第四話
見たことのない紋様が、かえって奚宣の豹変ぶりを際立たせている。刺青以外はいつもの奚宣なのに、神獣に出くわしたのかというほどの威圧感が全身から放たれている――これはいつもの奚宣ではないと本能が告げている。
素白が我知らず体を震わせていると、ガタン、と目の前に荒泉が降ってきた。素白はハッと我に返ると、出せる限りの大声で「師尊!」と叫んだ。
猿ぐつわのせいで上手く喋れなかったが、果たして奚宣は素白の方を向いた。悪鬼羅刹もかくやというほどの怒りの表情が瞬時に和らぎ、いつも自分を心配してくれる奚宣が素白を呼びながら駆け寄ってくる。
「バカッお前、何してやがる!」
荒泉が起き上がりながら素白に悪態をつく。素白は構わず奚宣を呼び続けたが、急に体が宙に浮いた。
しまったとばかりに身を捩るが、がっちりと抱えられては身動きが取れない。荒泉に連れ去られようとしていると気付くまでそう時間はかからなかった。
「ったく、面倒な奴まで引き込みやがって。そんなに
荒泉が悪態をつくそばから、すぐ横の戸枠が弾け飛ぶ。荒泉は真っ暗な廊下を駆け抜けながら追いかけてくる奚宣を口汚く罵り、勢いを殺さずに角を曲がった。
「まずいっ、」
ふと、荒泉が呟いた。言い終わらないうちに荒泉が呻き声とともに吹き飛ばされ、素白は空に投げ出される。
受け身も取れないまま床に転がるかと目を閉じた素白はしかし、暖かく力強い手に受け止められた。
「大丈夫か、小白?」
奚宣はいつもの声音で呼びかけながら、素白の猿ぐつわと縄を手早く断ち切っていく。
ようやく自由になった素白は、奚宣をじっと見上げた――やはり、初めて見る刺青以外はいつもの「師尊」だ。だが、同時に底知れない畏怖をも感じさせる。知らない気配に戸惑っていると、奚宣がもう一度大丈夫かと問うてきた。
「師尊……僕……」
何か答えなくてはと思っても、素白は素直に話すことができなかった。いつもの奚宣のはずなのに、得体の知れない別の気配を感じてしまう。
「……仕方がないか。詳しくは後だ」
奚宣は独り言のように言うと、起き上がった荒泉に向き直った。荒泉は折れた牙の破片を吐き捨て、片目を赤紫に腫れあがらせて二人を睨みつけている。
「荒泉。貴様が何と言おうとこの子は自らの将来を考え、自らの意志で私の弟子となった。手を出せば相応の仕打ちを受けると心得よ」
「そうかい。偉そうにどうも!」
荒泉が唸り声を上げ、両手で印を結ぶ。対する奚宣は眉一つ動かさず、片手を背中に回してひっそりと剣指を作ったのみだ。
荒泉が毒を帯びた邪気を放出する――まともに浴びずとも息が詰まりそうな毒気は蛟龍の持つ猛毒だ。しかし、奚宣は背中の剣指を少しひねっただけで拮抗してみせたばかりか、毒気を全て荒泉に押し返してしまった。
「私を甘く見るなよ」
奚宣は冷ややかに告げると、口元を汚血で汚す荒泉に踵を返した。
***
夜明けが近付き、空がだんだんと赤く染まっていく。素白は奚宣から半歩離れた後ろをついて、二人の家へと帰っていた。
奚宣は変わらず弟子思いで優しい。が、荒泉の前で見せた姿が頭にこびりついて離れない。素白は半歩前で揺れる黒髪をおっかなびっくり見つめながら、口を開けては言葉が出ずに閉じてを繰り返していた。
一体何を聞けばいいのだろう? 怒ると鬼神のように恐ろしいことか? 自分で手強いと言っていた蛟龍にあっさり打ち勝ったことか?
それとも、刺青のことか。奚宣の顔に彫り物があるところなんて見たことがない――もちろんそんな話をされたこともないし、隠していることも知らなかった。奚宣が天界から地上に落とされたことは当人から聞かされているが、そのことと関係があるのだろうか。
思案にふけっていると、奚宣がふわりと素白を振り向いた。
「どうした? 何か気になるのか?」
優しい口調、心配を満面にたたえた顔。その左目を見たとき、素白はあっと声を上げた。
朝焼けに溶けるように、刺青が消えていく。くっきりと彫られていたはずの紋様がどんどん薄くなっていき、やがて化粧を落としたかのように消え去ってしまった。奚宣がずっと漂わせていた威圧感もいつの間にかなくなっていた――そこにいるのは正真正銘、素白の敬愛してやまない師尊の奚宣だ。
「……ああ、これか。驚かせてすまなかったね」
呆気に取られている素白の視線にとうに気付いていたのだろう、奚宣は左目の横を撫でながら柔らかな笑みを浮かべた。
「大丈夫、気にしなくていい。今回は少しやりすぎてしまったようだ」
「はい……」
腑に落ちない答えだったが、素白は大人しく頷いた。何かきっと、弟子であっても軽率には話せないことなのだろうと自分に言い聞かせる。
ふと、素白は何の目的も果たしていないことを思い出した。荒泉から仙気を取り戻すばかりか、拘束されて奚宣に助けられて帰路についている。
「あの、師尊。僕」
「仙気なら、私が買い付けておいたよ」
言いかけた素白を遮るように奚宣が言った。袂をまさぐって出てきたのは、内側から発光する小さな巾着袋だ。
「どうしても心配でこっそりついて行ったのだが、競りの席に姿が見えなくてね。まさかと思って競りに参加したのだが、無事競り落とせてよかったよ。帰ったら戻してあげよう」
奚宣はそう言うと、素白の頭を優しく撫でた――いつもと変わらない温かさだったが、なぜか心が緩んだ心地はしなかった。
仙妖伝奇 故水小辰 @kotako
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