが日本とは違う、なんかこう……。
ってかここ日本だよね? 銃? 強盗やるにしたってサムライソードじゃないの? 日本で銃手に入れるのって大変だと思ってたんだけど。それ以前に持ち込むこと自体無理ゲーだって……。
と、ここにきてようやく私は自分のことを考えた。どうしよう、どうしよう。これって……やばいよね?
とりあえず、深呼吸をする。思い出す。パパとFBIのためにハッキングをしたあの時も、こうやって深呼吸をしてから考えた。プランを。フローを。セシリナと一緒に会社を立ち上げて、ネットワークセキュリティの仕事をした時もそうだ。深呼吸をして、考える。私がすべきことを一旦整理しよう。
まず、ここから動くべきか――YES。ここにいるだけじゃ何もできない。とりあえず自分の居場所を見つけないと。
ここで知り得る情報はあるか――NO。銃声と悲鳴だけで十分だよね。このドアの向こうは地獄。少なくとも生存確率はアフガニスタンより低い。
一目散に逃げるべき――私が下した結論はそれだ。だが私の足は動かなかった……だって、このドアの向こうにはパパがいる!
ママを失った時だって最悪だったんだ。この上パパまで失ったら……なんてことを考えたら泣けてきた。クソッ、何で私ばっかこんな目に……神様、こういうプレゼントはもう間に合ってるって!
考える。必死に考える。ドアの向こうには銃。それから叫ぶ男。あれがパパ向けのサプライズだとは思えない。だから緊急事態。どうにかすべきだけど今の私は丸腰でしかもローストビーフの食べすぎて胸焼けまでしてる。結論、逃げるしかない。パパを助けたいけど、助けるには体勢を立て直すしかない。だって何の用意もない! スマホだってないんだから!
ここで最初の思考に戻る。
まず、ここから動くべきか――YES。
私は逃げる。
*
非常階段なんだ。少なくともあの非常脱出用の即席滑り台みたいなやつが使えるところまでは繋がってる。
どこに逃げよう。階数の表示しかないからドアの向こうがどんなところか分からない。最悪の場合、ドアの向こうにいる銃を持った別の男とこんにちはなんてこともあり得る。
ただ、そう、常識的に考えて。
あのドアの向こうのガンマンたちが何を目的に来たのか分からないが、数ある階の中でいきなり二十階を押さえた。ということは確実に狙いに来てる。あそこが重要だと判断して押さえた。実際あそこには社長がいた。このビルの全権を握る男がいた。それを知ってる。それを狙ってる。
低い階に行こう。やつらと物理的に距離も取れるし、やつらが狙ういいものから離れれば遭遇リスクも減る。私はひたすら階段を下りた。足音に注意しながら。
やがて、十四階についたところで私は一度耳を澄ませた。エレベーターは確か一階から十五階までの間は止まらない。つまりここは何らか別のアクセス手段がないと入れない階。ドアの向こうの気配を探る。数をかぞえる。一、二、三……。
大丈夫そうだ。そう信じるしかない。
私はドアを開けてそっと様子を伺った。人の気配はない。次に顔を覗かせてドアの向こう、おそらく廊下を目視で確認した。薄暗い。人はいなさそう……。
そっと、出る。自販機とシンクがあった。何ここ? 壁に文字が書かれてる。えーっと、給なんとか室。なんだっけあの字。お湯?
とにかくそこは、廊下の奥にあるちょっとした休憩スペースみたいに見えた。自販機あるし。入り口の向こう、壁にはトイレのマークがあった。男子トイレだ。
耳を澄ませる。音はしない。誰もいない。
さっと廊下に出た。無機質な細い廊下。入り口らしき凹みが二ヶ所。あの先からガンマンが出てくる可能性は……何パーセントか調べようもない。
そっと、その凹みを目指す。それからそこにはドアがあることに気づく。中央にガラス板。中が見える。目を細めて見る。デスク……デスクデスクデスク。オフィスだ。そこらに乱立するビルみたいなのは……デスクトップコンピューター。私は思案する。
あの銃を持った男たちがどうやってこのビルに入ったか、想像してみよう。普通、こういうハイテクビルには機械警備が入ってる。しかも実際にほら、私の目の前のドアにだってタッチキーがある。カードか何かをかざしてパスするのだろう。多分このビルのセキュリティは二段階、まず一階の入り口のところにパッケージで売られてるようなセキュリティシステム。次にエレベーターから先にあるオフィスに入る時にカードでパス。このカードキーのシステムは多分ビジネスモデルか、もしかしたら自社製。自社製って言ってもどこかに外注かけて作ったものだろうが。
私は周りを見渡して、消火器を探す。私が少しの思案のうちに行き着いた答えは一つ。機械警備が入ってるビルにどう考えても危険な人物が入ってきてる。しかも二段階の警備を超えて。それはつまり……。
消火器を見つける。私はそれを手に取ると、さっきのドアの前に行き、ガラス面に叩きつけた。ガラスの割れる音。でも、それだけ。
そう、二段階の警備が越えられたということは、このビルはもう今の私と同じで丸腰。何かが壊されても誰も検知しない。だから私が目の前のドアを壊しても何も言われない。
息を止めて、また吸う。誰も来ない。警報も鳴らない。そう、私の考え通り……。
ガラス板の穴に手を突っ込んで、ドアの鍵のサムターンを探す。見つける。回す。開いた。よし。
とりあえず、中に入る。
進展一:隠れ場所を見つける
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