第十六話

「やっぱ生は美味いな!」

 亨は冷えたジョッキから、三分の一程を喉に流し込んで言った。

「だな。こんな小さな事にでも喜びを感じればいいんだよ」

「そういう事」

 早川の言葉に、亨は笑顔で返した。

 亨が住む葛西駅の近くにある、町の中華料理屋。

 平日の夕方、六時を過ぎた時間帯ということもあり、店内は外での作業を終え、作業着姿のまま、ビールやホッピー、チューハイなどを、餃子やレバニラ炒めを肴に、賑やかに飲んでいる一団がいて騒がしい。

「お前、今日は泊まっていけば?どうせ、明日は何もないんだろ」

「何もないって……まあ、ないんだけどな。でも、さすがに外泊はまずいよ」

「アホか!何が外泊だ。お前の奥さんが、今更亭主が浮気をするとか思ったりするわけねぇだろ」

 亨は肉野菜炒めを箸でつまみ、ジョッキのビールで嚥下しながら言った。

「そんなのは分かってるよ!金も甲斐性もないのを一番知っているのがあいつだからな」

 濃い目の焼酎で作られたウーロン杯を一口飲み、早川は顔を顰めながら言う。

「だったらいいじゃねえか。ついでに中島か坂本を呼ぶか?」

「坂本は船堀だっけ?中島は……」

「西葛西。あいつならここには歩いても来れるよ」

「最近会ってるのか?」

「ああ、先々週……金曜日だったか、夕方五時半頃に坂本からラインがきて、中島と森田と飲んでるから、お前も来ないかって言うんで、西葛西の居酒屋で飲んだ」

「みんな元気か?」

「相変わらずだよ。お前とも一度飲みたいって言ってたから、今から呼ぶか?」

 亨はスマホを手に取りながら言った。

「いや、今日は止めとく。どうせなら参集範囲を広げて飲み会をやろうや。みんなの近況報告も聞きたいし」

「そんなに家に帰りたいのか?」

 頑なな早川を見て、亨は不審げに訊いた。

「別に帰りたいってわけじゃねぇけど、俺だけが毎日好き勝手にやってるのも気が引けちゃうんだよな」

「はぁ?いつから愛妻家になったんだ。退職したら、しばらくは好き勝手にやってやるって、息巻いてたくせに」

 呆れたように、亨は言った。

「気持ちはそうだけど、まあ、独り者には分からねぇよな。同居する相手への配慮っていうか、忖度っていうのは不可欠なんだよ」

 早川は照れたように言い、肉野菜炒めに箸を伸ばした。

「悪かったな、同居人のいない身勝手な発言で」

「またそうやって卑下する。悪い癖だぞ」

「冗談だよ。じゃあ、あと何品か頼んで、締めにもやしそばでも食うか。ここのもやしそばは美味いぞ」

「いいね!じゃあ、つまみになる物を先に頼むか」

 早川はテーブルにあるラミネート加工されたメニューを手に取り、亨の同意を得て、数品の料理を外国人の店員に注文をした。

「結局、こういうことなんだよ」

「ん?何、急に」

「いや、だから、結局やることがないから、こういう風にお前とかがいると引き留めちゃうんだよな。この間も居酒屋を出てから、俺は次の店に行く気満々なわけだ」

「他の奴等はみんな奥さんや子供がいるからな」

「そう。坂本と中島は付き合ってくれたけど、森田の野郎は、明日は子供たちが休みで千葉のゴルフ場に行くから、早く帰って寝ると言って、さっさと帰っていきやがった」

 その時の光景を思い出したのか、亨は苦いものを飲むようにジョッキのビールを飲んだ。

「それは仕方ねぇよな。お前と付き合うよりは家族優先が常識だ」

「まあ、それはそうだ。ホントにお前が言うように、なんでもいいから没頭できるもの、没頭できなくても、興味の持てる物やことを見つけないとヤバいよな」

 亨は深い溜息をついてジョッキの残りを空け、通りかかった外国人の店員に、お代わりの生ビールを頼んだ。

「そうだって。だから俺は何回も言ってるだろ。なんでもいいからやってみろって」

「でもな、そのなんでもいいからってやつほど、厄介なものはないんだよ」

「確かにそれは言えてる。偉そうに言ってるけど、俺も何一つ思い浮かばねぇもんな」

 早川も亨に負けないほどの深い溜息をついた。

「やっぱ仕事ばかりして、若い時に何かをやっておかなかったのがいけないのかね?」

「でも、仕事をしながらだっていろいろな趣味を見つけてるやつだって、いくらでもいるからな。森田はゴルフ、中島はダイビング、坂本はキャンプ。独身だった松本なんて、早期退職してタイに移住しちゃったからな。みんな何かしらリタイア後のプランは持ってるんだよ」

「俺達だけか、ノープランのノータリンは」

「何だそれ?全然面白くねぇ」

「別に笑わせようとしたわけじゃねぇよ。でも負け惜しみで言うわけじゃねぇけど、何もなければそれでいいさ、って思う気持ちもあるけどな」

 亨は運ばれてきた生ビールのジョッキを掴み、一口飲んだ。

「負け惜しみというか、開き直りだな」

 早川は笑った。

「開き直れるくらい前向きならいいけどよ」

「なんだ?どうした」

 深く溜息をついた亨の顔に視線を向け、早川は心配顔になって訊いた。

「いや、なんていうか……気力、体力のない疲れ果てた爺さんなんて、世の中にとって存在価値は皆無だよな」

 演技ではなく、最大限の厭世観を表情に滲ませ、亨はビールのジョッキを重そうに持って、チビリと一口だけ飲んだ。

「おい、大丈夫か?もう帰って寝ろ!四六時中仕事に追われてたのが、急に無限大の自由時間を与えられて、ちょっと戸惑ってんだよ」

「戸惑ってる?確かにいろんな意味で戸惑いはあるな。ストレスだらけの生活から、ストレスフリーになったら、そのストレスフリーの状態が一番のストレスで、その解消方法が皆目見当がつかない」

「お前、完全な燃え尽き症候群だよ。毎日クソ下らねぇ人間関係の中で忙しくしていてたけど、急に平穏な日常になって、一種のエアポケットに落ち込んだみたいになってるのかもしれないな。そういう意味で鬱病とかを疑った方が……一度病院にでも行ったらどうだ」

 早川は亨の只ならぬ変化に驚き、猫なで声で言う。

「病院?確かに気持ちのアップダウン、アップはないか……ひょんなことで落ち込むことは多いかもな。燃え尽き症候群とか言ってるけど、そんなのお前だってそうだろ?さっきはお前だから少しオーバーに言ったけど、要するに予定がない、することが何も決まっていないことに、物凄い不安を感じているだけだって。そのうち何かしらしなきゃならないことも出てくるだろうし、時間の潰し方も覚えていくから大丈夫だ」

「そ、そうか。でも一応病院、いやそんなに大げさに考えなくてもいいんだけど、一度カウンセラーかなんかに相談したらいいよ。ほら、会社にも産業医がいて、年に一度、長ったらしいアンケートみたいな問診票に記入して提出したろ。あれで鬱病みたいな症状が疑われるのが何人かいて、その後治療のため休職したり、配置転換なんかもあっただろ」

「ああ、あったな。明るくて気配りできるスタッフに鬱の疑いがあって、専門のカウンセリングを受けたら、暫く加療が必要だっていってきて、その後休職したこともあったよ。明るい性格でみんなに好かれていたから、ちょっとびっくりした」

「そうだよ、根暗……今は死語だな、鬱は根暗な人がなるって思われがちだけど、結構明るい性格で、社交的な人だって発症するみたいだ」

「そう、そのスタッフもそうで、自分のキャパを超えるような気配りを続けていくうちに、段々と精神的にきつくなっていったみたいだ」

「お前も……」

「バーカ、俺は平気だ、っていうより、別に鬱になったって困らねぇよ。仕事をする予定はないし、シニア向けのカルチャーセンターなんかには死んでも入らないから、煩わしい人間関係とは無縁のままでいくからな」

「それこそ、馬鹿野郎だ!精神的に病んでる上に高齢者の独り暮らしなんだぞ。お前はいいかもしれないが、周りに迷惑をかけることになるのを分かってるのか!」

「ふざけるな!何で俺が精神的に病んでることになってんだ!」

 亨は持ち上げかけていたジョッキを、音を立ててテーブルに戻した。

「バカ!怒ってんじゃねぇよ。俺はお前を心配して言ってんだ。最近、ネガティブな事ばっかり言ってるから、ヤバいかもって思っちゃうのも当然だろ」

 早川はそう言って、ウーロン杯を飲み干した。

「すまん、俺が悪かった。お前が言うように、何か先のことを考えると、ネガテイブな考えしか思い浮かべねぇんだよ」

 亨は両膝に手を置いて、頭を下げた。

「な、なんだ、そんなに真剣に謝るなって」

 早川は頭を下げている亨に言い、タイミング良く近くに来た外国人の店員に、レモンサワーを注文した。

「でもな、さっき言ったことは本音で、体力はまあ置いといても、前向きに何かをしようという気力がないっていうのは、始末に負えないよ。物欲はもちろん、旅行や趣味がないっていうのは、経済活動にも参画していないってことだからな。自慢じゃないけど、俺の経済活動のメインは、百均とスーパーだ。全く、いい歳こいて何をしてるんだか」

「だから、そんなに頭でっかちに考えるなって。お前が言うように、そのうちやりたいことが見つかるかもしれないし。いいじゃねぇか、百均とスーパーでの買い物だって。今後、テレビや洗濯機などの家電だって買い換える時期がくるだろうし、そん時に高価な、というより納得できる物を買えばいいんだって」

 早川は運ばれてきたレモンサワーを一口飲み、酸っぱさに口をすぼめた。

「テレビねぇ。最近観たい番組ないからなぁ。BSの旅番組や、飲み屋を紹介するのを録画して観るくらいかな。ワイドショーは、馬鹿製造番組だから絶対に観ないようにしてるけど」

「なんだ?馬鹿製造番組って。まあ、確かに俺もテレビは観なくなったな。もっともリビングのテレビのチャンネル権はカミさんが持ってるから、俺には選択する余地はないけどさ」

 早川はそう言って、自嘲気味に笑った。

「今は車も持ってないし。若い頃は欲しい車があって、いつかはあの車を買って、横に彼女を乗せて、湘南や伊豆にドライブするのが夢だったよな」

「そうだったな。大学の時、バイトで貯めた金で教習所に通って免許を取って、いつかは自分の車を買って、好きな曲を集めたオリジナルのカセットテープをカーステで聴きながら、彼女とドライブするのが夢だったよ」

「カセットテープか、懐かしいな。そう、今考えるとちっぽけな夢だと思うけど、その時はそれが一番の夢だったよな。だから、若い時に時間と金があったら、と思っちゃうんだな。こんな爺さんが暇と金があったって、なぁんもいいことなんかないからよ」

 亨はジョッキのビールを、天井を仰ぐように流し込んだ。

「もう少しゆっくり飲め。最近酒量が増えてるだろ?」

「でもビールだけだから……ハイボールは少なめだし」

「何言い訳にもならねぇこと言ってんだよ。酒の量もそうだけど、もう少し塩分も控えた方がいいぞ」

 テーブルに届いたハムカツに醤油をドボドボかける亨を見て、早川は説教をするように言った。

「いけね!そうなんだよ。しょっぱい物を食って喉が渇き、その乾きを鎮めるためにビールを飲む。この負の連鎖を止めなきゃいけないと、頭では分かっているんだが」

「ガキみたいなこと言ってんじゃねぇよ。前にも言ったけど、お前の死体の確認って言うか検分はご免だからな」

「それは大丈夫。絶対にお前よりは長生きする自信がある!」

 亨は胸を張り、店員にハイボールを注文する。

「はいはい、そうですか。それは願ったりかなったりで、俺もその方が嬉しいよ」

 早川は皮肉たっぷりの口調で言い、醤油のかかっていない方のハムカツを齧った。

「なんだ、その言い方。でも以前も話したと思うけど、寿命が分かるようになったらどうするって言ったことあったろ?」

「ああ、そんな話をしたこともあるな」

「そん時、お前は知りたくない派だったよな」

「別に、知りたくない派とかじゃねぇけど……。お前は知りたい派だったよな」

「別に知りたい派ってわけじゃねぇけど、まあ、今のような状況だったら知りたいと思うってだけだ」

 亨はしょっぱくなっているハムカツだけではまずいと思い、付け合わせのキャベツと一緒に口に入れた。

「今みたいな状況って?」

「なぁんも先の予定がないのが、あと何年続くのかは知っておいてもいいかなって思う」

「お前って、意外と間抜けだよな」

 亨の言葉に早川は苦笑しながら言った。

「間抜けとはなんだ!」

「だってお前、例えば百歳まで生きるってなってみな。そうなったら今みたいな無気力の状態が、この後三十五年も続くんだぞ。そんなの耐えられるか?しかもその寿命予測っていうのは、健康な状態で百歳まで生きるのか、途中でボケたり寝たきりになった状態で生きるのかって、分かるのかよ」

 早川はレモンサワーで口を湿らせてからまくし立てた。

「何、真剣に言ってんだよ!こんなのただの例え話、空想、あるいは妄想の世界だぞ。そんなのに健康状態だのボケだの寝たきりだのって、真面目に言ってんじゃねぇよ」

「お前が言いだしたことに付き合ってあげてるのはこっちだぞ!てめぇの都合でコロコロと話を変えてんじゃねぇ!」

「分かった分かった。そんなに興奮するな。俺の言い方が悪かった」

 亨は再び頭を下げた。

「やっぱお前おかしいって」

「何が?」

「お前が素直に頭を下げるのは気持ち悪いって。しかも何回も」

「そうか?こっちが悪い時は素直に謝ってるつもりだけど」

「つもり?ふざけんな!お前はいつだって屁理屈を並べて、てめぇの不都合なことは煙に巻くのが常套手段じゃねぇか」

「そう?そんなつもりはないんだけど……。まあ、そんな話はどうでも良くて、寿命予測じゃなくて、若いやつ等の将来を買うっていうのはどうだ?」

 亨は狡猾な眼で早川を見た。

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